別の人生

「あんの阿呆どもがあああああ、っざけんなやゴラアアアあああああああああ」

 放課後の音楽室、組木細工風の床板の上に男子高校生一人分の荷物が散乱するなか、古屋慧介(17)は吠えて席を立ち、教室の端に寄せた椅子どもの鉄パイプ製の脚部に蹴りを入れた。
 古屋少年の面立ちは実年齢に対して大人びていた。制服を脱いで黙っていれば現場3年目の若い教員を偽ることもできそうだった。より率直に悪口を言えば彼は老け顔で、一時期「お父さん」という仇名が定着しそうになったときには古屋は凶暴なやり方でクラスメイトを諌めた。人を殴りはしなかったが、その面立ちに比例して彼の一喝には年齢相当ではない迫力があった。
 女にモテたいという原初的な憧れで4人の男子高校生がバンドを組み、文化祭の演物にすることを条件に放課後の音楽室を週一で借りることまで許されたというのに、バンド結成の翌月から音楽室に通うのは古屋ひとりになった。ほか3人の男子高校生は、ギターを弾けない男でもギターケースを背負っているだけでそこそこにいけてるアクセサリーとして成立することに小賢しくも勘付き、また弾けもしないギターの弦をおさえて指を痛めるのにも早々に飽きたところだった。
 練習に来ない連中に古屋が憤っているのは、古屋が生身の女子よりも音楽の女神(ミューズ)に惚れ込んだせいではない。彼とて女子とは付き合いたかったが、自分で決意して始めたことを成果もなしに放り出すのが腹立たしかった。練習に来ない奴らはせいぜい、鏡面に映るギターケースを背負った学生服の自分の姿になんとなく浮ついた満足を抱いて、なんとなくだるいから今日の集まりをサボり、かといって街で遊ぶこともせずに各々家に帰って漫画でも読んで、だらけた時間を過ごしているはずだ。週一回の練習にさえ本気になれない半端なオトコがオンナを幸せに出来るはずがない……彼が信じる世界観は年齢不相当に保守的だった。
 怒りに任せて蹴っ飛ばされた椅子が鈍くて冴えない金属音を響かせた。一人で喚き散らす古屋の目の前にあるヤマハの学校教育用のドラムセットは、山祭で小学生のときから毎年太鼓を叩いているからという理由で、バンドを組む時に古屋に宛てられた。古屋にしても、当時は、ギターよりは指先の器用さを求められず簡単そうだと思って引き受けた。少年の判断が正しかったのかは本人のみぞ知るところだ。
 腹を立てて暴れる古屋は、己がたてる騒音と振動でドラムセットの表面もわずかに震えだすことに気がついた。一瞬耳をそばだてる古屋に、微動するシンバルとドラムヘッドが囁いてそっと進言した――「音楽室に来はって楽器にさわらへんあんさんも、おともだちとよう似てはりますなあ」。
 最後に大きな悪態をついて、古屋は床に散らかした荷物のなかから教本とスコアを取り出してメトロノームをセットした。少年は四つ打ちの練習から始めてぎこちないフィルインを回した。

 空き教室で暴れたあとに一人で楽器を叩いているのだから人払いは出来たと思っていたが、思いのほか没頭した練習の合間に、学校指定のセーターを肩に巻きつけたニキビ面のメガネと、チューインガムをくちゃくちゃかみながらギターケースを2本持たされたデブ(ギターケースの片方はメガネの私物だろう)が、一昔まえのドラマの演出のような大仰な拍手をしながら尊大でゆっくりとした歩みで音楽室に踏み入った。上履きの色は1年生の黄色だった。セーターのプロデューサー巻きはこの当時すでに痛々しいオールドファッションだった。
「ドラムやってはるん……」とメガネが慇懃に褒めそやして話を広げようとした矢先、へんちくりんな闖入者に頭がかっとなった古屋は「てめえ、おい」と1年生を遮った。「音楽室やろ、ガム噛むな、ちゃんとなおせや」
 太ってはいたがまだ腹回りに現在ほどの貫禄がなかった井上和磨(15)は芝居がかった態度を改め素早く謝り、ガムを紙に吐いてポケットに仕舞った。平謝りさせられる同級生を横目に小澤拓人(15)はセーターを肩から解いた。そして「先輩、俺らギターとベースやってまして、バンドメンバー探してるんですが……」とごく丁寧に要件を切り出した。


