山川さんは、岡本太郎さんをどう思いますか?
岡本太郎さんは、自分の職業を人間だと言ったらしいですが、山川さんはどう思いますか?(
2017/01/09 )
お世話様です。質問コーナーに大幅に時間を取られている気がします。友人には「ファ○通のお便りコーナー」とまで呼ばれてしまいました。おもしろラジオDJじゃないんですよ私は。
質問者がわざわざ回答者に私を選んで質問を寄せてくださっているからには、私も独自の回答をしたいとは思うのですが、それにしても守備範囲の斜め上(下? 横?)の質問で困りました。そして回答にも滅茶苦茶時間がかかりました。
平たく言えば「どうって、どうも思わねえよ……」としか回答できません。好意もなければ憎悪や蔑視もなく、その他の感情もありません。特別なにも思わないのです。
ただ、回答に窮したのは、私が岡本太郎について無知だからでもあります。これも勉強の機会だと思いますので、岡本太郎について調べたことや所感をまとめます。
調べ物は下記の順序で行いました。2と3は平行しています。
- とりあえず私があらかじめ持っていた知識+インターネット検索で出てくるような知識で書く
- 美術館や博物館で、作品・資料の実物を見る
- 関連書籍・岡本太郎著書を読む
そして、これは岡本太郎に限ったことではなく、あらゆる内容に対してですが、「どう思いますか」という漠然とした問いの立て方に対しては「どうも思わない」としか答えられません。
0. 前提
問いについて
問いは2つ寄せられているため、それぞれを Q1, Q2 とする。Q1への回答をA1, Q2への回答をA2とする。
Q1. 岡本太郎さんをどう思いますか?
Q2. 岡本太郎さんは、自分の職業を人間だと言ったらしいですが、山川さんはどう思いますか?
画像について
特に著作権表記のない写真は筆者撮影である。その他の写真はウィキメディア・コモンズから引用した。
1. 前知識+インターネット検索での回答
A1. ピンとこない
私はこの「芸術は爆発だ!」のCMを放送しているところを見たことがないし、TV番組などに出演して世間に親しまれていた岡本太郎の姿も見ていない。1970年の大阪万博の時代も味わっていなければ、大阪に行ったことがないので『太陽の塔』の現物も見ていない。
岡本太郎(1911-1996年)は大阪万博への起用・TVCM出演・TV番組出演と、市民へのメディア露出の多い人物だった。岡本太郎と同時代に生きていた人であれば、「よくTVで見る人」というような個人的な記憶で岡本太郎を覚えているかもしれない。私は岡本太郎が出演した時代に生きていないので、そういった親しみはまったく抱いていない。
つまり、私は岡本太郎に対する肌感覚や印象のようなものがない。岡本太郎は芸術家のひとりであるという認識以上の、時代をともにした親しみ(あるいは嫌悪や胡散臭さ)を感じられない。
なので一言で回答するなら「岡本太郎は芸術家のひとりであるが、ピンとこない」。よって「どう
思うか」といえるような印象をもっていない。
A2. 文脈が分からない → 妥当な回答である
岡本太郎さんは、自分の職業を人間だと言ったらしい
とあるが、「らしい」という曖昧な内容にとても困った。他人に質問をするのであれば、自分で質問文の裏はとってほしい。岡本太郎がどういう意図で発言したのかも分からず、そもそも本当に岡本太郎の発言であるかも分からないのでは、回答は「そうですか、勝手にしてください」以外にない。
Googleで検索すると、川崎市岡本太郎美術館 webサイトにQ2の前後のやりとりが見つかった。同美術館館内展示にも同じ文章が掲載されている。ただし、このやりとりがいつ・どこで・誰と行われたかは分からなかった。
ある人が言った
「あなたは絵描きさんでもありながら、
さかんに文章も書くし、
いったいどっちが本職ですか」
「本職?
