act.4

変人

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変人

 ジョキリ。
 鋏が確かに切り落とします。
 食卓の椅子で、鋏が空間を切ります。机に小さな鏡を置いて、椅子の周りにはビニールが敷かれています。そこで髪を切っている男の人を想像します。足元に切り落とした毛束が落ちるのを想像します。想像は穴埋め問題に似ています。慣れればとてもリズミカルに問題を解き続けることが出来ます。
 問題の人の向かいに座ります。わたしは、チョキで髪を切るジェスチャーをします。ああ、と返事があります。ジョキ。彼は恐らく前髪を切りました。
「……切り過ぎたかな」独り言が聴こえました。
 大丈夫ですよとわたしは笑いました。すぐに伸びるし、きっと『かわいい』ですよ。

「前は伸ばしてたんだけどねえ」

 空笑い とわたしは思いました。ときどき自嘲的になるのを知っています。

「ずいぶん前だよ」

 ずいぶんがいつなのか想像できませんでした。

「整えてたんだよ。二週に一回は通ってたし。もっと多かったかな。分かんない。ちゃんとやってたんだけど、でもこうなってからもうどうも出来ないし。枝毛だらけだよ。切る暇も金も無いし、切ってくれるところも無いし。
 でもまあ、いい加減邪魔だから」

 切る。

『どのぐらい?』

 わたしはメモを見せましたが、見せてから、彼の作業をさまたげていると気付き、引っ込めました。「いや、別にいいよ」と言ってくれるけれども、やっぱり悪いと思います。笑って、わたしは首を振ります。ジョキ、ジョキ。鋏は、不可逆的。
 短くなっていくさまを想像します。完璧に整えていた自分のデザインが、実用を前にして切り落とされて変わっていくのを想像します。さっきよりは難しいけど、きちんと想像できます。最初の髪型はさすがに分かりませんが、それでも、気持ちとか、見えない表情を考えます。

 どうして消えちゃったんだろう?

 ときどき考える疑問を、いまいちど思い返しました。どうして見えなくなってしまったんだろう? いつから? なんで? どうやって? その前は何をしていたの? どんなひとだったの、どんな顔で、どんなものが好きで、どんな名前だったの?
 想像がアンフェアになっていくのに気付いて、わたしは考えないことにしました。
 まずわたしからこたえなくてはなりません。さもないと訊いてはいけないのです。
 そして想像するよりも現実の方がきっとずっと上を行っていて、わたしの想像じゃあ届かないものが、実はあまりにも多いのです。
 かなしくなってしまったので机に伏して顔を隠すようにして、散髪のつづきを見ていました。鋏は休まず切り続けましたが、少しして手が止まりました。
「帆来くん」と呼びかけました。彼は、さっきからずっとソファで本を読んでいました。

「鏡、もうひとつない?」
「鏡?」彼は目を上げました。本は閉じません。
「手鏡とか、小さいの。後ろ切りたい」
「多分、無いと思います」
「じゃあ代わりに切って。自分じゃ見えないから」
「僕だって見えません」
「あてずっぽうでいいから」
「あてずっぽうならご自分で切ればいい」
「見えないんだよ」
「だから、僕だって」

 ザムザさんは、聞こえるようにため息をつき、「セレスタ、鏡ない?」とわたしに言いました。本当はわたしも切ってみたいのですが、誤って耳や肌を切ってしまいそうなので、素直に、ある、と頷き、持ち歩いている鏡を持ってきます。
 ん。ありがと。彼は笑ったようです。
 鏡を持ってわたしは椅子の後ろに立ちます。

「持っててくれるの?」

 笑顔で、頷きます。ちょっとオーバーリアクションかもしれません。場所を教えて貰いながらわたしは立ち、彼をはさんで合わせ鏡になりました。この角度からわたしの顔は見えませんでした。目の前で、まるで生きているみたいに、鋏が宙を切りつづけます。でもそこにひとがいるのです。

「セレスタはいいこだねえ」

 独り言なのか、わたしに言ったのか、帆来くんへの当てつけなのか分かりませんでした。わたしはごまかそうとわらいました。

「いいこにはおいしいものを作ってあげよう」

 わたしはまたわらいました。決めといてねと彼もわらいました。

「毎日おんなじ分け目にセットしてる悪いこはハゲちゃうよねえ」

 やっぱり、わらっていいのか分からなくて、ごまかすためにわらいました。

「だってそうだろ? 同じ生え際ばっか酷使してるとハゲるぜ。時々は変えた方が将来のためだよ。というか君はどこで切ってんだ」

 呆れ気味の口調に対し、やや間があって、帆来くんは、

「自分でですよ」
「嘘だろ?」
「何故嘘をつかなければならないのですか」
「七三専門理髪店があって、そこに足繁く通ってて、『いつもの。』ってだけ言えば完璧にキめてもらえる程度の常連で、客の中ではお前が一番若いからって他の客からも店主からも実は一目置かれてるとかそういうんじゃないの? 店内は品の良いジャズナンバーなんか流れるシックなレンガ造りで向かいの喫茶店のオムライスがべらぼうに美味くて新規の客は右分け左分けしか選ばせてくれないみたいな」
「行ってない」
「あんのかよ」
「ありません」

