act.4

魚のヒロイン

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魚のヒロイン

 魚のモチーフのネクタイピンを貰った。銀色の精巧な魚のデザインで、箱に入っているのを、手紙と共に受け取った。

『着てほしい服をいろいろ考えましたが、
 やっぱりいつもどおりが一番にあうしかっこいいので
 ふたりでこれを選びました
 今日 これをつけてくれるとうれしいです(・ω・)』

 数日前に二人が選んでくれたという。誕生日でも何でもない。
 彼女は普段の学生服ではなく、余所行きの奇麗なワンピースを着ていた。深い紺色と白の二色で、膝丈のスカートが扇形に広がっている。襟元をよく見るとセーラー服の丸襟を模していて、それは外せないこだわりらしい。改めて身にまとうとどこかの令嬢のようで見違えた。他にも数着そういったワンピースを持っていて昨晩僕らは共に選んだ。「これ、いいんじゃないか」とザムザが差したのがその紺色で、着てみると彼女に確かに似合った。

「うん。いいね、そんなにフリルっぽくないからすごく落ち着いていて夜には丁度いい」
『かわいい?』
「かわいいよ。しかもガキっぽくない」

 彼女は微笑み、『かわいい』と書いた一ページを僕にも見せる。頷いたが、更に同じページを持って詰め寄るので、感想を求めているらしい。とても困って、令嬢に見違えたと発言したら二人は笑ったが、「いや、でも、本当にそうだよ」とザムザは笑いながら言葉を付け足す。「だってそのツーショット面白いもん。どっかのお嬢さんと黒スーツの付添人だよ? あんたらどこ行くの?」
 などと談話している時に、セレスタが隠し持っていたタイピンを僕にくれた。『ふたりで選んだ』と彼女は記す。二人の貯金で買ってくれた。驚いて返す言葉がなかったが、とにかく礼を言った。「でも、どうしてわざわざ」「だからお洒落してみようぜって」彼女は何も言わず笑っている。
 彼らの選んだタイピンを付ける。派手過ぎないので嫌味が無い。写真を撮って彼女は満足そうにしている。
 殆ど手荷物も無いし、暮れなずむ外の空気が心地良いから駅まで歩いて向かった。遠出。通りに人がいないのを見てザムザに語る。「大丈夫なんですか」
「電車で、壁際の空間を確保してくれたら嬉しい」
「時間に余裕があるので各停で行こうと思いました」
「各停?」
「皆特急に乗り換えるから空いています」
「それは嬉しいね」

