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前回の記事「フィクションの薄暗い欲求を現実に持ち込まないために」をお読み頂きありがとうございます。また紹介ツイートやRT,like(fav)等も大変ありがたく思います。

私の言葉足らずのため、いくつか誤解を招いていることをお詫びいたします。
本記事の前半では前記事の要約と、言葉の誤用やわかりにくかった箇所への追記を掲載いたします。後半は前記事で書き忘れたことや、さらなる脱線です。
(言葉の誤用は前記事にも修正を入れています。)


要約

  1. フィクションの薄暗い欲求を現実に持ち込まないために、個人の嗜好が「悪」であることや、他者の来歴・プライバシーを害しうるという自覚をもつことが「望ましい」。
  2. 前記事では書かなかったこと:これは各々の良心に対する提言であり、良心に対する議論は終わりがない。ここでは結論をくださないし、どこかで割り切る線引きも必要である。
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言葉の誤用について

1.「フェチ」:

ここでは医療用語の「フェティシズム」ではなく、俗語としての「嗜好」=「萌え」という意味で使用しました。以降は「嗜好」「萌え」「趣味」などに言い換えます。

2.「リョナ」(猟奇+オナニー):

サディズムを扱った作品と誤解していましたが、ウィキペディアの当該項目では「『暴力を受けている被害者(美少女)に感情移入をする』性別変化願望とマゾヒズムの融合した状態」と書かれている、というご指摘を受けました。
ただ、Wikipediaで挙げられている参考文献は一つしかなく、リョナラー自身が執筆していると思われるニコニコ大百科ピクシブ百科事典の同項目は、はともに「人によってリョナのなかの何に萌えているかは異なり、『サド/マゾ』『性別変化願望』等と一言でにくくることはできない」という立場を取っています。
ここでは語源(猟奇+オナニー)に立ち返り「猟奇・苦痛を描いた作品への嗜好全般」を総称してリョナと呼びます。よって文中で例に上げた「フィクション内の合意のない暴力」は、「リョナ」と読みかえても差し支えないと思われます。

3.「セカンドレイプ」:

性犯罪被害者に対して、第三者が精神的な苦痛を与えること。例として、事件の取り調べによって被害の詳細を思い出す、マスコミに報道される、被害者に落ち度があると第三者に印象づけられるなど。

「被害者が『フィクションによって』苦痛を負うことまでセカンドレイプと総称するのは誤用である」という指摘がありました。ご指摘の通り、「性犯罪を扱った作品の存在自体」がセカンドレイプであるとは思いません(端折った書き方をしてしまい、誤解を招き、失礼いたしました)。


私の文章について

  • 迂遠で、蛇足をはさみ、断定を避ける書き方をします。短絡的な結論をくださないように努めています。論文ではなく、結論のない読み物です。
  • 話題はしばしば飛躍します。最初に提示した結論に落ち着くことよりも、自分でも思ってもみなかった着地点を文章を書きながら発見することを目的としているからです。
  • 私の発想はおそらく普遍性からはズレており、バイアスがかかっています。(しかしながら、バイアスのかかっていない思想はありません)
  • たぶん小説作品のほうが言いたいことを上手く表現できているので、気になる方は同人誌『Cipher』をご覧ください。本作はフィクションの娯楽が現実生活を食う話でもあります。

っていうのを、ブログ(=ノンフィクションであると多くの人は信じている媒体)で書くのは難しいと思いました。


表現の補足

前回記事のこちらの部分(太字の箇所)に「分かりにくい」というコメントがありましたので追記をさせていただきます。

わかり手さん達の意見は、
「フィクションと現実を分けて考えろ、現実では成人した子供に甘えてはいけない」
「しかし『フィクションの趣味と現実の虐待を一緒にするな!』と叫ぶオタク自身が、『それを現実でやるなよ』という外野からの注意に烈火の如く怒る。それこそ現実とフィクションを混合しているのではないか」
に集約されます。

端折った書き方をしてしまい、大変失礼いたしました。こちらに整理し直しました。

「そのフィクションを現実でやったら虐待である」という指摘は、「フィクションと現実を混同しないように」という注意喚起です。これは「フィクションと現実を混同しかけている人への注意」であるので、フィクションと現実を分けられている・分かっているという人に向けられたものではありません。

しかし、フィクションと現実を混同しないようにという注意喚起に対して「そんなことは分かっているから水を差さないでほしい」という反論が多く寄せられました。注意喚起は「分かっていない人」のために書かれたものですが、反論は「分かっている人」からされました。

「分かっている」のであれば注意喚起は無用のはずですが、「分かっている」はずの人々から(脊髄反射的に)反論が寄せられているのを見るに、口では分かっていると言っても本心では区別しきれていないため、頭に血が上ったのではないかと(私は)考えてしまいました。