そんなのありませんよ。
バカバカしい。
もしどうしても本職って言うんなら
『人間』ですね」太郎入門 > 岡本家の人々 > 岡本太郎 > 創る(作品)
美術館内では「多面体・岡本太郎」のコーナーに掲載
やりとりを見ると、岡本太郎の態度は「妥当である」としか思えなかった。
芸術を「絵画」「彫刻」「空間芸術」「音楽」「演劇」「執筆」……などというように、分野を縦割りに考えるのは視野が狭い。作家は絵も描くこともあれば、立体物を作ることもあるし、音楽を取り入れたり、文章を書くこともある。いずれの活動も、何かを表現しようとしているのだから、それは等しく芸術ではないだろうか。
そもそも、芸術にジャンルの区切りはないのかもしれないとも考えられる。
たとえば「絵画と彫刻の違い」はなんだろうか? 絵画は平面(2次元)・彫刻は立体(3次元)と答える方が多いと思う。しかし、絵画(特に印象派以降の油絵)の表面をよく見ると、絵の具の凹凸が見られる。凹凸があるということは、絵画も立体物ではないだろうか? 見ようによっては、絵画を「薄っぺらい彫刻」と呼ぶこともできるかもしれない。
大阪万博に展示された『太陽の塔』はただの立像ではなく、内部が空洞の展示空間になっていた。内部には岡本太郎によるモニュメント作品『生命の樹』や、古代生物の模型、世界各地の民族の民芸品・仮面などが展示され、照明・音響・スクリーン投影を駆使してひとつの世界をつくっていた。『太陽の塔』は彫刻に留まらず、彫刻・空間芸術・音楽などのジャンルをまたぐ総合芸術と言える。
さまざまなジャンルで創作活動をしていた岡本太郎にとって、「絵描き」や「文筆家」などいう肩書をつかって、作家の活動の一側面しか見ない考え方はバカバカし
かっただろう。
「西洋美術史」の進歩
「絵描きと文章どちらが本業なのか」という質問が生まれてしまう背景には、日本という国に「美術」「アート」が根付いていなく、ひとびとから誤解されている問題も現れている。
作家は、自身の直感や天才だけで作品を作っているのではない。作品の背後には作家の思想や理論がある。
作品は、作家の生きた時代の社会問題を表していることもあれば、美術史での前世代に対する批判や新たな提案であることが多い。
西洋美術史は大まかに見れば、前の時代への批判や発展の連続で今日までつづいている。その時代の作家が自分の意見を文章にして表明することは、なにもおかしいことではない。
西洋美術史のひとつの例として、印象派誕生の経緯を紹介する。
写真機の発明は絵画に大きな影響を与えた。これが「印象派」誕生のきっかけのひとつになった。
写真機の発明以前は、絵画が写真の代わりに現実(リアリティ)を写していた。宗教画は、聖書や神話の内容が文字の読めない人でもリアルに感じられるように、物語の説明(イラストレーション)として描かれた。政治の権威が宗教から王族・貴族に移行すると、彼らの権威を示すために豪華絢爛な肖像画が描かれた。芸術家は権力者の要望に答えて絵を描く「職人」のような立場で、自分の描きたい絵を自由に描くことはなかった。芸術家が納品した作品は教会や王侯貴族が独占し、一般に公開されることはなかった。
18世紀の市民革命で王侯貴族が倒されると、権力者が独占していた芸術品が市民に開放され、だれでも芸術を鑑賞できるようになった。また、写真機の発明により、絵画は「リアルな記録を残す」という目的から開放された。これでようやく芸術家はモチーフからも画風からも自由になり、職業によらず誰でも好きな絵を描けるようになった。
そこで当時の芸術家はいままでは絵のモチーフにならなかった「神話にも聖書の教えにも関係ない日常的なモチーフ」や「市井の人々」を描き始めた。リアルな記録は写真が役割を担うようになったので、絵画は写真ではできない「絵の具の特性」や「人の目がどうやって色を認識しているか」を研究するようになった。こうして「印象派」(代表的な作家:モネ、ドガ等)と呼ばれる作品が生まれた。
印象派の行った絵画研究は後年の作家にも引き継がれた。後年の作家は研究を発展させ、それぞれ新しい主義(イズム)を誕生させた。
例えば、点描をつかって人間の目の作用で色を混ぜることを研究した「新印象派」(スーラ、シニャック等)、
写真のような見たままの形ではなく、心のなかの情熱を描こうとした「野獣派(フォービズム)」(マティス、ルオー等)、
さまざまな角度からモチーフを見たり、モチーフの変形(デフォルメ)と再構成を目指した「立体派(キュビズム)」(ピカソ、ブラック等)が誕生した。
このように、美術史は基本的に、古代から今に至るまでずっと先人の知恵と研究の積み重ねでつながっている[1]。
美術が思想によってつくられているからには、作家が自身の思想について文章を書くことはなんら不自然ではない。岡本太郎は縄文美術や沖縄文化などについての文章も書いたが、近現代の作家が古代や異文化を研究して作品の参考にすることはよくあることである。[2]
「美術」と「非・美術」、「西洋」と「非・西洋」