 読書を邪魔されて少し不機嫌なのかもしれません。ザムザさんはといえば再びため息。けれども聞こえるようにというよりも聞こえてしまっただけでした。わたしがすぐ後ろにいるから聞こえただけです。
 目の前ではらはらと落ちていく見えないものを想像します。見えない身体。……切り離しても見えないんだ。そう気付いて少し驚きました。
 チョキ、チョキと細かく切って調整し、最後に彼はわたしの手から鏡を取って、確認のために色々と傾けました。鋏を机に置きます。『できた?』

「ん……まあ」

 鏡を見つめる人を想像。「……だっせえ」明るく自嘲する声でした。「自分で切るとか、いつぶりだろう」
 立つよ、とわたしに宣告して、彼は椅子を立ちました。わたしは足元を指差しました。

「……欲しいの?」

 多分苦笑いの彼にわたしは大真面目に頷きます。『きねん』
「悪趣味」

 ソファの帆来くんに掛け合うと賛成してくれて(「標本」)一緒に書斎で瓶を探しました。薬を入れるようなちょうどいい小瓶があったので、それを使うことにして、ご本人に一束拾ってもらいました。ノートのはしに日付と『ザムザさんの髪の毛』と書いて、タグにして一緒に封入しました。
 出来あがった瓶には一見何も入っていません。

「新素材ですね」と瓶を透かし見る帆来くん。「さまざまな分野に応用出来そうです」
「ねえそれただの人毛だからね?」
『きねん』
「悪趣味どもめ」

 掃除をしている彼の方を向いて、しゃがんでもらって、わたしはそっと髪の毛に触れます。チクチクしているけどしなやかな感じがあります。言うこともなくて笑いかけます。笑ってくれたらいいなあと思います。
 不意に彼もわたしに触れて髪をなでました。わたしは目をつむってみます。視覚をやすめると彼は本当にただのふつうのひとでした。ただここにいるだけの、ひとのかたちのあるひとです。見えるに越したことはきっとありませんが。目を閉じたままわたしは笑います。

 シャワー浴びてくると言って彼は浴室に行きました。

凡人

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act.4  知らない人々
凡人

 川沿いの道を自転車で行く。分流の下流は小さな公園で、川はそこでT川に合流する。公園より少し上流の西S駅から橋を渡った対岸はF市、T川の河口は東京湾の空港。分流の対岸には古い病院があって、精神科の入院病棟らしい。こちら岸に立つ中学にはかつて部活の試合でお世話になった。ただ、僕にはもう関係ない。
 僕の目的地は公園の傍に立つ一軒の家屋だった。そこは古びた真四角の二階建てコンクリート造りで、人家というより診療所に似た殺風景さがある。庭は、庭とも空き地ともつかない荒れようで、たぶん明確な境界はない。あたりに他の人家はない。蔓植物が壁を這って野生のままの枝葉が茂り、傍から見れば廃屋同然だが、ちゃんと人が住んでいる。
 堤防を下って自転車を止め、目的の家の前に立つ。一度深呼吸してベルを鳴らした。長い付き合いにも関わらず、今でもどこか疾しい緊張感に駆られる。チャイムの余韻の消えぬうちに僕を出迎えたのは黒服のロングスカートのメイド、ではなく、全身黒で“正装”した私服の荻原である。
「十五分遅刻」と言ってニヤリとした、目元は化粧で黒々と色どられている。

「そういうあたしも十分の遅刻なんだけどね」

 招待されるまでもなく僕は家に上がりこむ。

「お邪魔します」

 声は薄暗い廊下に消えていった。返事はあってもなくても変わらない。

 一階は居間と板敷の食堂で、居間から差し込む外光はブラインドで遮断され、室内はいつも暗くひっそりしている。居間の籐椅子がその人の定位置で、僕は軽く会釈した。
 薄い顔立ちの初老の男、痩せて小柄だが、眼光の鋭さにどきりとする。というのもその人はいつでも暗色のスモークレンズのサングラスを掛けていて、レンズ越しのまなざしはかなりハードボイルドである。グレーの髪は短く刈り込んでいて特別なこだわりは無さそうに見える。着古して色あせたジャケットを今でも着ている。妻子がいるのか僕らは知らない。
 湊荘一という名前も直接教えられた訳ではなかった。初めてこの家に上がり込んだ時、本棚や机上にやたら著作が転がっていて、非常にぞんざいな扱いだったから目に付いた。