 そういう話をぽつぽつとして、透明人間は無賃で、僕らは正規の方法で、丁度来た各駅停車の前方車両の運転席すぐ後ろに立った。セレスタがザムザの手を引いているらしい。僕がそれとなく彼らを庇うように立つ。交わす会話はない。過ぎていく駅名を目で追って数える。タイピンを指で確かめる。
 乗り換えの駅で急行を見送って、時計を見たら十九時を回ろうとする頃だった。夕食の心配をそれとなく考えながら、それでも語ることはなかった。僕は道案内に徹し、歩く時は歩速と通り道に注意した。「着いて来ていますか」一度小声で尋ねると頬を指で突かれた。セレスタが指差して笑った。頬が凹んだように見えたらしい。人々は誰も僕らを見なかった。そういうものなのかと何かが腑に落ちた。今ここで何かが起こっても誰も気に留めない気がした。僕が何をしなくても電車は走り続ける。流れに身を任せて行けばいい。流れの中で少しだけ方向を選ぶことは出来るらしい。得体の知れない僕の友人と今日は映画を見に行く。変わってはいるが、特別異常なことでもない。経過観察というのは特別異常ではないということだ。たとえ変わっていても物事は平然と流れる。だから何も起こらないと思った。僕らに限らず、車内、誰も喋っていない。そして何も起こらないというかすかな震えの上の機微を僕は好んでいるのだと知る。波に寄せる波のように、変わりはすれど変化のない光景を。
 電車は終点に達し、ぞろぞろと降りる人々の一番最後について歩いた。人波に阻まれぬように壁際を歩いた。駅を抜けて街に出て、はじめてザムザがため息をつく。セレスタがその方向を見る。僕は端末の地図で映画館の場所を確かめる。大通りをこのまままっすぐ行けばいいらしい。
「食事は」「どうする?」彼女は答えない。「……買って帰りましょうか」彼は外食出来ない。同意したので、そのまま真直ぐ行く。十九時を過ぎた通りはまだ店も開き活気を帯びている。少し湿度がある。湿った夜風が通りに満ち始めていた。深い紺色のワンピースが夜の空気の中で確かに似合っていた。妙な一行だと今一度思った。予定よりも早く映画館に着いた。
 立ち並ぶ店舗に馴染んだ佇まいで、活発な出入りはない。指差して、セレスタが尋ねる。ここがそうらしい。一階は別の店舗で、二階が劇場になっている。
「行くか?」尋ねられ、まあ頷くが、「喉渇きませんか?」向かいのコンビニで、セレスタはカフェオレを手に取ったが、僕はといえば、買う程何かを飲みたい訳でもないと気付く。肩を叩かれる。「ストロー系がいい」とザムザ。「おんなじカフェオレかな」「誰が払うんですか」「帰ったら返す」その金はどこで得たのか。「最初の一口飲んでいいよ」買って、外で飲んだ。思いのほか甘味が強い。彼に渡せないので僕が手に持つ。傾けずに飲む事が出来るから彼には都合が良いのだろう。二人が飲み終わるまで、時計や風景を眺めて待った。通り過ぎる人々の足元。姿の無い足元と、丸い爪先の革靴を履いた彼女の足元。自分の足元。流れる形。大したことではない。ただ眺めている。流れている。
「映画は好きなんだよ」と彼が秘かに語る。「見ていればちゃんと終わりがあるから好い。劇場に出向くのも好きだった」
「演劇は?」
 カフェオレが空になったらしい。
「好きだった」
 促されてゴミ箱に捨てる。セレスタに、急がなくていいと告げる。
「……高橋さんが演劇部でした。高校の時」
「映画じゃなかったっけ?」
「それは大学」
 ストローをくわえるセレスタが首を傾げる。ザムザが囁く。
「帆来くんの友達の話」
 果たして友達なのだろうか。口唇でセレスタが何かを語る。ザムザが息を漏らして笑う。内容は聞かないでおく。聞かなくてもいいことだろう。彼女がカフェオレを飲み終えたから、向かいの階段を上って劇場に入る。既に入場が始まっていたが、客入りはまばらで、チケットを二枚出して客席に入る。学内の講堂よりもせまく、椅子も少し頼りない。肘掛が申し訳程度のドリンクホルダーになっている。小劇場。他人の囁きが聞こえる。僕達は黙っている。隣のセレスタをちらと見ていると彼女の方も僕に視線を向けた。首を傾げて微笑まれた。何かを語り掛けてくるのだが、僕にはそれが分からない。僕らの座る列には僕らの他に客はなく、場内は閑散としている。まばらなひそひそ声。椅子の軋む音。
 やがてブザーが鳴り照明がゆっくりと落ちる。合図はそれだけだった。

子供たち

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子供たち

 昼の日差しを遮った薄暗いリビングで、古いティーセットで紅茶を淹れる。市の外れの古びた一軒家で今し方掃除と庭の剪定を終え、壊れた物干し竿も直した。家主に紅茶とちょっとした茶菓子をやって今日の仕事はおしまい。クッキーを焼いた。もっぱらおれが食うのだが。
 この家の主は目を患い、時折発作的に盲目になる。伴侶はいない。最近急激に盲目の時間が増えたが、それまではやっていけたという。
 盲人であって盲人でないこの男の勘は鋭かった。ふらついていたおれを見出し、手伝いの仕事に就かせた。といっても口約束でシフトを決め、気が向いた時に出向けばよかった。それで、ちょっとした貯金を得た。居心地も悪くない。目の見えない人間と目に見えない人間の取り合わせは都合がよかった。クッキーうまい。ミナトは紅茶ばかり飲んでいる。