西洋(ここでは「ギリシャ・ローマを発端とする哲学の系譜」を表す)美術の考え方に則って考えると、「芸術家」には大きく分けて二種類の作家がいる。
- A:西洋史に端をなす芸術家
西洋の美術教育を受けた者や時代の主義(イズム)に加わっている者/美術史の更新を目指す者 - B:西洋史を気にしない芸術家
非西洋の者/西洋の美術教育を受けていない者/時代の特定の主義に関係なく制作している者
現在、美術史に残っている著名な作家はほとんどが A:西洋美術史に加わろうとする作家 である。
Aの作家は「美しいから描く」「楽しいから描く」という感情だけで制作するのではなく、さきにふれた印象派のように、当世の政治情勢や哲学などの歴史の積み重ねを踏まえて新しい芸術を切り開こうとしている。
B:西洋史の外側にいる人々 は、西洋美術史ではアウトサイダー・アーティストと呼ばれている。日本国内なら山下清、国外ではヘンリー・ダーガーのような「西洋美術の更新には関係ない作家」が該当する。特定の作家に限らず、ある(ギリシャ・ローマの影響を受けていない)民族の美術・工芸品もここではBに含める。[3]西洋史にとって彼らは「アウトサイダー」という扱いだ。
岡本太郎美術館や書籍で再確認したことだが、B:時代に加担しない作家 に思える奔放な絵・彫刻をつくった岡本太郎は、若くしてパリに留学し、美術だけではなく最先端の哲学・思想も学んでいた。彼は西洋美術・西洋哲学の王道を学んだ最先端のインテリだった。
よって岡本太郎はインスピレーションや才能だけで制作したのではなく、常に彼自身の哲学・理論にもとづいて、美術史を更新するために表現活動を行っていた。その一環として文章による啓蒙活動も行った。作家にとっては、作品を制作することも文章を書くことも、根底にある論理や意図は一貫している。絵描きが文章も書くのは自然なことだ。
A:アカデミックな芸術 の出身である岡本太郎は、B(未知の世界)の縄文土器・沖縄文化 などにアプローチをとった。未知の世界の美しさを世間に啓蒙しただけではなく、『太陽の塔』などの自作品の造形のヒントにもしたのだろう。
さらに一歩進めて言えば、岡本太郎は「芸術家」が A:教育に基づく者、B:教育に触れていない者 の枠組みに区別されている現状そのものを良しとしなかったのではないだろうか。
B:学のない者(アウトサイダー・アートや民族の芸術)という括りは、 A:学のある者 が「自分たちとは違う物珍しい存在」として定義したものだった。
原初、芸術はまじないや祈りのために作られたり(洞窟壁画)、生活必需品として自然に発生したものだった(縄文土器)。人々の素朴な願いを「学のある自分たちとは違う存在」だと枠でくくることは傲慢な態度だ。芸術は特権階級のものではない[4]。現代でも、教育の有無に関わらず誰もが好きなように芸術作品を作ってよい。
芸術家が絵しか描かない者だと思われることもバカバカし
ければ、芸術家という職業が特権階級のように扱われることもバカバカしい
。芸術は誰にでも開かれている。
すると「どうしても答えるなら『人間』」という答えに帰結することも頷ける。たしかに、生き残り戦術以外の目的でなにかを作る動物は、我々の知る限りでは人間だけだろう。
2. 美術館を訪問して
私は2011年の国立近代美術館「生誕100年 岡本太郎展」(2011年3月8日-5月8日)に行ったのだが、そこで紹介されていたはずの生涯や作品についての解説が全く記憶から消えてしまっていた。せっかく作品が現存しているのに、実物を見ないで論じるのはひどい知ったかぶりだ。
岡本太郎を改めて鑑賞するために、岡本太郎の出生地にある川崎市岡本太郎美術館に足を運んだ。
2-1. 「岡本太郎とメディアアート展」
当日は企画展「岡本太郎とメディアアート展」の会期中だった。常設展の展示室が改装工事中で閉まっていたが、企画展示室を抜けた先のギャラリースペースに立体作品がまとまって展示されていた。絵画作品・土器の作品などは、企画展示室内に展示されていた。
トンネルのような入口を抜けると、赤い光で満ちた天井の高い細道に出る(写真)。順路は薄暗く曲がりくねっていて、安直なたとえだが産道を進むような心地がした。展示室内も部屋が円形になっていたり、一般的な美術館よりも曲線的でわざと込み入らせたような作りになっている。恐らくは定められた順路を行くのではなく来館者自身が好きなように鑑賞してほしいという美術館(ならびに作家自身)の意向だろう。率直に言って、胎内巡りのような冒険気分を味わえて楽しい。
企画展は、岡本太郎が日本のメディアアート(テクノロジーや社会の関わりを積極的に利用する芸術)の作家山口勝弘に与えた影響を軸に構成されている。岡本太郎は若手作家への支援も積極的に行い、その支援を受けた作家のひとりが山口勝弘だった。
内部に音響設備を有する展示空間をもった『太陽の塔』も、内部体験型の芸術である点でメディアアートのインタラクティブ性(作品←→鑑賞者の双方向性)に通じるものがある。
2-2. 芸術におおらかな時代だった?
