
架空のロックバンドのスピンオフ小説を更新しました。
通常、小説『Drive to Pluto』では作中の日付を明記していますが、この話はどの時間のなかにも収まらないかもしれません。

あとになって、また釣りに行きたいなあと思い出せるぐらいの遠足の記念写真を撮りたかった。
事前に読んだ方が内容がわかりやすそうな関連作と、登場人物相関図は、上記リンク先の作品ページにも掲載しています。
今回もあとがきとして元ネタの紹介などを書きます。蛇足ですので、作品読了後にお楽しみください。
登場人物紹介
詳細: 創作バンド紹介まとめ
Drive to Pluto 青野理史・田邊徳仁、SIGNALREDS 井上和磨・古屋慧介、環-Tamaki- 嘉嶋元気・和田幹央、カメラマンの毛利信護(モールス)が登場します。
伝聞で、ファイネッジレコーズ社長の木場太陽、SIGNALREDS 小澤拓人、環-Tamaki- 土家泰寛(ツッチー)が登場します。
関連作品
カメラマンの毛利(モールス)と Drive to Pluto の関係は小説『Without Your Sound』を、
SIGNALREDS の高校時代および古屋美鈴については小説『別の人生』を、
青野(Drive to Pluto)の故郷・茨城県古河市の話は小説『flat』をご覧ください。
援用したモチーフ
『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン
https://www.shinchosha.co.jp/book/214702/
この世でいちばん美しい釣りの文学であり、私の好きな小説ランキングの1位か2位に入る作品。
先日、3度目か4度目を読み返しました。
自分のおかれた状況が初読のときから変わったことで、作中「ユーモラスな最底辺」として描かれたが事象や人々が本当に「最底辺」であったこと、それでも「最底辺」のものごとを冷たく切り捨てずに、ユーモラスな眼差しを持ちながら、優しさに甘んずることなく鋭いエッジの短文で切り取ってくれたことを、染み染みと感じて、やはり本当に好きな作品だと思います。
本作『東京、東京』のタイトル案には当然『東京の鯉釣り』とか『Carp Fishing in Tokyo』とかもあったんですが、語呂が悪かったので、オマージュである=影響下にあることはサムネイル画像のみで示しました。
現代英米翻訳文学の読者としては、藤本和子のブローティガンの翻訳文体は絶対に触れなければなりません。これは安い文庫本なので、とりあえず手にとって読んでほしいため、この記事で内容は引用しません。
1974年に書かれた、こういう「軽い文体」の小説翻訳と訳者あとがきは、当時の翻訳文学に革命的な影響を及ぼしました。ざっくり言うと、翻訳者にして小説家である村上春樹の文体に影響を与えている、はずです。
というわけで、創作バンドの作中で言えば、英文学科卒(らしい)小澤拓人、青野理史の文体・詩作には確実に影響の波がつづいており、他の作品でいえば『Solarfault, 空は晴れて』の森澤晴記はじめ同級生・後輩たちの作品にも連鎖しています。(『Solarfault, 空は晴れて』では、小澤拓人(や同時代の青野理史)の作品が『Solarfault, 空は晴れて』登場人物の作品に影響を及ぼしています)
ノレない人はとことんノレない文体らしく、自分の周囲でも「分からなかった」という翻訳文学ファンがいました。
私は釣りはしませんが、林や海辺を散歩しているときに感じる、鳥などの小動物の声や枝葉やさざなみが揺れる静かな時間の瞬きを、この小説を通じて追想します。
こういう短くて切れ味の良いもの(3000字ぐらい)を今回『東京、東京』で書きたかったわけですが、自分の文体のノイジーさのために7000字を超えました。
文体もシューゲイザーってこと?