「誰?」

 背表紙の名前を見て僕か荻原かが尋ねた。どちらの思い出か忘れてしまった。
 おれだよ、か、ぼくだ、とか、わたしだ、とか、とにかく自分を指し示す答えがあり、僕は、そんなもんか、と妙に納得した覚えがある。僕達は「湊」という字を知らなかった。そこで「ミナト」と教えて貰い、僕達はミナトさんと呼び始めた。だからみなと 荘一そういちが実名なのかペンネームか未だに知らない。
 ちなみに僕の名はペンネームだろと訝しがられた。もちろん本名だ。
八月一日ほずみ 夏生なつお
 字に書いてミナトさんに見せたのを覚えている。

 薄暗い台所で緑茶を入れる荻原を僕は何となく眺めていた。僕らの三つの湯呑みのほかに食卓の上にもう一つ置きっぱなしになっていたから、片づけようと手を伸ばすと、ミナトさんはそれを制した。荻原はミナトさんには湯呑みを手渡ししたが、僕には勝手に取るように言った。お茶を飲んでとりあえず一息ついた。戸棚の菓子を適当につまんでいいと言うから、おかきを開けて居間に持ってきた。四人掛けの客人用ソファ、長椅子一つと肘掛椅子二つに僕と荻原は向かいあって座る。ミナトさんの籐椅子はソファからはなれて窓際にある。外を見ている訳でもない。僕らがいない時はここで一日過ごしているのだろう。

「そんで、今日は何すればいいん」荻原に尋ねると、
「もう終わったよ」と、しれっと言う。「あたしが来た時には掃除も買い物も終わってたんだよね」
「え? じゃあ今日は」
「休日ってとこだね」

 黒塗りのネイルで菓子をつまむ。荻原には特別なことではない。この黒が、荻原にとっての正装であり、ここへ来る時は必ずこうだった。
 来たはいいものの休日とは。拍子抜けし「何か、やることないんですか」と呟くと、椅子からぽつりと「説教」と返ってきた。荻原が笑う。「はあ?」
 来いとミナトさんが言うから、僕はソファをはなれ籐椅子の傍に立つ。サングラスで瞳は見えず、表情はいつも固い。もう少し恰幅が良ければヤの付く人に見えなくもないと思い、何か怖い人とつるんでいるのだと改めて思う。正直言ってミナトさんは怖かった。愛想というものが一切ない。
 ミナトさんは口数も少なく殆ど寡黙と言っても良かった。口を開きかけて、止めて、長い溜息をつくと、身振りで僕に手を出すように指示した。ミナトさんは乾いて節ばった手で僕の差し出した右手に触れた。僕の手を包んで僕の実在を確かめる手つきだった。盲人のように。調子の波が目立つな、と僕は目を伏せた。自分の手はやわで若いのだと知る。

「オレだよ、ミナトさん」
「ホズミか」

 自分で呼んだ癖に。しばらくそのまま立っていると、だんだん、発作が引いていくのが分かる。あわてなくてもいい。やがてサングラスの向こう側が正しい視野を取り戻す。

「暫く振りだ」、どうして今まで来なかったんだ。

 発せられない言葉を読みとって答える。「バイトで色々あって」
 面倒臭がったのは事実だった。この家は交通の便が悪すぎた。隠居したくて移り住んだのかもともとここで暮らしていたのか、詳しい事は聞いていないが、ともあれ特別に招かれた客人しか来ないような立地である。
 ミナトさんは手を離し、沈黙する。多分こう言っている。もっと来なさい。僕は頷いて見せたけど、なぜ頷いたのか自分でもあいまいだった。もしかしてミナトさんは僕らが思っているよりずっと年を取ったのかも知れない。
 かつて初めて出会った頃、僕と荻原は小学生で、ミナトさんはもっと言葉を発した。寡黙になったのが病のせいか年のせいか、知らないけれど、どちらかだと思う。彼は発作的に目が眩み、視野を失う生活をしていた。眩しさが苦手だから部屋はいつでも薄暗くサングラスは欠かせない。翻訳と執筆で暮らしていたが、病に伴ってか伴わずか、僕らが出会った時には既に筆を折っていた。元文筆家、現世捨て人。湊荘一。ミナトさん。