館内は岡本太郎や関連する作家の作品だけでなく、年表や家族写真などの資料展示も充実している。そのなかには岡本太郎の著作の紹介もある。
1954年に発売された『今日の芸術』はベストセラーになったという。実際に何部売れたのか、また当時の社会での受容や熱狂のほどは分からない。しかし芸術に関する本がベストセラーになることについては、2010年代に生きている私から見ると「おおらかな時代だった」ように思えてならない。当時のひとびとに知的好奇心と「芸術の本」を読む余裕や向上心があることに、現代の知的好奇心のまずしさを反省してしまう。
現代でベストセラーになるのは自己啓発本ばかりだ。つまり、ひとびとは直ちに自分の利益になるような知識、あるいは自分を癒やしたり鼓舞するような格言を求めている。
いますぐ役立つ知識でもなく、場合によっては鑑賞者にショックを与える芸術が、(たとえ物珍しさからだったとしても)市民に受け入れられていたことについては、「羨ましい」と思ってしまう。
2-3. 「キャッチコピー」化・「キャラ」化
今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。岡本太郎 (1999)『今日の芸術』光文社 P. 98
岡本太郎の言葉は明瞭で力強い。言葉の明瞭さは、ときにキャッチーさに取って代わる。『今日の芸術』本文ではこの強烈な宣言の理由をきわめて丁寧に解説しているが、現在では岡本太郎の強烈な言葉が「キャッチコピー」と化して独り歩きしているように見える。
後年の岡本太郎はメディア露出を積極的に行い、「芸術は、爆発だ!」という印象的な「キャッチコピー」が流通した。岡本太郎がメディアに歩み寄った真意についての考察は後の章にまわすが、岡本太郎という作家の性質はその表面だけを受け取られて「キャラ化」してしまいやすいだろう。
たとえば作家の竹を割ったような性格や理論は「まっしぐらな性格」という類型化で捉えられ、「そういうキャラ」としてデフォルメされた理解をされてしまう。見方によれば「かわいい」とも言える漫画的な画風や、『太陽の塔』のように顔のついたオブジェクトも、独立したキャラクターのように見える。
そしてそもそも「太郎」という平易な名前が、岡本太郎のデフォルメされた理解=「キャラ化」に一役買ってしまったのではないだろうかと、図書館の芸術コーナーに並んだ「太郎さんの○○」というようなタイトルの背表紙を眺めていると勘ぐってしまう。
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↑ キャラ化する岡本太郎と作品の例「コップのフチの太陽の塔」
後年の作家であり存命の村上隆や奈良美智は、アートに「キャラクター性」を積極的に取り入れている。両者はアート(=高尚なもの)とキャラ(=マンガ=低俗なもの)が混ざり合っているアンビバレンスな様子を、アート作品の新たな形態として表現している。
3章で紹介する書籍『黒い太陽と赤いカニ』にも指摘されているが、漫画家の父をもつ岡本太郎の画風は、村上隆や奈良美智のアプローチを先取りするものだったかもしれない。
2-4. 縄文土器
縄文土器の実物も見たことがなかったので、東京都埋蔵文化財センターを訪問した。ここは縄文時代〜江戸時代の埋蔵品の展示だけでなく、縄文時代の竪穴式住居の遺跡を復元した「縄文の森」がある。
縄文土器に美観を見出したのは岡本太郎がはじめてらしい。それまで縄文土器は学術対象として系統別に分類されるのみで、そこに造形としての美を認める人はいなかったそうだ。岡本太郎は自らカメラを手に取り、その造形美を伝えるために縄文土器を撮影した。
1951年、岡本太郎は東京国立博物館で縄文土器に出会い、激しい衝撃を受ける。翌年、身術雑誌「みづゑ」に「縄文土器論」を発表。これが従来の美術史を塗り替えるような、一大センセーションを引き起こすことになる。
ここからは、後述の椹木野衣『黒い太陽と赤いカニ』を併読している。
岡本太郎は、渡来人の伝来以前に日本列島に存在した「日本人のルーツ」を探していた。
奈良・京都で見られる美術工芸品は、中国・朝鮮半島から移住してきた渡来人が稲作・漢字・仏教などとともに伝えたものを取り入れてアレンジしたものだ。日本美術史では、大陸由来であったはずの奈良・京都の様式を日本美術の「伝統」と呼んで、それが今日まで続いている。現代のひとびとが想像する「和風な芸術」――水墨画や仏像は、大陸由来の文化を踏襲したもので、日本列島の土着の文化ではないということだ。
岡本太郎は、大陸の渡来人の影響を受ける以前に日本列島に存在した造形物を探していた。そこで発見したのが日本の土着民族による縄文土器の文様だった。
縄文土器の特徴は粘土の分厚さと凹凸の大きい装飾だ。一方で弥生土器以降の焼き物(=大陸の技術による焼き物)は装飾が少なく粘土も薄い。焼き物では使う粘土が分厚いと粘土に空気が混ざりやすく、焼成するときに空気が膨張して爆発するおそれが高くなる。弥生土器以降の薄い焼き物のほうが分厚い縄文土器よりも焼成しやすい。
という粘土焼成の科学的知識を、古代の日本列島に住んでいたひとびとが知っていたかどうかは分からない。ただ私は縄文土器の文様を見て、わざわざ不合理な形状になってしまうほどの力強い信念・執念のようなものを感じた。