「今日の夜は出掛ける」
「そうか」
「デートだよ。映画見に行くんだぜ、一人じゃなく」
「映画立ち見が楽しみとか言っていなかったか」
「それぐらいしたっていいだろ。他の所で随分不利を味わっている」
「いつも思うが、透明人間に利点はあるのか」
「ない」断言出来る。「生きるだけなら堂々と生きていく方がマシだ」

 人型にくりぬいたクッキーの頭をへし折りながら食べる。腕と足を順番に折って最後に体幹を食べる。バターを多めに入れたからとてもおいしい。

「お前らが思ってるのときっと違うよ。暴力も遊びもすぐ飽きる。かといって対等な付き合いも出来ない。だいたいこんなの寂しいもんだよ。明日死ぬかも知れないし、死んでも気付いてもらえないし」
 ミナトは嫌な嗤い方をする。「お前の方が先に死ぬのか?」
「あんたタフだろ。何だかんだ生き永らえてあと五十年ぐらい生きてんじゃねえの?」
「“お前が思ってるのときっと違うさ”」
「死ぬのかよ」
「まだ死ねない」サングラスで視線は伺えない。今見えているのかも定かではない。
「やり残しがある。子供たちを育てねばならない」
「隠し子?」
「アホか」
 うるせえよ。
「お前、見たことなかったか」

 記憶を辿る。すぐに思い出す。鉢合わせしたからミナトが子供らを二階に上げてその隙に家を抜けだした。

「あいつらか」
「弟子みたいなものだ。随分前から出入りしている。頼んだ訳でも頼まれた訳でもないが半端にあいつらを放り出す訳にはいかない」
「それ、いくつよ」
「もうすぐ十七になる位か。十の時に来た。男と女。子供たちと呼べる歳でもないが」
「よくやるよ」この男は隠遁生活の割に人間好きなのではないかと思う。「猫拾うぐらいのノリで人を拾うよな」
「昔は犬を飼っていた」
「あ、そう」
「もう死んだ。大きな犬だった。庭の裏に眠っている。あの子らが葬ってくれた」
「いい子たちだな」
「だからこそ育て上げなくてはならない。ひとりで生きるだけの気概をあいつらに叩き込むのが最期の仕事だ」

 紅茶がぬるくなる。

「考え込みすぎだろ。案外その歳の子供は賢いよ。おれらが思っているよりもあの歳の子は思慮深い。あんたの知識はあくまで保険だ。無くったってどうにでもなる」
「あの子たちは行き詰っている」
「あんたもおれも行き詰っている」
「これが最期の仕事なんだ」

 悲観では無く毅然とした声音で語る。

「子供たちを頼む」

 それはおれの仕事ではない。

「嫌だと言ったらどうすんの?」

 脅しに応じるような相手ではないが、嫌味の一つは言わせて欲しい。

「簡単には引き受けられない。おれは人を任せられる程の良い人間でもないし、あんたらとの方針も違う。きれいな手段は使わないし自分のことで手一杯だ。あんたの弟子とやらには付き合えない。子供たちに歪んで真っ暗で呪われた嘘つきの路上生活者の道を歩ませたいなら別だけど?」
「お前の歪みも嫌味も承知して頼んでいると、お前も承知している筈だ」
「分かってるさ。だからこんな奴に任せちゃいけない」

 この男が本気であることは分かっている。この男は最期の仕事を見据えている。だからこそおれが継ぐ仕事ではない。おれだってあの二人に何かを為し遂げることは出来ない。おれがやれることはない。でもあの子は知りたがっていた。おれも伝えるという立場に立とうとしていた。その演説台はとてももろくて危なっかしい。

「……おれの話していい?」

 家主は答えない。

「おれも二人抱えている。ハタチ過ぎの男と十六七くらいの女の子。何だかんだあって男の家に女の子と一緒に居着いている。おれは住まわしてもらう代わりにあいつらに飯を作っている。
 あんたの感じる義務感に近いものはおれにも分かる。だからこそ安請合いは出来ない。それに決めるのは子供たちだ。こんな、実体の無い人間を信じるのか。だからお前が生きてるうちはお前が全部叩き込む。おれのところに来るかどうかはそいつらに決めさせろ」