 SIGNALREDSのベーシスト・井上和磨とドラマー・古屋慧介は交流のあるバンドのリズム隊を招いて時おり小規模な宴会を開いた。ある夜に都合が付いた面々はSIGNALREDS井上と古屋、波止場のサウダーデのドラマーの臼井崇、IZREのドラマー兼エンジニアの勝浦恭太郎、Drive to Plutoドラマーの田邊徳仁。良い泡盛を仕入れていると評判の池袋の沖縄料理屋で、話題はシグナルレッズの結成時に遡る。
「ほんッまにおっかなかったなあ、あんときの古屋さん」
「いつの話してんねん、和磨」
「あっはっは、古屋さん、真面目。ほんとに真面目だったんだ」
「でもイメージできちゃうな、古屋さんそういう御人だもん」
 切れた真面目なナイフだった古屋のエピソードがなごやかに語られるあいだ、宴席で一番年若い田邊は、自分自身の高校時代を思い出しながら、思い出がまだ酒のつまみに語れるほどに自分から遠ざかった過去ではない気がして、黙々と相槌を打つにとどめた。
 基本的には気の利くメンバーしか招待されない酒宴なので、そのうち勝浦が「真面目といえば田邊くんもきっとそうでしょ」と口をつぐんでいた後輩に話題を差し出した。
「そう、なんすかね。おれは高校のときは、ずっと赤点で、サボってばっかで、学校にパッド持ってって練習してましたね」
 田邊は愛想笑いも嘘をつくこともできない。それらの能力が不足しても食いつなぐには困らなかった。
「サボり方が真面目やなあ」
 しみじみと古屋は目を細めた。
 自分のバンドの後輩どもとおなじようにこの若い後輩には放っておけない所があった。SIGNALREDSは高校の先輩後輩だったオリジナルメンバーに加えて、京都市内の楽器屋で迷子になっていたギタリスト・御手洗一誠を拾った。ビクター犬のように首を傾げてぽつねんとバンドメンバー募集の掲示板を覗き込む御手洗青年を通りがかりのSIGNALREDSが遠巻きに注視していると、小澤と井上のあいだを古屋がさっそうと飛び出して声をかけて、腹をすかせているという御手洗にファミレスで目玉焼きハンバーグをおごり、バンドのギタリストが1人増えた。
 自分のバンドのメンバーである生活力皆無の御手洗に対して(御手洗のTシャツの半分は古屋のお下がりだ)、よそのバンドのドラマーの田邊はどんな環境に置いても生き残れるタフな青年に映ったが、若くてタフだからこそ綻びる脆さもあると古屋は感じ取っていた。手間のかからない若者だけど、究極的に言えば音楽をやっているやつに脆くない者はいないのだから、古屋は同じ楽器を繰る後輩の世話を焼きたくなった。
 「老け顔の少年」だった古屋の顔立ちは年齢に追いついて、今では年齢と顔が釣り合うどころか、面倒見の良い先輩であるだけでなく「少年の心を忘れない若々しさ」みたいな印象を漂わせている。いつかは掃いて捨てた「お父さん」という仇名も本物になる日が近づいていた。
「そうだ古屋さん、奥さんってもう臨月だっけ?」
 最近のトピックスを思い出した勝浦に、何かお祝いしなくっちゃと臼井が続けた。以前に妊娠の知らせを聞いてからあまり間が空いてなく、月日の流れの速さに田邊が当惑していると、古屋本人が苦笑いで遮った。
「トツキトウカ言うてるやろ。臨月のおくさん置いて飲み会なんか来いひんわ」