発掘された縄文土器には、装飾の用途が不明なものや、そもそも何に使われたのか分からない土器もある。隣に展示されている弥生土器・須恵器以降の焼き物にはとてもシンプルで(この機能美も私は美しいと思う)、縄文土器に見られた「よく分からない執念」はどこにもない。この薄くてシンプルな形は、後年の時代の須恵器を経て、古墳時代・飛鳥時代・平安時代・室町時代・江戸時代・明治時代から現代の食卓に至るまで各時代で出土している。カラフルに絵付けされた江戸時代の絵皿を見ていると「和風だな」と自然に思う。
一方で縄文土器からは、現代人が想像できる「和風」は感じられず、未知の異文化として感じられた。弥生土器風の無駄のないシンプルな作りの壺は現代にも引き継がれているが、縄文土器の肉厚ではげしい様式は、縄文時代の終了とともに完全に途絶えている。
現在の日本人と呼ばれる人々は、日本列島の先住民族である縄文人と大陸から来た渡来人が婚姻して生まれたという。血脈として縄文人は残っていても、縄文人の思想・芸術は完全に淘汰されてしまったのだと、展示室に並ぶ焼き物を見て思った。
3. 書籍を読んで
3-1. 椹木野衣『黒い太陽と赤いカニ』
椹木野衣 (2003)『黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本』中央公論新社
[amazonjs asin=”4120034712″ locale=”JP” title=”黒い太陽と赤いカニ―岡本太郎の日本”]岡本太郎を語る書籍は大量にあるが、(学生時代に氏の講義を受講していたこともあり)椹木野衣氏の美術評論に親しみがあるためこの本を手に取った。以前書いた記事「(やさしいということに対する選書)」でも同著者の美術評『原子心母―芸術における「心霊」の研究』を紹介している。
芸術評論はすぐに絶版になるので本当に困る。困るというか、芸術の需要のなさにこの国の文化的貧しさが見て取れてしまい、危惧を覚える。なんとかしてテキストだけでも参照できるように、電子書籍化が進むように願っている……
追記:2012年発行『太郎と爆発 来たるべき岡本太郎へ』河出書房新社 に『黒い太陽と赤いカニ』の内容が収録されているようです。
詳しくは『黒い太陽と赤いカニ』本文を読んでほしいが、椹木氏は岡本太郎が実行していた「対極主義」をさまざまな面から鋭く指摘している。
「対極主義」
対極主義とは、簡単に言い換えるなら「対立するふたつを矛盾したままぶつかり合わせる」試みである。一見ヘーゲルの弁証法と似ているが、大きく異なる点は弁証法のように相反するふたつの命題を止揚(アウフヘーベン)してひとつの新しい命題に昇華するのではなく、ふたつの命題を合体(止揚)せず反発したままにしておく点である。
岡本太郎は、ヘーゲルの弁証法のようにふたつの対立を丸め込むのではなく、対立するふたつが相容れない状態で発生するぶつかり合いのエネルギーこそが「芸術」であると考えた(だから、「芸術は爆発」である)。逆に言えば、芸術とは「対立するものがぶつかり合っている瞬間に発生するエネルギー」であるため、対立をやめてしまえばエネルギー=芸術は発生しない。ぶつかり合いのエネルギーについては、加速器を用いた原子衝突実験を想像するとなんとなくイメージできるかと思う。
岡本太郎は自身の芸術作品だけでなくその活動において、高尚なものと俗なものといった対立する2者を両立させて、その2者の反発によって生まれる混乱を芸術活動に利用した。
岡本太郎のあり方にはたとえば次のような「対極」があった。
- 絵画のタッチにマンガ的な表現を採用することで、芸術(まじめなもの・笑えないもの)にマンガ(俗なもの・不真面目なもの・笑えるもの)を内在させ、鑑賞者に困惑の作用を与えた
- 本人のメディア露出により、A : 芸術家(高尚な存在)と B : 芸能人(お茶の間の変なおじさん)の間をまたいだ
(同様に芸術家が芸能人化/芸能人が芸術家化している人物として、三島由紀夫・池田満寿夫・荒木経惟・村上隆/片岡鶴太郎・ジミー大西・ビートたけしの名が挙げられている。)
ほかにも著者は、岡本太郎の『太陽の塔』や大阪万博の構造にも対極主義のようなあやうい両義性
(P. 218)があったことを指摘している。
岡本太郎は『太陽の塔』内部の「いのり」の空間と題された場所に、世界各地の仮面・神像などを展示した。これらはケースに入れての展示ではなく、実物を野ざらしで展示することを予定していたため、他の博物館から資料を借りることはできなかった。展示に使われた資料は、このプロジェクトのために世界各地にチームを派遣して新たに収集された。
ただし、民族学をはじめとした博物資料(=珍品)の収集行為は「異文化を征服し戦利品を強奪してくる」植民地主義の思想が発端である。(P. 214)学術的調査のなかに植民地主義という暴力性が内在している民族学も、岡本太郎の「対極主義」の一側面として切っても切り離せないだろう。
そもそも相反するふたつの命題を闘争させたまま止揚させない「対極主義」は、「人類の進歩と調和」という大阪万博のテーマとまったく真逆の思想である。
常に権力や既成概念に逆らう反抗のひとだった岡本太郎が、万博という国家体制に協力した当時、知識人から少なからず批判されたという。(P. 210)さらに岡本太郎の万博展示に対しては、万博反対派からの批判だけでなく、万博内の建築家からも困惑の声が上がった。
