ある団体の運営に携わっているA夫妻と仕事をすることになって、いまその団体ではInstagramを使って高校生~大学生(若者)を呼ぼうとしているという話や、InstagramはTwitterとちがって非言語的コミュニケーションであるゆえに、言葉の悪意がなくやさしい、という話を聞いた。確かにと思い、私も放置していたInstagramを再開させた。
私がInstagramを苦手に思っていたのは、Instagramにあるのはパーティーや旅行といった「ハレの日」の写真ばかりで、その幸福エネルギーの塊を見るのが疲れてしまうから、とAさんに話した。逆にTwitterを長く続けているのは、Twitterの方がうまくいかなかった日の告白や弱音といった、カジュアルな「ケ」の情報が多く、私にはそうした他者の日常の方が愛おしいんだ、という理屈を使った。まあ、正直なところ、Twitterを使って知ってしまう悪意の方が多いので、もっと良い情報収集ツールがあればTwitterを辞めたいと思っている。
あと、Instagramから足が遠のいていたのは、iPad版の純正アプリがないことと、PCからの写真投稿が面倒くさい(デベロッパーツールでモバイル版サイトを開けば可能)という理由があった。文句は尽きないが、それはTwitterも同じなのでさておき。
以前から、写真を撮ることが下手だと思っていた。なんか上手く撮れない、というか魅力がない。それから、きちんとマニュアル設定で写真を撮れるようになりたいと思っていた。使える技術を増やしたかった。
一眼レフを買った人の失敗談を読むと、カメラが重くて結局持ち歩かなくなってしまうという話がよくあったので、ミラーレスのコンパクトなサイズのカメラを買った。一台目なのでこだわりはなく、Panasonic Lumix DMC-GX7MK2 の標準望遠レンズセットを買った。軽めの単焦点レンズも欲しい。
写真を撮る目的は、記録のほかに、構図や色彩を勉強するためだった。構図や色彩の経験値をつめば、絵や平面デザインの勉強にもなると踏んだ。
最近撮った写真をAさんに見せたら、写真が上手、なんて言われて仰天した。「仮に上手いとしたらレタッチだけですよ」とその場で返した。レタッチと言っても、Photoshopを人並みに使える程度だ。
フィルムトイカメラの色彩の、制御しきれなさは気に入っている。私は現像をこだわっていない。
写真として平面画像に現れる色彩と、実際その場で起こった現実の色彩の差異について(言い換えれば、写真が作為されて、現実よりもドラマチックに・おしゃれになることについて)、私は、まあやむなしというか、記録に感情の混入を避けるのは難しいと考えている。
それでも気にしている点は2点あって、ひとつはトイカメラや特殊なカメラの写りを真似したレタッチはしないようにしている。HOLGA的なトンネルエフェクトをデジタルカメラとアプリケーションで模倣するのは、できるが、文化盗用に近いんじゃないか。
もうひとつはレタッチを過剰にしないよう留意している。あまり美しい世界・ドラマチックな日々を演じないよう、ケの日常を日常に留めたまま(気取らずに)「良い写真」に出来るようにしたい。
写真の魅力は写真に写された何によって生まれるのだろう。例えば、動物の写真を「好きだ」と思うとき、それは写真を好いているのではなく、被写体の動物を好いているのではないだろうか。
なんだろうな良い写真って。
いままでのデジカメ写真をまとめて見ると、フィルムトイカメラで撮った方が良い写真が多い気がした。デジカメを使うとき、記録用途の意図が強いからだと思う。