 田邊は、言外に示される無償の好意を感じ取ることが非常に苦手で、古屋の長女の誕生の報告を聞いたとき、古屋さんは嬉しくてしょうがなくて周りの皆に連絡を入れていると考えた。実のところ赤子の眠る家に招待されたのは、バンドメンバーの井上のほかには、田邊しかいなかった。出産祝いの品に迷って青野に声をかけたとき、同じ話題が青野の方から切り出された。
「古屋さんちのお子さん生まれたんだ、女の子だっけ?」
「女の子で、そう、名前はなんだっけな」
「みれいちゃんだろ。顔出しに行くなら覚えて行ってやれよ」
「あれ? お前は……」
 青野はゲラに赤を入れながら空いた方の手をひらひら振った。「俺は小澤さんとでも飲んでくるよ」
 当日は梅雨明けと共に一気に夏めきだした陽気だった。贈答用のゼリーを買って田邊は和光市駅前で井上と落ち合った。
「いや、被ってもうたな」首筋に汗を掻く二人の手には銀座千疋屋の紙袋。
「すいません」
「俺らバンド一同からってことにしよか」と井上は笑い飛ばした。井上は何度か新居に招かれたことがあり、駅徒歩10分弱の道案内を行った。
「俺ら出身がおんなじやから、地元のおみやげはみんな知っとってなあ。愛美さんは東北の出身やけど、古屋さん色々もう買うてはるやろ。愛美さんは臼井さんの同期の元カノの友達で……」
 案内された古屋家は若い夫婦の新生活には素敵な清潔感のあるマンションだった。出迎えたのは父親の方だ。古屋は普段会うときよりも少し声を落として友人の来訪を喜んだ。彼はラルフローレンのポロシャツが似合っていた。
「愛美さんも待っとったし、上がりや」
 部屋は白い壁に無垢材の家具。初産の産後の経過が良い古屋愛美が挨拶にソファから立とうとして、男3人に一斉に宥められたが、「お茶を入れるのにも立つじゃない、それもさせてくれないの?」と彼女は一笑した。夫婦はフルーツゼリーを喜んだが、実はつい先日に京都の老舗和菓子屋から夏の天の川を模した美しい水羊羹が届いていた。それは小澤の実家の新作で、通常は店舗のみの販売で配達サービスは行っていない。古屋夫婦は日持ちしない水羊羹の食べきれない分を田邊に持たせた。
「拓人も呼ぼう思うたんやけど、むこうが渋ってな。あいつも難儀なやっちゃなあ。えらい真面目な顔して、ほんまに悪いけど、古屋さんのそういうとこ見てしもうたら俺が鈍るーとか言うとったなあ」
 婚約を機に禁煙した古屋は煙を吐くように息をついた。「拓人の気持ちもよう分かるわ。俺はたぶん変わってもうた。愛美さんは俺の支えやけど、〝これ〟はほんまに……。拓人が歌ってくれへんようになると、俺が美鈴ちゃんを食わせられへんし、拓人はあれでええよ」
 生まれ落ちてからもうすぐ1ヶ月を迎える赤子は日の当たる明るい寝室で深い眠りに就いていた。白いレースカーテンが午後の風を受けて膨らむと、寝室の入り口に立つ面々の合間を涼風が吹き抜けた。
「慧介さんとも話したんだけど」後ろから愛美がそっと語った。「わたしたちが望んでね、生まれてきてくれて、とってもかわいいのに、ときどきどうしたらいいか分からないの。信じられないぐらいお腹が痛くて『お母さん頑張って』『大丈夫ですよ』って病院で皆に言われたけど、美鈴はただわたしを通り過ぎただけだった。わたしを通り過ぎて、慧介さんのことも通り過ぎて、むずがったり眠ったりしてる」
 夫婦は限りない愛情を赤子へ向けると同時に、命の誕生を前に打ちのめされて何度も頭を垂れる思いを味わった。
「どう言うたらええのかな。俺らはアーティストとか言うて、楽器叩いて曲作っとるけど、なんぼええ曲作っても『赤ちゃんがやってくる』より不思議でおっかないもんはないんやろな」
 ほんまに、どっからやってくるんやろ。
 古屋夫妻の諦めに似た畏敬の念の片鱗を客人2人は受け取って、井上は小澤の直感の鋭さに改めて舌を巻いた。判断の材料を持たない田邊は、ベビーベッドの隣に屈んで美鈴に目線を近づけた。かつて自分たちすべてが〝これ〟だった事実は信じがたく、田邊もまた途方に暮れた。この手のフラジャイルな感傷から距離を置いて田邊が見ないようにしてきたことが、海底から昇る泡のように時間をかけて田邊の感慨を満たしはじめた。昔みんなが通ってきたはずの誰も覚えていない場所を通過して現れたばかりの、ふたりの赤ちゃん。
「いじわる言うけどな、田邊くんがびっくりしてくれて嬉しいわあ」
 どう答えていいのか分からないときには沈黙を選んできた田邊に、古屋夫妻は赤子の手に触れてみることを促した。生まれてきてくれた我が子への慈しみと、慈愛を知らない朴訥な青年にも夫婦と同じ諦念の片鱗を味わわせたい気持ちはないまぜになって、なぜか古屋夫妻が田邊に対して寄せた限りない慈愛は鈍い田邊でも察することができた。向けられた愛情には身を捩りたくなるこそばゆさがあったが、田邊にとっては意外にも悪い気はしなかった。美鈴の未発達な小さな指にそっと自分の固い指を寄せると、美鈴はごくわずかに田邊の指を触れて握った。まだ日焼けしたことのない美鈴の下膨れの頬には午睡のうちに垂れたよだれの筋が見えた。
 ぼうぜんとしながら美鈴のするがままに指を握らせて、そのやわらかい感覚とは別に、田邊は思索に意識を連れ去られた。例えば今とは異なる別の自分がいた可能性に思いを馳せた。例えば、おれが古屋さんだった人生。おれが別の人と一緒に住んでいる可能性。
「23歳差かあ」程よい頃合いで井上が茶化した。
 帰り際まで田邊の胸の奥には和毛で覆われたような感情が後を引いた。
「娘はやらんぞ」と古屋は父親になってはじめての冗談を言った。