今でこそ『太陽の塔』しか残存していないが、1970年当時の万博会場は、高さ30m・内部に居住空間をもつ、空中都市のような大屋根でおおわれていた。
近代万博は当時最先端の建築技術を示す場でもあった。水晶宮(1851年ロンドン万博/1936年に火事で全焼)もエッフェル塔(1889年パリ万博)も、近代万博が生んだモニュメントである。それら19世紀のモニュメントが、市民にとって見世物のように消費されたことを反省し、大阪万博では固定のモニュメントに頼らず「大屋根という空中回廊でつながった会場のトータルな環境」をあたらしい都市モデルとして提示しようとした。
しかし大屋根の構想が決まったあとに『太陽の塔』の建築が決定した。しかもその見た目は、19世紀建築の水晶宮やエッフェル塔の時代をはるかにさかのぼる、原始的で素朴なモニュメントだった。内部も、ガラス製の水晶宮や鉄骨組みのエッフェル塔とは真逆の、外光の入らない暗い空間に、近代以前の呪術的な展示品が集められている。
『太陽の塔』はあらゆる意味で万博の理念とは真逆の存在である。そんなものが、当時の最先端建築である大屋根をつきやぶって現れた。これが大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」に対して突きつけた「対極」思想なのは明らかだろう。
万博を終え、当時の技術の結晶だった大屋根やその他のパビリオンは取り壊されても、『太陽の塔』だけは現存していることが、今ではなにか象徴的に感じられる。
歪められた忘却
日本の芸術、さらには日本社会に対して徹底的に前衛を突き詰めた岡本太郎だったが、現在日本で岡本太郎はその功績や思想を忘却されていると思った。
とくに対極主義による「マンガのように見える作風」や「芸術家のお茶の間進出」、万博の『太陽の塔』のキャッチーな造形により、知識人からは道化た俗物とみなされ、巷のひとびとにとっては「変なおじさん」の認識を出なかった。
私も岡本太郎については「(なんかよく分かんないけど)色々やった作家らしい」というあいまいな認識でしかなかったし、「『よくあるアバンギャルド』な作家だよな」と過小評価していた。岡本太郎自身が、現代に「よくあるアバンギャルド」を最初に作り出した開拓者だったにも関わらずだ。
また岡本太郎の忘却は、彼の思想が後年に「美術」よりも「呪術」に接近したためでもあった(P. 242)。美術はこれまで論じてきたように「後世に理論体系を残し、歴史をつないでいく」ことが前提になっている。一方で呪術あるいは祝祭は、あとに何も残さないほど日常のエネルギーを使い切る出会いの体験であり、たとえるなら爆発である。
そして自分の美術作品が取り壊され、忘却されることも、受け入れていたようである。
たとえば、苦心して仕上げた旧東京都庁舎の陶板壁画が、新潮社への移転のため取り壊されることになったときも、太郎はその保存のための自作の擁護をいっさい、行わなかった。その保存を強く希望したのは、むしろ見るに見かねた周囲だった。
椹木野衣 (2003)『黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本』中央公論新社 P. 245
2018年現在、岡本太郎の認識が「変なおじさん」であることは、私には岡本太郎が意図したとおりの忘却の成功であるとは思われない。現状は岡本太郎がかかげた対極主義のような、清濁併せ呑んだうえでの忘却ではなく、情報の選り好みを重ねて「岡本太郎のおもしろいところ/かわいい作風/当たり障りのないところだけを覚えている」歪められた忘却状態であると思われる。
『明日の神話』は1968-1969年にメキシコで制作された巨大絵画。その後長く行方不明になっていたが、2003年にメキシコで発見され、2008年に改装した渋谷駅に恒久設置された。
失われた絵の発見と再展示から10年がたつ。『明日の神話』と同時期に制作された『太陽の塔』が大阪でふたたび担ぎ上げられようとしている一方で、一日平均約328万人が利用する乗降人数世界第2位の駅[5]ではだれも足を止めない。
ともあれ、まずは私のなかで岡本太郎の認識は更新された。
戦前にパリで学び、西洋の論理的思想を貪欲に学んだ岡本太郎は、芸術が西洋史をもとにした一元的な価値観に陥ることを嫌ったはずだ。それゆえに岡本太郎はマンガという非・芸術を作品に取り入れたり、日本が内在する非・日本であるような縄文文化・沖縄文化等に関心を持ち、最終的には芸術よりも原始的な呪術に回帰しようとした。しかし岡本太郎本人はまぎれもなく西洋思想を学んだ芸術家であり、いまさらアウトサイダー・アーティスト(非・芸術)にはなれない。岡本太郎は自身の二律背反を終生闘わせて、その闘いから芸術を生み出した。
論理を詰めて非・論理に至ったが、本人はまぎれもなく論理の人なので論理から脱せられない――要約するならそんなところだと思われる。
この結論に対して「どう」思うかといえば、やはり「どう」も思わない。ただしそれは、「どう」などという「好き・嫌い」の感情で丸め込めるような簡単な反応はできないという回答拒否である。
あなたはこれだけのことを知った上で「どう」思いますか。