 今や紅茶は渋いアイスティーで、ミナトは例のサングラスを外した。虹彩は不自然に灰褐色に染まり、両の眼は充血している。

「俺は俺の目と生き続けてきた。目は俺を穏やかに蝕んだ。暗闇は確実に広がっている。しかし俺の目を蝕む暗闇は、結局この歳まで俺を生かした。この視野が俺の生の目盛だった。この目が完全に眩むとき俺は死ぬ。これが自分で定めた死期だ」

 仄暗いリビングでもその目は老いに反して鉱石のように複雑に光を反射する。その目は日々色褪せて視野の光も奪われる。奪うものが無くなったとき人は尽きる。おれはいずれ消える。

「お前ともっと早く出会っていたら」ミナトは手元を見ずにレンズを磨く。「お前を小説に書いた」
「勘弁してくれ。……もう書かれてる」
「人間がいる限り人間を書ききることはない」
「小説家なんて――」口をつぐむ。……似たようなものだ。「なんでもない」

 丁度そのときオーブンが鳴った。まだ焼いてたのかとミナトが顔を曇らせる。「作り過ぎた。持ち帰れない。あんたの夕飯これにしてくれ」絶句する様が面白い。「何なら、それこそあの子たちに持たせればいい。日持ちすんだろ? 軽い軽い挨拶がてらに」
 キッチンに向かおうと席を立つと、今度はドアベルが高らかに鳴った。「ミナトさーん?」と少女の声。絶句するおれをミナトが楽しんでいる。あのさあ、ねえ、早えよ、ちょっと。
「裏口から出るか?」とミナトが提案する。丁度キッチンに勝手口がある。
「そうする」荷物はない。靴だけ玄関から手早く回収する。「じゃ、あの子たちに宜しく」……「あとティーカップごまかしといて」
 ミナトは誰のためにも席を立たない。ただぽつりと、偶然にもおれを見つめて、
「丸くなったな、ザムザ」と、おれに聞かれていないみたいに呟いた。

 ミナトが外の少女を呼び、玄関戸が開くと同時に、勝手口から家を出る。雑草だらけの荒れた庭で獣道らしき所を突っ切る。そういえば犬の墓はどこにあるのだろうか。花の無い庭をぐるりと見渡す。思い切って土手を上り、午後の川辺の風景を眺める。草をかき分けて岸辺まで下りる。川は空を反射して青く、生ぬるい湿気の臭いが立ち込める。足元には大小の石。角が取れて丸くなったその後は風化するだけではないか?
 川は東に向かって流れる。ぼろぼろの靴底を通じて石や草の感触を知る。臭いや湿度や風景の色。巻きあがる風に揺れる前髪や上着や疲れ。水面に石を投げてみたら一度も跳ねなかったので、駄目だなと思って踵を返した。

住人

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住人

 わたしは、別に、音楽を聴かない方でしたが、VIIIIさんに勧められて、最近ちょっとずつ聴くようになりました。なにがいいとかこういうのがいいとか、そういう広いことや深いことは言えませんが、それでもVIIIIさんの知っている世界は知らない深さを湛えていて、わたしは新鮮な思いで音楽を聴いています。
 かれはこの街に住んでいる誰かで、きっと一度ぐらいどこかですれ違っているかもしれません。誰か一人の外側を知らず、内側の抽象部分だけを覗き見しているような気分です。同い年の誰かが、こんなに深く鮮やかな内面を秘めていることにわたしは感動しています。誰かの内側。内面世界。
 みんながここにいることを許してくれる。
 ノートに音楽の歌詞を写しています。歌詞ってコピペ出来ないので手書きで写すしかないのです。音楽を聴きながら歌詞を読み返します。歌は聴こえてきませんが、きっと今この辺かなと歌詞を追います。

“僕にとってこのバンドは特別なんです。僕がなんとなく思っていた理想の音楽に、こんなにすとんとおさまる曲は初めてでした。どの曲を聴いても好きなんです。こんなこと滅多にないんじゃないかって思います。
だから、傲慢だとは分かってますけど、はじめてDrive to Plutoを聴いたとき、これは僕のための歌なんじゃないか?って本気で思ったんです。歌詞も音も。”