「きれい」
「うん」
 透明なキューブに入った3つの水羊羹は、夜空の星を象った色付きの寒天が上澄みに浮かび、星々の下には濃紺色と紫色のグラデーションがミルキーウェイを模して沈殿している。底部はねっとりと黒いこし餡で、都市の夜空の色に似た赤みのある闇の色だった。
「小澤くんがつくったの?」
「小澤さんの京都の実家の店だよ」
「小澤くんのおうちはすごいんだね」
「小澤さんもたぶんすごい人だよ」
 こういう問答をするときの聖の言葉はほとんど無意図で無意味であると徳仁はもう知っているけれど、頷いて、ともに青紫色の甘く透明な美しい細工を見つめた。
 視線を落とす聖の長い薄金色の前髪が、美しい水羊羹に触れそうになった。徳仁は指を伸ばそうとする。髪と水羊羹が触れないように。聖に伸ばした右手の人差し指を握っていたのは美鈴の指であのやわらかい指――それだけのことを一瞬で考えた、というよりも、ためらいが脳裏を走ったことに、我に返った徳仁は驚いた。
 演奏中に足を取られて致命的な失敗を犯さないように、徳仁はあらゆる「雑念」を人生から注意深く排斥したはずだった。排斥したつもりの思念はじつは意識の奥に沈殿しているだけで、ふと心がさざなみ立つときに、海底の砂のように、不意に巻き上がる。
 聖は自分で髪を耳にかけて楊枝を水羊羹に刺した。聖が他人に見せることのない、痩けた頬骨があらわになった。耳にかけるほどに前髪が長かったことは徳仁の人生では一度もない。徳仁も楊枝に手をつけて、聖が熱いお茶を淹れた。
 めったに食べられない品の良い味を口に運ぶときの沈黙のせいで徳仁はふたたび雑念の去来を許した。いま徳仁のいる世界は「聖の髪に触れた世界」と「触れなかった世界」に枝分かれして、こうしている間もどんどん世界は別れていって、ここにいる自分は自分で思い出せるよりもはるか昔から「選ばれなかった」方の世界にいる「置いていかれた」方の自分なのではないか。星のように、星の数ほどある別の世界で、星クズほどにありえたはずの別の自分の可能性を夢想した。
 もう少しだけ腰を据えて考えたら別の結論に至ったのかもしれないが、徳仁は己の空想を現状に満足できない自分の不甲斐なさのせいにして、ひとまずはそれを結論とした。頭の中の暗闇は恐ろしかった。真っ暗で、どこまでが草地でどこまでが砂利でどこまでが水面か判別できない夜の多摩川を思い出した。
 煎茶をすすりながら、徳仁と聖はもうひとつ残った水羊羹を見た。「みっつめって青野クンの分だよね」食べ残された分を見て一応は聖が尋ねた。
「いいよ」と徳仁は楊枝を差して等分した。
 食べちゃえ。いいの? ……食べちゃえ。

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