act.4

友達

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友達 ― 1幕

 静まり返った夜の公園の底にひとりで立っている。充満する空気で光はおぼろげに拡散し、またたくようにも見える。あいまいさの中を光の方へ進む。自販機に照らされて小さな社が窺える。
 暫く見つめる。対象に変化はない。ぬるい夜風が頬を撫で、やがて凪いだ。真っ暗だな。そんな観念が脳裏を過った。格子戸から覗ける社の中も、何もかも真っ暗だった。
 目をつむり、手を合わせ、祈りをした。
 何も願っていなかったが祈っていた。これが神ではないことは明白だった。夜中にひとりでいることを正当化する為の動作だった。目的なく夜中にひとりで外にいることは邪な事に数えられるらしい。祈ること自体は、あくびやため息と同じような意味合いしかない。

 光が差した。
 背後からの、懐中電灯の光線だった。
 制服を着た高田巡査が「何をしている」と詰問した。僕が顔を上げると、彼は光源を消した。

「最近、賽銭泥棒があって、巡回を任されているんだ」

 彼はため息をついて社を見た。

「こんなものにも金を払う奴がいるんだ。そしてそれを盗む奴もいる。互いが互いに、馬鹿ばっかりだ。俺もその馬鹿の渦にいるんだけど。俺達がどれだけ騒ごうが、これにはもう、関係ない。前に話したっけ? 俺はこれを調べてたんだ」
「まだ、見付かっていないんですね」
「そう。消えた。どこかへ行ってしまった」

 あっけなく彼は呟いた。その喪失は僕も知っている。取り残されるのはいつも僕達の方だ。

「もうどこへ行ったのかなんて分からない。息を潜めているだけで案外すぐ傍にいるかも知れない。ただもう絶対に捕まえられない。消えたんだよ。忽然と」

 ただし、今は、僕が消えた方にも加担していることが心苦しい。

「馬鹿馬鹿しいと思われても、あれは本物だった。
 何だか分からないけどあれは確かに存在していた。何かだったんだ。幽霊ってことで片付いてるがきっとそういうものじゃない。あれは触れるんだ。俺はあれに触れた。あれは、何だか分からないけど見えない何かであって、目の前にきっと実在していた。トリックにしてはあまりに生々しいんだ。そうやって実在していたのに、ある時を境に、忽然といなくなった」

 彼は頭を振る。

「全部、今更になってしまった。あれが何だったのか、俺は知りたかったんだ。なあお前、本当は知ってんじゃないのか?」

 確かに知っていた。しかし表現のしようがなかった。頭で分かっていることでも、口にすれば取り返しがつかない。だから相手の意見を尋ねた。責任放棄だ。

「もしも、知ったとして……つまり、敬司君の前にまたそれが現れたとしたら、何を尋ねますか」
「『お前は何者なのか』『なぜここにいるのか』……意志疎通は可能らしいんだ」
「それを知って、何をしますか」
「さあ、答えによる。質問は続けるだろう。逃がすかどうかは、そうなってみないと分からない。どっち道、知らなければならない」
「でも、もしも相手が何も語らなかったら」
「聞きだすさ。聞きださないと。でもこれは仕事とは関係ない。俺のためにやってるんだ」
「……聞きださないといけない」
「何か存在するためには、説明が無きゃいけないと思うんだ。俺は。性格とか職業とか家族構成とか好きなものとか、自分がどういう人間なのか、俺らには説明義務がある。社会ってそういう風にして組み立てられてきたものだし、相手を知ることは当然の欲求で、というか知らなきゃ何も出来ないんだ。
 あれは、存在していた癖に、何の説明も果たさなかった。俺達が何も分からないまま勝手に消えた。それだけならまだ、そういうこともあったよなって忘れられるかもしれない。だが、こんなモニュメントが建っちまった。何もかも分かんない癖にあいまいにしたまま無理矢理片づけてしまったんだ。おまけに……俺が野次馬ならまだしも、俺も、あれの実在を証明する一人で、目撃者なんだよ。信じないだろうけど」
「信じますよ」
「お前一人が信じても無駄なんだ。市の外、いや市内でも知らない区域の方が多い。とにかく、外側が信じないと証明にならないんだ。他人じゃなきゃ駄目なんだよ。皆がそう言わないと……
 ……いや……もう意地なのかも知れない。決着を、つけたくて、焦ってるんだ。何だか分からないものを俺は確かに見たのに、何だか分からなくてイラついてるんだ。
 分かるかな。真意が分からないっていうのは不安なんだよ。
 お前が嫌いなのはそこなんだ。分からないんだよ。だから気味悪い」