魔女集会タグ作品について追記

私も、はじめてわかり手さんの「魔女集会タグによく描かれる内容は、現実でやったら毒親なので注意」という指摘を読んだとき、正直に言ってショックを受けました。

投稿された魔女集会タグ作品全般に対して、私が観賞者として感動した点は、血の繋がっていないもの同士でも種族の垣根を越えた信頼関係を結べるという点でした。拾われた時にはやせ細っていた子供が、立派に成長するビフォー・アフターの様子も感動的でした。ここでは「家族関係は血縁だけでなく偶然によって繋がれていても良い」ことが肯定的に描かれており、私はそこに感動を覚えました。だから「その甘やかしが毒親に通じる」という指摘を読んだときは、まるで私の感性が毒親と同じであると言われたようにも聞こえてショックを受けました。

わかり手さんはメンタルヘルスに関するwebサイトを運営しており、毒親の被害者とも交流があると思われます。常日頃から毒親の当事者と接している方からすれば、魔女集会タグの内容が何の批判も浴びていないことに危機感を覚えたでしょう。
(もしも〈あなたはそれを悪であると知っているが、まだ社会にはそれが悪であると十分に浸透していない概念〉を扱った作品が、萌えると賞賛されて大流行していたら、「〈それ〉を扱った作品が好きなのはいいけど〈それ〉を現実で行うなよ」と物申したくなるでしょう)

魔女集会タグ作品の愛好者からは「私に毒親願望はない」という反論が寄せられました。私もフィクションを観賞しているだけで、実践するつもりはありません。

しかし、フィクションの願望で実践するつもりはないにしても、「その題材は毒親に通じる」という指摘には驚かされました。なぜなら私は題材に含まれた「悪」に無自覚で、わかり手さんの発言を読むまで、魔女集会タグのもつ「毒親(子供と恋人を混同し、子離れできない母親)」的な側面に気付きませんでした。

確かに魔女は長命種族なので、子が先に死ぬため、魔女集会タグとそっくり同じことは現実で再現できません。ですが作中に描かれた「ノリ」、つまり成長した子供を恋人のように甘やかしてしまいたいという気持ちを、それが悪であると知らずに子育てに導入してしまう可能性はあります。

そのようにフィクションの「ノリ」を現実に持ち込まないためにも、何が悪であるのかを知ったり、自分の楽しんでいる作品が現実では悪であるという自覚を持つのが望ましいです。

その題材が悪であるという指摘は、相手の価値観の否定ではありません。「その価値観は否定しないが、『現実で実践してはいけない価値観(悪)』だし『現実に被害者がいる』から取り扱い注意」という注意喚起です。

フィクションは「前例」になる

母親の子離れを扱った文学は、日本だけでなく世界の神話や民話において少ない(ほぼ無い?)という問題も、わかり手さんの発言によって気付きました。

フィクションと現実は混同されませんが、フィクションには、1.これから現実で起きるであろうことをフィクションに託して予言する あるいは 2.現実の凄惨さをフィクションでシミュレートし、より強く伝える という効果があります。1の例としてカフカが描いた社会不安、2の例として実体験を元にしながらフィクションとして戦争を描きなおした大岡昇平作品が該当すると思います。現実で本当に起こしてはいけないことも、フィクションを使えば、現実を汚さずに伝えられます。

フィクションと現実は別物ですが、決してフィクションは荒唐無稽なほら話ではありません。場合によっては、フィクションが現実でまだ明るみに出ていない問題をシミュレートし、普遍化した結末(回答)を描くことで、フィクションが現実に先立ちます。するとフィクションが現実にとっての「前例」になるような事態も起こります。教典や神話がいまだに(信徒以外にとっても)現実に対する示唆を含んでいるのはそのためです。

子供の親離れを扱った物語は古くからありますが(ex.オイディプスの父親殺し)、父親離れではなく母親離れを扱った作品や、死別を除いた方法で親の子離れに成功する物語は、神話や古典といった有名所による「前例」がまだほとんど無いのではないかと思います。
(最近の作品では、親の子離れを題材にしたものがあります。例として、藤子・F・不二雄の長編『のび太の恐竜』や、1997年放送のアニメポケットモンスター『バイバイバタフリー』などが挙げられます。ただ、どちらも育ての親ではありますが、主人公は少年少女です。母親が成人した女として、子とどう向き合うかというテーマは、まだ十分に開拓されていないと言っていいでしょう)

何が言いたいかというと、「親の子離れ」というテーマはフィクションによる「前例」が十分に研究されていません。親の子離れの失敗は現実で問題になっているのに、親の子離れの成功例はまだ研究途中です。
そんななかで、「親の子離れ」の失敗である「子離れできない親」の作品が娯楽としてちまたで流行してしたら、識者はその娯楽が「悪」を題材にしている、よりざっくばらんに言えば「その題材がキモい」ことが周知されていないのではないかという懸念を物申して当然ではないかと思いました。

フィクションはキモくてもいい(が、キモい自覚はあったほうがいい)

私が魔女集会タグ作品を見て思い出したのは、宮﨑駿監督『天空の城ラピュタ』に登場する空中海賊「ドーラ一家」でした。豪快な女頭領・ドーラと、体格は大きくても子供っぽさの残るドーラの息子たちは、作中でとても魅力的に描かれています。