 だからVIIIIさんのことを思い出しながら聴きます。
 みんながわたしにおしえてくれます。本や海や歌のこと。ソファに寝そべって目を瞑って、聴こえてくるものに思いを傾けます。わたしは何かを誰かにあげることが、まだ出来ません。
 部屋は、静かで、イヤホンからの音楽がすぐそばで聴こえます。

“ボーカルはもともと歌える人でした。でもあるときから、何でか知らないけど、急に歌うのを止めてしまったみたいです。
でもボーカルなりに歌っているみたいなんです。前に、夜中ひとりで聴いてたらブレスが聴こえました。
(もしかしてドラムやベースの人のブレスかもしれませんが)
息遣いが聴こえるのが何か感動的でした。歌っているんだなって。”

 だからわたしも耳を澄まします。すると確かに聴こえました。時々。息が聴こえます。もしかしてこの歌声は透明なのかもしれません。歌ったそばからすっと宙に拡がって、聴こえなくなってしまう歌があるとしたら。

 それで、わたしは、日が暮れても、部屋の明かりをつけませんでした。空が、だんだん青から黒に変わっていくのを、ソファに寝そべって眺めていました。耳元で吐息だけの音楽が囁き、ぴこぴこ鳴って、空が暗くなるのが、だんだん海底に沈んでいくみたいに、街に海が注がれていくみたいに、いろんなものが遠くなっていく気がする。声も手も届かない。そしたらわたし、一番の奥底に沈んでひとりぼっちみたい。
 なんて思ってたら扉が開いて、二人が帰ってきました。ちょうど曲が終わったので、イヤホンを外してソファから起きあがりました。ただいまと言ったザムザさんにいつものようにおかえりなさいを返しました。わたしのブレスは聴こえました。ただいまと帆来くんも言いました。コンビニに寄ってきたみたいで、お酒の缶とか、プリンとかを冷蔵庫に入れました。
「ジンジャーエール入れときますね」
 わたしの分も買ってくれました。ありがとうってわたしは頷きました。

 お夕飯食べてお風呂入ったりしてコンタクトはずして大方落ち着くと、ソファに座る帆来くんはなんだかもう眠そうでした。わたしは髪を乾かしながらすぐ隣に座りました。わたしが彼を覗きこむと、彼もわたしを見て、少しだけ頷きました。
「疲れてしまったんです、今日は」
 小さなため息をしてそう言いました。わたしは両手を伸ばしました。わたしもなんだか少し疲れてしまったみたいです。でも疲れてない日ってあるのかな?
 テーブルに、ザムザさんがお酒の缶を置きました。夜用のゆるいTシャツ姿。
「何、疲れてんの?」
 代わりに頷くと、「みんな疲れちゃったのか」と彼は呟きます。わたしはジンジャーエールを注いでもらって、大人二人がアルコール。かんまんに手を伸ばす眠たい動き。
「おおい、そんなにお疲れ?」
「別に、言う程ではありませんよ」帆来くんは少し意外そうに受け取ります。
「確かに疲れている感じはしますが、疲れを訴える程の原因は思い当たりません。漫然とした感じで、色々な事が重なって、それを今日はたまたま意識してしまったような……」
『おつかれ?』
「……やっぱり疲れているのでしょうか」
「原因を絞れるなら疲れないよ。原因をスッパリ切り離せば疲れないんだから」
『いろいろ』
「色々積み重なってるから、どこか一つを取り除いてもどうしようもない。土台を抜いたら余計崩れるみたいに、ややこしさ極まれりかも知れない」
『リラックス』
「そうだね、気分転換。
 で、どうする」
 肩を叩いたようです。
「どうって」
「どうでも」
「どうなのでしょう」
 彼は目を伏せます。自問。「どうなのだろう」
 たのしいことしようよってわたしは言いました。でも彼には見えていません。ちょっとさびしい。
 たのしいことはすぐに忘れてしまうから、毎日たのしくしていかないといけません。
 わたしにあげられるものがやっぱり見つからない。
 どうしよう?
 ペンを取って、ちょっと考える。どうしよう。物静かなひとは、何が一番たのしいのかな。
「音楽でも聴く?」とザムザさん。
「僕の部屋ですよ」ミニコンポがあります。
「時々借りてる」
「……」
「ごめん」
 ごめんって言いながらも結局使うのがザムザさんなのですが。でも何を聴いてるんだろう? わたしも聴けたらいいな。
 帆来くんは机に伏しています。重力に負けちゃったみたいに。疲れているのか考えて考え疲れてしまったみたい。やっぱり真面目なんだろうなあ。わたしは隣の席に移って彼のことを眺めました。腕に血管。こっちを向いてほしくて静脈を指でつつきます。顔を上げた彼にちょっと笑ってみせると、彼はよく分からないってふうにわたしを見ます。わたしは変なひと? わたしの喋ることは彼には聴こえない。わたしも別に、聴かれなくていい。そういうのは、会話とは言えない? みんな、何も言わない。疲れちゃったの? わたしはどうだろう。ペンを出して書きつけます。
『あそびにいこうよ こんど』
「……そうですね」
 帆来くんはそう言って頷く。でも、今度っていつだろう。いつでもいいって言ったけど、そしたら叶わないままずるずると時間に流されてしまいそうです。