 僕は深く頷く。彼の顔が曇る。

「なのにお前は、そうだ、何言われても平然としてる、それが分からないんだ」
「僕も分からないんです」言葉を選ぶ。「でもちゃんと悲しい」
「悲しんでるように見えない。変だ。なんで言い返さねえんだよ」
「貴方の言うことに一理あるから」
「怒れよ」
「怒ってもどうにもならないと思うんです。……すみません。……でも何を言っても仕方が無いと思うから」

 言葉が尽き、沈黙して足元を見る。僕に出来ることは残っていない。

「自分のことをどうにかしようって思ったことはあったのか?」

 どうにもならないと思った。しかしこれは、口にしてはいけないことだった。どうにもならないことを説明してもどうにもならない。一方でどうにもならないと分かっていてもせざるを得ないこともある。

「先日病院に行きました」
「……どこの」
「新宿の心療内科」
「うん」
「経過観察と言われたんです。薬も何も貰いませんでした」
「でも、正常ってことではないんだろ」
「恐らくは……結局……分からないから現状維持、みたいなものではないかと、思ってしまいますが」
「分かんねえんだ」
「分からないんです」誰も。

 黙り込んでしまう。本当はもっと楽しい話がしたかった。彼女が帰って来たら、三人で食事に行こう、そう思った。その時こそちゃんと言えるかも知れないし、ちゃんと訊けるかも知れない。

「塔子さん、帰ってくるって」
「知ってるよ」……「メールがあった。あいつから。来なかったのか?」
 頭を振る。「後輩から聞いただけです。僕には何も」
「なんで、お前に無いんだか」
 分からない。
「あいつも分かんない奴だよ」僕はそっと頷く。

「何か、やれよ。努力はしてくれよ。頼むから。お前はもう普通じゃなくて、それでいいかも知れないけれど、でも塔子のこと考えろよ。何か言うこと考えとけ。今は何が問題で、それがどうしてで、これからどうなりたいのか。言わなきゃ分かんねえんだから。待つから。ちゃんと説明しろ」

 お幸せにと彼は言った。僕が頷いた時にはもう、彼は背を向け、去っていった。

預言者

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預言者

 帰路、音楽を聴きながら歩いた。アルバムの七曲目。雰囲気はいいのだけれど、どことなく不穏な感じがする。でも聴きほれてしまう。このところ三日に一度は聴いている。
 駅前に弾き語りの男がいた。ほんの少し、歌詞に耳を傾けてみたけれど、あまり好きになれそうな感じではない。

どんなにきみが くたくたに疲れても
朝日がぼくらを照らす 明日が待ってる …

 こんな感じ。どうしてもこの手のものには疑いを覚えてしまう。かといって別に悲観的で鬱っぽい、涙を誘うような曲が好きな訳ではないんだけど。
 駅前には弾き語りもいればアクセサリーの露店もあり、占い師も小さな机を出して座っている。どれも見覚えのある面子だった。毎週何曜日の何時といったふうに定期的にやっているらしい。ああいうものは儲かるのだろうか。どうも露店というのは、少しでも気にする素振りを見せたら、妙な好意を持たれたりいいカモにされそうで敬遠している。
 音楽を聴きながら、その占い師をちらりと覗いた。初老の男で、妙にうさん臭い顔立ちで、服の丈も長く、いかにもという感じを体現している。占い師というより手品師っぽいが、机の上には「運命鑑定」と書いてある。誰か客がいるところを見たことがない。うさん臭えなあと思いながら通りすぎる。音楽はアウトロに近づき、リズミカル、跳ねるようなギターのメロディ。ボイチェンしたウィスパーボイス。「待ちなさい」と聴こえた気がする。
 ……いや、肉声である。
 占い師が手招きしている。それも、かなりしつこく。人通りは露店を避けて流れ、つまり占い師の目の前には僕しかいなく、未だ音楽は鳴りやまない。次の一曲への橋渡しのクライマックス。ゆるやかにフェードアウトしていく直前、ボリュームダウンし、代わりに聴こえる野音は、