3-2. 岡本太郎『今日の芸術』
岡本太郎 (1999)『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社
初版は1954年・光文社
最後に岡本太郎本人の著書を読んだ。なんとなく、言葉のアクが強くて読みづらいのではないかと身構えていたので後回しにしていたが、心配は杞憂だった。いままで読んだ本のなかでは一番平易だったかもしれない。とにかく明瞭な言葉に、本当に彼は「考える作家」だったのだと気付かされた。
私は以前から、現代アートに対する偏見をなくして鑑賞しやすくなるための「よくわかる美術史」のような本を作りたいと思っていた。そこで構想していた内容はおおむね『今日の芸術』が50年以上前に先取りしていた。(『今日の芸術』が発表されたのは1954年だったので、1960年代からのここ半世紀の動向は抜けている。)なんで美大在学中に読まなかったのかなあと悔やんでいる。
1954年刊のこの本で示された問題提起は、2018年現在、まだ、全くといっていいほど解決していない。日本にはアートが根付いていなく誤解されたままだし、もっとひどいことに岡本太郎が没したことで、岡本太郎自身も「よく分かんないアートの一部」に飲み込まれてしまった。
(と、この本のあとがきで赤瀬川原平が指摘している。赤瀬川原平(1937-2014年)は戦後日本で「絵ではないアート」を推進していった最初の芸術家のひとり。アートを作ったり、そのアートのせいで逮捕されて前科持ちになったり、小説で芥川賞をとったり、写真を撮ったり、さまざまなことを行った作家だった)
ともあれ『今日の芸術』は、びっくりするほど平易な文章で、美術・美術史の誤解を解きながら新たな問題提起を広げる名著だった。「アートよく分かんない」のひとも、「アートを見るのは好きだけど、もっと勉強したい」ひとも、私みたいに勉強が足りない作家にもおすすめです。
大学を卒業してから勉強不足に気づく日々です。美大生、もしこの記事読んでたら座学は寝てないでちゃんと学べよ! 特に美術史!!! 本当に!!!
4. まとめ
いずれ芸術(特に西洋美術に影響を受けた現代美術)についてはきちんと文章にしなければと思っていた。岡本太郎を通じて、はからずしも西洋美術史解説・現代美術解説を書くことになり驚いている。
西洋の思想はヘーゲル的な弁証法が芯になっている。「今日を反省して明日に活かせば、明日はもっと良くなるはず」という一本道の上を進歩していくのが弁証法だ。西洋美術史もまた思想の引き継ぎによって止揚を繰り返し、今日の現代アートまで続いている。西洋思想の最先端を学んだ岡本太郎は、最終的に西洋思想を貫く芯である弁証法も疑問視し、エネルギーのぶつかり合う不均衡な闘争状態から芸術が生まれると訴えた。
脚注1にも書いたが、現在の美術で通説とされている「ギリシャ・ローマに端をなす西洋美術の一本道上の進化の歴史」は、西洋中心主義で権威主義の画一的な見方だ。自身がまぎれもなく西洋美術の出身でありながら、最終的にその否定へ思想を進めようとする覚悟は凄まじかったと思う。
というわけで、最終的な回答はこちらです。
A1. 忘却してはいけない存在
A2. そんなバカバカしい疑問を誰も抱かないように、日本の芸術は先へ進まなければならない
ここまでお読み頂きありがとうございました。
万が一、ここまでの記事で明らかな誤字脱字、明らかな事実誤認がありましたらご指摘いただけると大変ありがたいです(事実誤認の場合は恐れ入りますが、関連書籍・情報元などのソースを添えていただきますようお願いします)。
なお「私の岡本太郎持論とは異なる」「私は山川の論を気に入らない」「山川の論をこう改善すればもっと良くなると思う」というような、批判の殻をかぶった対話は受け付けられません。それはあなたのwebサイト・ブログ・本などで、あなたの著作として書いてください。
なお今後は、今回のような「どう思いますか」「○○らしいですが、そこのところどうですか」などの曖昧な質問には答えません。質問の曖昧な部分を潰すためにこれだけの説明を要するからです。というか、他人に質問をする前にはせめてweb検索をしてください。
「いや、じゃあ質問に答えるなよ」「もっと雑に答えろ」という意見は正論だと思います。ですが芸術に対する話題(しかも、質問者の芸術に対する無知によるもの)に対していいかげんに返すことは出来ませんでした。
現代の日本で、メディアに取り上げられているアートが、訳の分からないもの・ただ奇をてらっただけのものを一緒くたにアートと呼んだり、とくに思想のないトリックアート(例:ものすごくリアルで本物と区別がつかない細密画)ばかりであることをやるせなく思っています。それはアートではなく「工芸」です。
工芸あるいはデザインがアートよりも低俗だと言っているのではありません。アートも工芸・デザインも、ともに人類に必要なもののはずです。ですが、いまはアートだけがなかったことのように無視されています。(脚注4を読んでください。というか、この長い記事の要約が脚注4です。)
工芸やデザインというものは、いまの生活・いま直面している問題に対して、快適に過ごせるように施す対処療法です。工芸やデザインは、誰でも理解できて不快のないものでなければなりません。たとえば「前衛的すぎて人間には装着できない指輪」や「何が書いてあるか分からない本」は、工芸やデザインとしては失敗です。いまをよりよくすることが工芸・デザインです。