ブローティガンは最近新訳の詩集が刊行されました。嬉しいと思います。
http://millionyearsbookstore.com/works/ここに素敵なものがある
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784910053349
『東京』サニーデイ・サービス
収録曲『青春狂走曲』は小説『ミッドナイト・ヘッドライト』の制作時に要素として援用しました。たぶん『青春狂走曲』はジゾ君のための歌でした(青野の歌ではありませんでした)。(青野には Drive to Pluto の歌がある。)
『東京』のジャケット写真の撮影地を訪問したブログを紹介します。
https://kikuchidesu.hatenablog.com/entry/2017/04/10/205832
サムネイル画像のパロディは当初は『東京』パロディで作っていましたが、途中で『アメリカの鱒釣り』に変えました。
『雨月物語』上田秋成
8月のブログ記事で紹介しました。→ 今月の活動報告 2023年8月 https://libsy.net/blog/3244
青野が紹介した話は『夢応の鯉魚』。ググったら原文や個人による現代語訳がヒットします。
市ヶ谷の釣り堀
2018年にいちどだけ訪問しました。『連ねたり想う』で書いたヨーロッパ周遊旅行を終えて、東京に帰ってきたあと、最初に遊びに行った場所でした。
あの釣り堀のあの感じ、コンクリートに囲まれ、中央線の乗客に見下され、水は濁り、春には薄色の桜が舞う、あの風景が私にとっては「東京」らしい東京でした。
こちらの釣り堀は熱帯魚店も営んでいるので、たぶん青野はスピッツ「ヒバリのこころ」の2番を口ずさんでいたと思いますが、モールスには聞こえなかった模様。
らくがき
猫に例えての所感
へっぴり腰の猫、大物を捕まえてご満悦の猫
カシマとモールス
あとがき
東京
このブログ記事で私の意思をすべて表明することは出来ないので、触りだけを。
「地方 対 東京」という対比の「構造」を組み立てるときに持ち出される「東京」という場所は存在しない。東京もひとつのローカルな場所に過ぎない。新宿、渋谷、市ヶ谷、それぞれの肌触りは全く異なる。
東京都に生まれ育った私はそういう実感を持っている。
「地方 対 東京」の「構造」を組み立てるときに表現される「東京」は集合体である。
「地方」とひとまとめにされる複数の地域のなかのひとつに住んでいる方は、東京のなかにもグラデーションがあることが想像できないかもしれない。
(この前読んだTwitter投稿 田舎の人間である私は「東京はぜんぶ都会だ」と思っていた。
https://twitter.com/North_ern2/status/1697234789856842116)
東京都出身の私があなたの住む場所のことを体感として「知らない」ように、東京にも知られていない場所はたくさんある。
作中では、田邊徳仁・秋山聖(Drive to Pluto)は東京都の西部の福生市〜昭島市付近の出身で、彼らが中央線に乗ってすこし東側に引っ越した先の三鷹市もまた東京のなかではひとつの「ローカル」である。
環-Tamaki- のカシマ以外のメンバー3人(土家・弟子丸・和田)は東京都八王子市出身(おそらく弟子丸・和田は西八王子、土家はそれよりも山間または郊外)。
東京の西側のあの雰囲気は、田邊・聖――土家・弟子丸・和田の間で合意がとれるけど、それでもその2つの町は違う場所であると彼らは互いに思っている。地図上で見るよりも感覚として遠いのである。
地方都市のなかでも巨大な都市である京都の中心部で過ごしてきた小澤・井上・古屋(SIGNALREDS)、
北関東の小さな地方都市に生まれ、ただし「都市」である大宮には高校時代からアクセスしていた青野(Drive to Pluto)、
まだ詳細は語っていないが少なくとも当時の長野新幹線・長野駅から新幹線に乗って上京したカシマ(環-Tamaki-)、
実家が中央線・高円寺のモールス、それぞれにとって「東京」の意味と手触りは異なる。
そして誰にとっても、「東京」の手触りは自分で選べるものではない。
最近、「地方」出身の友達と話して、「私の生まれ育った場所には岩波文庫が置かれた書店は無かった」と告白されて、それは絶対に私を責めるために言った言葉ではなかったけれど、それでも私はたまたま「東京」に生まれ育っていて、しかし「東京」といっても「○○区」ではない「なんにもない田舎」(この場合は「住宅地しかない」という意味であり、思えば私の活動圏にはチェーン店ではない巨大な古本屋があったし、電車でわざと乗り過ごせば高校をサボって美術館に行くことができた。全くもって「なんにもない」ではなかったが、それでも感覚としては「住宅地はなんにもない」だった)の出身だったので、私は東京都出身でも、イメージされる「東京」の出身ではなかったと思っている。けれど、私は「東京」の出身だった。