 ザムザさんは静かに飲んでいて、考え事をしているようにも見えます。ザムザさんも疲れちゃったのかもしれません。『げんき?』「おれ?」頷きます。「どうだろうなあ」
『つかれてるなら 出かけない方がいい?』
「出掛け方によるんじゃないか」飲み干した缶を重ねます。「たのしい疲労ってあんじゃん」
「楽しい疲労」
「だからたのしいことしようってセレスタが」
 言われて、驚きましたが、わたしは頷きました。帆来くんも少し驚いたようでした。
「何が好いですか」と帆来くん。「僕に出来る事なら」
「君があそびに行きたいところじゃないのか?」
 あきれたみたいにザムザさんが言います。色んなところにとぼとぼ着いて行く帆来くんの姿を想像しました。真面目だからなあ。きっと。慰安旅行で疲れちゃうタイプだ。
『ほらいくん いきたいとこ』
 書いて、少し考えて、『どこもいかなくてもいー』と足します。家でも、近場でもあそべます。彼は考えます。ゆっくりと声に出します。
「映画?」
 映画!
 わたしは笑ってみせます。
「でも僕はまだ本を読み切っていない」
『まつ』
 待ちます。いつでも。
「でも、別に未読でも良い筈なんです。……そうですね。早く行かなくては」
 彼の喋り方はゆっくり思案しながら、慎重にぽつぽつと声に出す感じ。雨の降りはじめに似ているかもしれません。
『いつ?』
「一番早くて来週の水曜日か金曜日。あとは土日」
『水』
「水曜日」「……で、良いですか」
「いーよ、あんたが船長だ」
「水曜日」
 彼は呟きます。「水曜日」
『夜?』
「レイトショーです」……「だから夜」
『レイトショー』
 小劇場なんだって。わたしは言ったことがない。
『すごくたのしみ』
 紙に書いて見せます。帆来くんもかすかに頷いたみたいです。夜の電車に乗って映画に。
『おしゃれしてく』
『ちがうのきてく』
「おまえもちがうの着なよ、せっかくだし」
「……いや……」
「ものは試しだろ、ねえ?」
『みたい』!
「本当に、そんなに持っていないし……」
『えらぼ』『えらびます』
「そーだよ。いつ消えるか分かんねえだろ? 今のうちに楽しみなよ」
「……何ですかそれ」
「いや、だから、見えなくなっちゃうかもよ」
『なにそれこわい』
「ほんとだよ」……と、ザムザさんは少し、まじめな冷やかさを帯びて言います。
「明日にでも見えなくなっちゃうかもしれない。見えないどころか、跡形も無く消えるのかも知れない。それはおれにも分からない。つーかおれが分かってたらちゃんと逃げてるっつーの」
「逃げられるんですか」
「知らん」と言って、少し間があいて、帆来くんを小突いて、「君には早いけどな」
 わたしは?
「別に予言はできないんだけど。……まあ、ちゃんと、今、しっかりしてれば平気じゃねえの」
 そしてため息みたいなあくび。「酔った」と宣言して、空き缶たちを片付けました。
「帆来くんワイン好きかい」
「自分じゃ買いません」……「安くはないし」
「たまには安くないの飲もうよ」ってザムザさんは言う。けれどもふたりが飲むのはきっとずっと後になるんだろうなって思います。願い事は、ちゃんとあと何日か数えられる願い事しか叶わないんじゃないかと思ってしまいます。もしくは今日にでも叶うこととか。
 遅くなったから今夜はこっちの家に泊まります。最初からこうするつもりでしたが。
『あしたの夜は帰ってきますか』帆来くんに見せました。
『タンスチェック』
 それに合わせて、わたしも着ていきます。せっかくですから。帆来くんは困った風に見えます。
「本当に大したことはないんですよ」
『だいじょぶ』
 でもわたしは、帆来くんはいつもの白黒でも格好いいと思う。
『おやすみ』
「おやすみなさい」
 彼とは6時間のお別れ。ザムザさんは、今日はベッドで寝るそうです。結局ソファも使っています。ザムザさんなりに小さなルールを決めているんだと思います。わたしも今日は寝室で寝ます。
 リビングの電気を消して、暗くなる、眠りに就く家。短い一日は今日もおしまい。急になにかがざわついてさみしくなる気持ちがしました。今日できなかったことが悲鳴を上げているのかもしれない。眠りに就けば明日は来るけれども、名残惜しいのが離れない。
 毛布を整えて(自動ベッドメイキング)「おやすみ」って言ったザムザさんに、わたしは手を叩いて聴こえない声を掛けました。思考はまとまりません。けれども思いつく限り、今すぐ誰かに言いたかったんです。聴いてくれるだけでいいんです。彼ならきっと。
『どこかに行くとかなにかするとか、そういう約束をするのは、あしたがくるのを約束しているの? あしたはちゃんとくる? 数をかぞえてちゃんと待ってればたのしいことがあるって信じないとだめ? あしたもちゃんとわたしたちがいますようにって、消えちゃわないようにって。わたしたち、自分で決めた線に沿って前へ前へ進んでるみたいだし、たぶんまったく行くあてのないまっさらな未来が広すぎて怖いんだと思う。でもあしたにでもみんな消えちゃうかもしれないって……』
 彼はきっとまっすぐわたしを見ていました。
「……ごめん、長くて分からない」
 わたしは首を振ります。二度目はいらない。『ごめんね』
 ベッドに潜りこんで、部屋の明かりを落とします。丸くなる。暗闇の中ではわたしは何も語れない。
 ため息をひとつ置いて、消えてしまった人が話しかける。
「今度、教えてあげる。必ず。今度っていうのはね、機を見計らってだ。忘れたわけじゃないんだよ。誰も彼も」
 わたしは頷きます。ちゃんと見えたかな。
「だから、おやすみ」
『おやすみなさい』