「まあちょっと座りなさい。そこへ」

 何言ってんだこのオッサン。プレイヤーを見ると、アウトロ終わるまであと二十秒。もどかしいなあと思いながら待つ。好きな曲も好きじゃなくなっていくように思えてそれがくやしい。何をしているんだ、「ほら、座りなさい」と占い師は何度も僕を呼ぶし、周囲の視線も痛い気がするし、何だこれ。
 余韻が終わりまで響き渡る前に一時停止を掛ける。イヤホンを片耳外し、話だけは聞いてやる態度をとる。逃げ出してもよかったが、興味がない訳ではなかった。ただし商談になったら有無を言わさず逃げるつもりでいる。そんな僕の態度を見透かしたらしい。

「金の心配をしているならそれはいらない。私は、視たい人しか視ないのだよ、本来はね。私から君を選んだのだよ。だからこの会話で私は何の金銭も要求しないし、何も買わせないことを誓おう。どうか雑談だと思って、肩の力を抜いて、私の話を聞いてくれないかね」

 限りなく、うさん臭い。

「それ、誰に対しても同じこと言ってんじゃないですか」
「とんでもない。私は人を選ぶ。私は、本当に必要な者しか視ない。その者に出会う為にこうして張り込みをしているようなものだ。時には、頼まれて視ることもあるが、多くは何も視えない。何も持たないのだから視える筈がないのだ。そのときは仕方なく手相や人相や姓名を見るがな、本当に視るべき者は、見なくても、視えるのだ」

 ……これは、アレかな。アレな人かな。入院病棟ならT川沿いにありますよって教えてあげるべきなのかな。

「そういうことだ。まあ座りなさい。なるべく手短に終わらせよう」

 詐欺師から電波中年男性に格上げされたその男に従い、僕はイヤホンを外して正面のパイプ椅子に座った。
「さて」、男は紙とペンを出す。

「ところで君のことは何とお呼びしたらいいものかな?」

 仕方なく、ホズミ、と答えようとすると、男の言葉はまだ繋がっていて、

「ふむ、いかんせんフリガナを知らないものでね。これは、どのように読むのが君の意図なのか、文字の上では分からぬからね」

 そうして男は書きつけたのだった。何の迷いも無く。

『VIIII』と。

 ぞっと、冷たいものが腹に満ちる感じがした。はあ? なぜ知ってるんだ? 動揺が態度に表れているに違いないが、それでも冷静ではいられない。
「怖がらなくていい」と男は言った。なだめるというより、驚かれては心外だという風に。でも、冗談じゃない、なぜ、実在の八月一日夏生とネットのVIIIIが一致したんだ? 何がつながっているんだ? celestaでさえ――僕だって、celestaのことは――知らないというのに。

「……あなたは、誰なんです?」

 誰という語の中に、あのコミュニティが含まれ、その一員であることを明かすも同然だが、これよりマシな文句が見付からなかった。

「ああ、そうか勿論『ひとに名を尋ねる時はまず自分から』のセオリーが成立する。よかろう。それにね、私は君の本名、住所、電話番号、メールアドレス、その他のハンドルネーム等個人情報は全く知らない。全くだ。私が知るのは君の言語と思想の片鱗のみだ。君の身体に出会うのも今日が初めてだ。安心したまえ。私が名乗ったところで、君がかれ(机上のVIIIIを指差す)ではないと主張してもいっこうに構わないし、君の言い分を全面的に認めよう。話すことは何一つ変わらない。ともあれ私の名は、こういうものなのだが……」

 そう言って、男はVIIIIの隣に書いた。

『VIIII †』

 プラス? いや、続きがあった。

『†闇巫』

 う うわあ……

『†闇巫ノ騎士†』

 うっわあ………………

「〈ダーク・ナイト〉と申す。宜しく」

 頭上に隠しカメラがあってさ、しばらく経ったら看板持ったK缶が『ドッキリ大成功!☆』って出て来んの。大団円じゃん。やったあ~……

「敬遠しているようだが、これは魔除けの名だよ。勿論現代風にアレンジしてあるがな」

 ……いや確かに、悪魔や死神を退けるためにわざと邪悪な意味や汚い言葉を名前に使う風習はあるけれども、けどさあ。「現代風」のサンプリングにネット使っちゃ駄目でしょう。
 詐欺師、電波中年男性と来て邪気眼まで格上げされたこの男に対して、僕、VIIIIはどうすればいいのだろうか。

「……あの、特に読み方決めてないんです。ただまあ、自分では……ヴィー って呼ぶのが……そうですね、最近では」
「ふむ。それではヴィー君。つまりこれはオフ会ということだ。君の身体に初めましてを言おう。
 それではまず私が君の問いに答えなければなるまい。条例に触れない範囲で何でも訊いてくれたまえ。勿論運命判断もしよう。さ、何がいいかな」

