もちろんやることなんてなく、片隅の安くて固い椅子に腰掛け続けて、残りのシフトの時間を潰している僕に、「ヒマなんだろ?」と語りかけるその男の洞察力と度胸はさすがのものだった。「こんな天気のいい日に部屋の片隅に、残り何時間かな? ボーッとしてなきゃなんないなんて。見てよ、この三月のぽかぽか陽気。コブシなんて咲き始めちゃって……」
「そっすね」僕は椅子から立ち上がる。「ホント、そっすよ」尻が痛いのでときどき立ち歩く。「でもいなくちゃなんないし」
ギャラリーの入り口は全面ガラス張りで、中の様子も外の様子もよく見える。通りは日差しにぬくまりのぼせてバカになりそうなくらい暖かい。
男の顔は長い前髪に隠れ、大きなティアドロップのサングラスを額に掛けている。軽やかな薄手のジャケットを羽織った内側はハワイの気配が漂う柄シャツだった。ニッコリ笑って言葉を発する口角がフライドポテトみたいな半月型を描く。
専門学校生活の一年目が終わった。二年掛けて写真を学ぶ。初年度修了展ということで、仲間五、六人で融資してギャラリースペースを借りて写真展を開催した。誰も彼も無名なので客入りは無く、来たとしても知り合いの知り合いに留まった。しかし曲がりなりにも渋谷という立地なので、バカで下品な喧騒のなかに文化人の姿もなきにしもあらず。来訪者のこのアロハな人物もそういう大物の気がした。いやそうじゃない、ただのヤバいセンスの自由業だと理性の七割がたは諦めきっていたが、頭の中の残り二、三割が、彼の真実を見極めようと、というか夢見ていた。スカウト、サクセスストーリー、とか。
「きみの作品どれ?」
話を聞く姿勢にチェンジし、なるべくしっかりと、謎の人物の隣に立つ。
「これです」
高架下で撮った同級生の姿。公園であくびする猫の接写。走ってく子供の後ろ姿。雨上がりの庭。
スカウト、サクセス、そういう輝かしいカタカナが頭のなかで散り散りになる。ねえな。改めて見ても凡庸なショットだった。
「フィルム?」
「そうです」
「現像は?」
「……写真屋ですね」それもチェーン店の。思想のない現像。
ふうんと彼。
「猫なんて、いいんじゃないか」
「被写体が良いんですよ。特に動物は」
特に野生に対してカメラマンは待つしか出来ない。しかし僕には山中で待つだけの度胸も忍耐もない。出会えるのはせいぜいのところ犬か猫だ。
謙虚ではなく卑屈なんだと思うし、謙虚になれるほどの実力もなく、卑屈さのエアバッグを膨らませて我が身を傷つかないようにするので手一杯だ。
この展示が凡庸なのは分かっていた。僕だけではなかった。僕が、こいつなら写真で生きていけるんだろうと評価していたクラスメイトは、ここに誰も出品していない。
「最近は何かしてんの?」
「最近? 専門行って、バイトたまに行って……」
「バイト何してる?」
「薬局で品出しとレジを、でも辞める気です」
写真に対して近付いたり遠ざかったり、吟味するように眺めながら、ふいにかの人物は立ち止まり、懐を漁る。
「このあとヒマ?」
と名刺を差し出された。
「五時に終わりです」
畜生あと三時間もあった。一緒に見張り番をするはずの女の子がどっかへ消えたままだったのだ。
「ここにおいでよ。渋谷だから。そこの坂下ってった反対側、まあ分かんなかったらお巡りさんとか、ここの電話番号に聞いて。五時過ぎごろにじゃあ、よろしく」
矢継ぎ早にまくし立て、言いたいことだけ言って踵を返しギャラリーを出て行った。でも少し経って回れ右して戻ってきた。
「ねえ名前は?」
「毛利信護」
「オッケー毛利、それと好きなミュージシャンは?」
「いないです」
この人は喋る時に口角が上がりっぱなしになるらしい。
「分かった」
その回答は不服だったのかもしれない。そう気付いたのは改めて名刺に目を通してからだった。
『Finedge Records 代表取締役社長 木場太陽』
大通りをシンボリックな直線で描いただけの、正確さを欠いて使い勝手の悪い地図に『Finedge Records』の所在地が記されている。畜生あと三時間もある。
女の子が戻ってきて、女の子に小言は語らず、でも君が相当留守にしてたんだから僕もシフトを抜けていいっすよ、ね、と告げて、少し外に出られたのは午後四時になってからだ。暖かかった日差しは後退し、冬の翳りの冷えが戻りはじめている。喫茶店まで歩き、コーヒーをテイクアウトした。
白いコブシが開き始めている。季節がぬるまる。この一年何をやっていたのか、あと一年がこれから始まり、その次の一年は未来が用意されていないので、過去も未来も気だるくて仕方ない。
なんでオレなんだろうなあ。木場太陽氏があと一時間遅く来ていたら、今頃あの子に名刺を渡してる。