一方でアートとは、まだ明らかになっていない問題を告発し、生活に新しい視点をもつことです。先の例に上げた「人間には装着できない指輪」「読めない本」を通じて、人体の機能や認識力の限界に気づくことができます。アートの目的は未知・未来に向けられています。
両者は、アートが問いを見つけ、工芸・デザインが解決をする、という関係になります。つまり世の中には両方とも必要です。
しかし日本は市民革命を経ていないので、アートの精神は機能していません。その結果なにが起こるかというと、「いまある問題の原因を直視せず、永遠に対処療法だけを繰り返すもぐらたたき」のような状態に陥ります。問うことを忘れているので、いくら問題に直面しても抜本的解決に至りません。自らが「権利を勝ち取り、権利の上に立つ市民」であるという意識がないので、誰かが問題を解決してくれるまで待っている日和見主義に陥ります。
このようなアートと工芸・デザインの関係、そして現状「アート」と呼ばれているもののほとんどが「工芸」に過ぎない、という私の指摘に似たものが、『今日の芸術』P. 205「芸術と芸ごと」に書かれていました。
つまり、1954年から今日に至るまで、日本人のアートに対する思想は進歩していないということです。
さて、ここまで本当にお疲れ様でした。
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これはここだけの話ですが、clapを実装してから、本来の「web拍手」の機能(ご意見・ご感想・ねぎらい)の投稿は一切なく、貰うのは質問ばかりです(しかも「野菜味のタバコとPM2.5味のタバコと爆竹と接続しているタバコどれがいい?」のような、ウンコ味カレーvsカレー味ウンコのような質問)。そりゃあ質問コーナーとしての用途もありますので、誰でも質問して良いのですが、いずれも「こんにちは」という挨拶もなしにただ用件を送りつけるばかりです(匿名で!) web拍手を置いたのは私なので、どう使われようと文句はないのですが、やっぱり労いが一言もないとどんどん心が荒んでいきます。本当に最低限の挨拶は大切なので、よろしくお願いします。お願いしましたよ。公共交通機関の乗降時やコンビニ・スーパーでの会計時にもきちんと挨拶・お礼は言いましょうね。いくら仕事とはいえ皆つかれた人間なのですから。
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長らくの読書、お疲れ様でした。今後不定期にこういったノンフィクション・解説系の記事も書いていきます。重ねてよろしくお願いいたします。
脚注
資料・参考文献
- 椹木野衣 (2003)『黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本』中央公論新社
- 岡本太郎 (1999)『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社
- 川崎市岡本太郎美術館 2018/01/30 22:00 JST
- 川崎市岡本太郎美術館「岡本太郎とメディアアート展 山口勝弘――受け継がれるもの」配布パンフレット
- 「岡本太郎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2018/01/30 22:00 JST
- 「太陽の塔」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 2018/01/30 22:00 JST
免責事項
私は岡本太郎について今まで話題に出したことはありませんでした。私に対し、なぜ岡本太郎についてピンポイントな質問をするのか、今でも全く分かりません。質問者は岡本太郎について特別の感情(親愛、尊敬、軽視、不信、その他なんらかの形での特別視)があるのでしょうが、私は岡本太郎を特別視したことは今までなかったし、これからもないと思います。
また、この質問が回答者から匿名で寄せられたものである時点で、これは「岡本太郎についての質問者と回答者(私)による対話や議論」ではなくなっています。以上はすべて「岡本太郎について私が書いた、誰でも読めるテキスト」です。
この文章を読んだあと、質問者または読者は、「あなたの岡本太郎論」をもとに「山川の岡本太郎評価」への反論や意見をぶつけたくなるかもしれません。
しかしこのテキストは、質問者への対話や議論のために書かれたのではなく、「質問者本人にかぎらず誰もが読める記事のひとつ」になりました。
このテキストへの評価・反論等について議論を求められても私は答えられません。あなたの持論は私への対話としてぶつけるではなく、ご自身のブログ等でテキストとして行ってください。
(「批判は受け付けない」というものではありません。明らかな誤りがありましたら指摘していただけると大変嬉しいです。
ですが、「私の岡本太郎持論とは異なる」という形式での批判は受け付けません。それは批判ではなく感想文ですよ)
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