ツーリスト

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(車はあまりにも無難な白。シートをゆったりと倒す。夜。
 なんとなく黙り込んでいる。音楽が鳴っている。
 そしてアウトロに近付く。すっと抜けていく。
 その合間を待って、口を開く。)

ツーリスト

Dr 傷心?
Ba ……うるせえなあ
Vo やーいショーシンモノー
Ba 降、り、ろ
Vo 道路のド真ん中ですー。降ろされたらひかれちゃいますぅー。
Dr あーVoかわいそー BaがVo見殺しにしたー
Ba (カーステレオのVolを上げる)
Dr (苦笑。ソフトドリンクでひとり乾杯)
Vo (窓の外を眺める)
Ba 選曲は、おれね
Dr まあ、あんたの誘いだし
Vo 失恋ソング?
Ba ちがう、上手く言った場合の曲
Vo じゃ、ラブソングだ
Dr マゾ?
Ba お前ら本当に降りろ
Vo Baが一緒に乗ってくれって頼んだんじゃん
Dr 突然電話されてさ (スナック菓子を開ける)
Vo (手を伸ばす。ハンドルを握るBaに食わせる)
Dr (ブレス) 振られた海に友達連れてく夜のドライブ。
Vo 傷心ドライブ。
 ねえこのまま車で海突っ込んだりしないでね? このメンバーで心中とか絶対ヤだかんね?
Ba (アクセル踏む)
Vo !!
Dr (ニヤリ笑う)