私は『天空の城ラピュタ』もドーラ一家も好きですが、同時に「マザコン」「気持ち悪い」とも思います。それは作品や登場人物を貶めているのではありません。ここでは「キモいことがキャラクターとしての魅力」になっています。題材のキモさと作品の魅力は両立するのです。

ドーラ一家はパズーに協力しますが、彼らは空中海賊なので、作中では悪の側です。その性格や生活が現実で言えば「キモい」ものであっても、彼らは悪人なので何もおかしくありません。その「キモさ」「悪」を、作者も観賞者もちゃんと分かっていなければならないと思います。


ネットでは、作者と読者の差はほとんど無いのではないか

「『フィクションと現実を混合しないように気をつけろ』というのはフィクションを生産する作者に向けられた注意であり、読者は関係ないのではないか。注意の矛先を拡大しすぎていないか」という指摘がありました。

インターネット、特にTwitterにおいては、作者と読者の立場の違いというものは殆どなくなってしまったのではないかと思います。現代のインターネットでは、読者も既に「発信者」として同じ土俵に上がっているからです。

作者が自分の作品を投稿したツイートと、読者が「この作品はおもしろいから皆も見て!」と作品を紹介するツイートで、後者の方が多くRTされることはままあります。読者が自ら感想や紹介文を書かなくても、好きな作品をRT(拡散)することは、投稿作品のコピーを広める再生産にあたります。人の目に触れる回数では、作品の投稿と作品の感想・紹介・RTは、情報の重さに差がないのではないでしょうか。


誰が傷つくか分からないし、誰もが傷つく

「何が悪であるのか」つまり「何が他人を傷つけるか」を完全に把握することは不可能です。

この社会がどのようにできているか、どこに問題があるかは、人によって見え方が異なります。ある人が不安を覚えるものは、別の人にとってはなんてことのないものです。

今回は、わかり手さんが毒親の当事者と接している方だから「魔女集会タグは現実でやったら毒親」という指摘ができました。また別の立場の人からは、別の作品に対して「それは冒涜である」「それは○○を軽視している」という指摘が行われると思います。

人により立場や信条は異なります。私があるものを「悪」だと知らずに発言して、相手を傷つける可能性は常にあります。どんなに慎重に生活していても、すべての「悪」を知っていることは無理です。他者を傷つけずにいること、同時に予期せず他者から傷つけられることを避けることは不可能で、(フィクションに関係なく)人は生きているだけで他人を傷つけるし、傷つけられます。

どんなに勉強したり、慎重に過ごしても、誰かを傷つけること・傷つけられることからは逃れられません。だからいつかは「他者を傷つけることは避けられない」と割り切らなければなりません。


他者の権利と表現の自由

ある立場の自由や権利は、ときに他者の権利と衝突します。前回の記事で例にあげた「毒親的な価値観を肯定的に描いた作品」は、毒親被害者の「そのような作品は見たくない」という願いを害し得るものです。「街で見かけた人が面白かったのでネタにしたい」という発想は、仮に匿名化されていたとしても当人が知ったら気持ちのよいものではありません。

基本的人権を尊重する現代では、表現の自由はとくに重要な権利であり、保証を守られなければなりません。それでもある立場の表現の自由が、他者の権利や自由を侵害することがあります。

そこで表現規制や過度の自粛に陥らずに、かつ他者の権利も尊重しながら、自分の権利を通すには、まずは「自分の趣味嗜好が悪である(かもしれない)という自覚」……というか、「存在するかもしれない、違う立場の人への思いやり」は持ったほうがいいのではないかと思っています。

「罪悪感を抱えて生きていけ」とは思いません。ただ、粘り強く他人と付き合っていこうという、ある種の諦めと諦観のあいだのような決心を頭の片隅に置いておくのが、誰にとっても望ましいのではないかと私は提案します。

(決心をするには、まず誰かに依存することなく自律した自己肯定感が必要です。なかにはいま生きていることが既に苦しく、自己肯定感など保てないという方もいらっしゃると思います。まずはカウンセリングなどで、ご自身の安心を確立することを優先してください。)


おわりに

前記事では大変多くの反響をいただき、とても驚きました。
当初は全レスするつもりでしたが、数が多く返信できなくなってしまい、申し訳ありません。

たぶんこの件については、私がいくら追記しても反論をしたい方がいらっしゃると思います。(良心に対する話題には終わりがありません)
私の意見はとりあえず以上であり、これ以上の追記などは、年月が経って心境の変化があるまでは行いません。
もし「ここだけは否定したい」「ここは追記したい」という箇所がありましたら、当ブログを引用のうえで、ご自身のサイトやブログで行われることを強くお勧めします。

Author : 山川 夜高

山川 夜高

libsy 管理人。DTP・webデザインを中心とした文化的何でも屋。
このサイトでは自作品(小説・美術作品)の発表と成果物の紹介をしています。blogではDTP等のTIPSを中心に自由研究を掲載しています。
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