「友人の生まれ育った場所に岩波文庫が置かれた書店が無かったのは私のせいではない」と、「構造的に」理解しているが、「東京」は「友人の生まれ育った場所」を搾取しているのかもしれない。
大学では「地方」から上京してきた(おそらく実家の太い)同級生の方が、私よりも熱心に美術を学んでいて物知りだった。関東にある実家から大学に通っている学生と、地方から上京してきた学生は、(当時は誰も直接実家の話を打ち明けなかったけど)実家の太さがまるで違ったと今では推測できる。
一方で上京するための元手がなく、「地方」では社会構造的に稼ぐことが出来ず、上京を夢見みながらできない人々のことや、若者がみな上京して「地方」を離れていく地方のことも考える。
(そして「全部東京でいいじゃん」という声に抵抗して、「地方」にかけがえのないものを築こうと努力する人々のことも。→ 「どうして盛岡で?」Club Change 20周年イベント『FIGHT BACK』にKen Yokoyama、The Birthday、10-FEETら戦友が集結ーー店長が語る死守し続けた20年、地方都市・盛岡から灯し繋いでいく想い https://spice.eplus.jp/articles/311900)
私が東京都に生まれ育ったのは偶然だ。でも私は実感として「東京」に帰属している。
生まれ育った環境の「文化資本」の差による階級格差については、「NHKテキスト 100分de名著」の『ブルデュー「ディスタンクシオン」』解説:岸政彦 の回を参照。これも500円ぐらいの安くて短い本なので、ご一読ください。
私が2018年に海外遊学しているとき、ロンドンやベルリンやウィーンの博物館・美術館の山のような収蔵品を見上げて、これらの作品にすぐにアクセスできる当地の美術家志望との落差を想像しながら、西洋中心規範のもとにある現代アートにとってはユーラシア大陸の極東の「地方」である「東京」のことを考えていた。
そのころに懐かしい風景として夢に見たのが市ヶ谷の釣り堀のある風景だった。高層ビルに囲まれて、春には桜が花筏を浮かべる、封建時代の古城の外濠の、静止した水の臭いがたちこめる風景は、「なんにもない」場所として私の印象に残っていた。
『東京、東京』と響くタイトルは、水面に映る虚像でしかないイメージの「東京」、複数人が集まればそれぞれにとって異なる意味をもつ「東京」、または、東京駅行きの特急列車が終着地への到着を知らせる車内放送だった。
ほかにもきっと意味はある。もし、あなたが気づいた意味があったら教えてほしい。
以下、執筆時のメモやSNSに書いたことのコピペ
・ローカルとしての東京
→ローカルとしての、他の地域
・夢
・懐かしさ(ノスタルジック)→学校→少年時代
→ の同調圧力、ホモソーシャル
→へのしなやかなプロテスト
・『夏が終わる』
・カメラマンの視線、引いた視線
【旧世代:ホモソーシャル的な、未成熟な少年の蛮勇】
→ まるで古屋・井上が奔放な小澤の手綱を締めているように見えるけど、本当は古屋の手綱を小澤が締めているのだと思う(そのおかげで、SIGNALREDSは悪の再生産をしない、はずだと期待している)
【男らしさの渦からは(恋愛その他もろもろも巻き添えにしながら)ぬるりと抜けている青野/マチズムとナイーブさが同席する田邊】
【適当にいなすのがうまい和田】
【新世代:予感。無自覚なまま、規範からは抜け出そうと、】【年が近いカシマくんとはちょっと落ち着く。】
【なんとなく、頭の中ではGrapevineの『UNOMI』がかかっています なう】
【2020年語だと「チルい」 comfort】
【もっと文字数減らしたかった!!!!が、この文体ではノイズが味なのかもしれない。文体がシューゲイザーかな??】
・自分の作品をひとことでまとめるなら「誰も無垢じゃいられない」かな その射程には読者も入る
▼ 執筆時の様子を公開しています。(テキスト制作を配信できるサービス)
https://txtlive.net/lr/1694521464837/s1694849537816
以上、話が長くて申し訳ない(このあとがきの文の長さは小説本編と同じくらい)けど、私には適切な批評家がいないので、これぐらい情報を開示しないと、読み落としたくないのに読み落とす読者が出てくると思うので、自分で批評を書いています。
いま書いている(11月11日の文学フリマ東京で落とす)小説の進捗
悪いんだなこれが。
でも本作を書いたおかげで少し手触りが分かりました。
新作はカシマの話がもっと聞ける内容になっています。読み応えのある作品になるように頑張ります。
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