(そのまま、なんとなく無口になる。明かりが流れる。その速度を、Voはぼんやり眺めている。頬杖をつくDrが何を見ているのか、車を走らせるBaが何を考えているのか、Voには分からない。真面目くさった横顔。)
(音楽が流れている)
(いい曲だ)
(やがてアウトロ)

Ba ラブソングばかりだ
Dr ああ
Ba 僕もラブソングを歌った
 ラブソングを作った
 ラブソングを弾いた
 ラブソングを聴いた
Dr (「君と僕」「お前と俺」「あなたとわたし」が歌った、たくさんの歌のことを思い出す)
Ba ……おれは、振られたのかな?
Dr ……あんたがそう思うなら、そうだよ
Vo もう来ないでって言ったの? もう会わないって言われたの?
Ba なにも言わなかったんだ

(流れる光)

Ba 気付いたらいなくなっていた
 いっつもそうなんだよ。
 おれが恋に落ちる前に相手はいなくなっちゃうんだ。
 ちゃんと恋をする前におれはいつも振られるんだよ。
 おれは初恋もできねえんだ
Vo (ミラーを見つめる)
Ba だけど音楽は恋のうたばかりだ。みんなどこでそんなことが起こってるんだろう?
Dr ……小説の読み過ぎだ
Ba かもしれない
Dr 安全運転
Ba うん

(対向車のカーラジオは何を流しているんだろう?)

Ba “ふたりだけの世界”とかさ、言うじゃん
Vo そういう曲?
Ba なんだって全部。
 ふたりだけの世界。どこかとても遠くにある王国。世界に愛しあうふたりがふたりっきりで、ふたりだけで踊ってようぜ、ことばはいらない、君以外いらないって。
Dr ……
Ba でもそんなのないんだ
 なかったよ
 ふたりっきりなんかなれないんだ
 建物があって、街灯があって、車が走っている。どこがふたりっきりだ。
 向こう側には必ず誰かがいる。街んなかでどんだけおれがどうしようもない人間でも、必ずおれは何らかの内側にいるんだ。
 組み込まれているのかもしれない。はじめから。
 そうだと思う。
 ふたりがさ、そのなかから逃げて、ふたりっきりで、それだけで世界が成立するっていうの。
 おれにはそういうの出来なかった
 (だからたぶんあの子をどこか遠くに連れていくことができなかった)

Dr …… 出来ないからうたにするんじゃねえの?
Ba ……
Dr せめてうたの間の5分間はふたりっきりになれるように
Vo “ここではないどこか”に
Dr その、何て言うのかな。そういう風に、時間を変えていかないと、どうにもならないっつうか。現実じゃ無理だから。別の時間をつくんなきゃいけない。
 今おれがこうしている時間と重なってさ。別の時間がある。同時に。この時間の上にも下にも横にも別々の時間が流れている……
 誰か…… 立ち寄れるような時間を、作んないといけない
Ba ………………そうかも
Ba ……
Ba あ――、なんか! ね! こっ恥ずかしいな!
Vo ちょ、だいじょぶ?
Ba あー うん 大丈夫 別に視界が滲んだりとかしてねーし 目からウロコも落ちてねーし もー全然大丈夫
 どこまでだっておれは行けるよ マジ マジ大丈夫
Dr お前さあ……
Ba ね、もうすぐ海だ。海沿いに出る。もうちょっと走ったら適当なところ見つけて、車停めよう。で、ちょっと歩こうよ。夜だよ。夜の海辺を歩こう。闇だ。闇だろうなあ。さざなみばかり聴こえてさあ。

(カーステレオのVolを上げる)

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