 ふらりとミナトさんは立ちあがった。「どこ行くんですか」、訊くと上を指さした。二階は寝室と書斎である。階段を付き添う為に僕も向かい、荻原も同行した。書斎の机の上に七冊ばかりの本が詰まれている。上から二冊を荻原に、残り五冊を僕に渡した。全て文庫本とはいえ五冊あるとかなりかさばる。どれも古びていて黄ばんでいる。自分より年を取った物体、そう思うと奇妙な感覚がある。
 背表紙をちらと見ると、三冊は知らない古い海外作家で、残り二冊は湊荘一と記されていた。僕は少し驚いた。今まで著作そのものを読ませてくれたことは無かったのだ。どういう風の吹きまわしだろう。そうやってぼんやりしていたらもう一冊乗せられた。『変身』

「……いや持ってますって」

 ともあれこれを読めということなので、僕らは素直に頷いた。読まなければならない。僕らは彼に師事している。
 正式に言葉を交わして師弟の関係を結んだ訳ではない。ただ、時折教えを受けに来ている。時にはミナトさんから呼びつけられ、買い物や部屋の片付けを手伝う。授業より手伝いの方が比率は多いのだが、今更不服でもなかった。不便な視野の持ち主だから僕達がいて助かっている、と思いたい。

 本棚はいつもより整っていた。いつもなら棚に水平に積まれていたり上下逆さまだったりとにかく無造作に溢れかえっているのだが、今日は全ての本の向きが揃い、著者名順に整列していた。机の上に散らかった原稿用紙も今日はタイトル別に束ねられている。珍しいことだ。ミナトさんは片付けられない。視力以前に整頓がド下手だ。

「ミナトさん、本当に今日、何もないんですか?」

 部屋を出るミナトさんは何も言わないから、本当に何もないようだ。無駄足だったかなあと思ったが、顔だし出来ただけでも良かったのかも知れない。荻原と居間へ降りる。
 新しくお茶をついで食べかけの菓子をつまんだ。ミナトさんは籐椅子を動かないし、荻原は読書をはじめて黙り込んだ。僕はメールの返信を考える。昨日の返事を書きたくて受信メールを読み返した。ふと顔を上げる。向かいに座る荻原を見る。その姿はさまになっている。
 本当にさまになっている。レトロな肘掛椅子に座って古い書物のページを開く全身黒の洋装の女子は嫌になるほど完璧だった。黒い爪も目元の化粧も完璧に作りこんでいる。他人から見て似合う似合わないではなく、荻原自身が荻原を確立している。我がある。自分が求める自分のありかたを実現しているんだと思う。やり遂げられる人間はけして多くないだろう。それを完遂した荻原は非凡だ。非凡な荻原が羨ましかった。ミナトさんもそうだ。老いや日差しよけのサングラスが振る舞いにひどく似合っている。当人からすれば不本意だとは分かっているが、何も持たない者からすれば欠如や異常はそれだけで一つの魅力だった。

 全く、自分は凡人だ。

 このところ繰り返している内省をぶり返し、僕はひそかにため息ついた。
 何かを成す為には自分はあまりに凡人なのではないか。最近思考の隅にそんな考えが居座っていた。僕は何も持ち合わせていない。何かをしたいのに何をしたいのかも分からず、その上何かをするだけの力が無いのではないか。自分は規範通りのありふれた人間で、代用品はいくらでもいる、つまらない人間なのではないか。不安や焦燥感や怒りが行動も出来ず漫然とくすぶっていてどうしようもなかった。けれどもそういう苦さを無視したら、自分は本当に意見のない無個性のモブに落ちぶれるだろう。そんな凡人に甘んじたくない癖に、強固な信念を持って行動することも出来そうになかった。どちらに立っても中途半端で歯がゆいのにこれをどこにぶつけていいのか分からない。思考も行動も膠着し、僕自身、まだ上手く言葉にすることが出来ないでいた。
 まだ落ちぶれずに済んでいるのはミナトさんのおかげで、世界とのつながりを断ったこの隠れ家の中でなら、僕はただひとりの人間として確立出来た。ミナトさんが思考の機会を与える。なのに僕自身は師の教えに相当しないように思えてならない。そして完璧な荻原を妬んでいることに気付き、ますますため息づいてしまう。
 無力でありながらなお何かに立ち向かうにはどうしたらいいのだろう。
 能力も信念も無いのであれば目を凝らさなければ何も見つけられないだろう。何も体現出来ないのなら、頭の中で研ぎ澄ましていくしかない。このままではあの人に届かない。僕はもっと鋭くならなければいけない。そう分かってはいるのだけれど。

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