 ツッコミ所は多々あるがそれは質問とは違う。

「あの、まず、なんでオレの名前を知ってるんですか。なんで見ただけでオレって分かったんですか」

 フム、と†闇巫ノ騎士†は顎をさすった。言動がいちいちうさん臭い。

「ヴィー君。それにはまず、私が視えるということを説明せねばならぬ。何、君もこの手の事象に抵抗はないだろう。私は、視える。そうとしか答えられないし、それだけで要項は掴める筈だ。もっとも身体的特性や住所や家族は、直接的には分からない。ただ私が君を視て、君にいくつかの質問をしながら推理すれば目星は付くだろう。それは情報量の問題であって誰にでも成せる探偵の業だ。そうではなく、私が大勢の中から君を見抜いたことであるが……」

 スッと人差し指を掲げる。

「それが、視えるということだ。分かると言ってもいいのかも知れない。ただし私は自由自在に全てを視渡せる超能力者ではない。時が要請するから、私に視えるだけなのだ。私が君を捜していたから視えた。私の目の前を君の身体が通ったから君が視えたのだ。私が君を自在に呼ぶことは出来ない。無いものを見ることは出来ないからね。見えたから、視えるのだ」
「それって、サトリとか、透視とかではないんですか」
「あれは見えないものを視る術だ。私には視えるものしか視えない。待ち合わせの相手がいるから見つけられる。探しているから見つかる。必要があるから視えるだけだ。だから私は君を無償で視ている。私が君を見つけ、呼び留めたからだ。それでは何故呼びとめたのか。求めるものを、君が持っているからだ。雨乞いをするから雨が降るのではないよ、雨が降りそうな雲や風を見出して雨乞いをする、だから雨乞いは成立する。君は、そう、非常にぐずついた空模様だ。降らないという方がおかしい。だから私は、君に傘を与えようと思う。その代わり雨が降るまでちょいとつき合って欲しい。なにせここらは長らく日照りでね。私は民衆のために雨乞いダンスをしたいのだがあいにく雨雲の気配がなかった。そこに雨男がやって来た。これはもう、踊るしかない。君も傘を差したいし、頭上の雨雲を取り払ってスッキリとした青空を拝みたいだろう? そういうことだ」
「あの、いいですか」
「何なりと」
「比喩が多過ぎて何言ってんのか全ッ然分かんないんですけど」
「ふむ。見えないものを語る話術が比喩というものだ。すまないな」

 全くもって訳が分からないが、少なくともこの男がマジということは分かった。

「とにかく利益は一致する。この辺りでは日照りが激しく、民衆は苦しんでいる。私、祈祷師は雨乞いをする。しかしそれには雨雲が必要だ。そこに今にも降りそうな雨雲を携えて雨男がやって来た。それが君だ。君は雨具を持っていない。そこで、傘をやるからちょっと降るまで付き合ってくれないかという話だ」

 紙にビミョーな図を書いて説明する。棒人間で「民」「祈」。雨男(僕)は頭上に雲をのせている。描かれた太陽はのどかなポカポカ陽気みたいだが、民に「日照り」の矢印を突き刺す。「祈」から「民」に向けて「雨乞い」の矢印。「祈」の手に「傘」。

「ここまで、分かるね?」
「まあ、なんとなく」
「質問があるだろう?」
「言っていいんですか?」
「勿論だとも」
「その、たとえ話の中の、傘は分かります。アドバイスとか、僕にとっての利益ですよね、何らかの」
「呑み込みが早くて嬉しいよ」
「雨と、雨雲。それから日照り。これは何なんです?」
「ふむ。雨雲は君が抱く障壁……言わば悩みだ。君の青空を覆い隠している。君の苦悩は、我々が直面する事態にとって大いに有用なのだ。我々は多かれ少なかれ苦悩するものだが、君の苦悩は雨雲だった。君の苦悩を晴らすことが、この瞬間に丁度よく適しているのだ。もしも民の悩みが日照りではなく洪水だったら……私は傘を貸すだけで、ここまで長話はしないよ」

 ふむ。
 つまり僕は利用されるらしい。

雑談相手

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雑談相手

 随分昔、父に連れられて、西S駅から下流の交通公園までT川沿いを散歩したことがあった。父はかつてこの分流の此方岸に住んでいたが、河川の拡張工事のため父の家は市外に立ち退き、生家は今やこの川底だと語ってくれた。聞き手の僕は十歳そこらで、語りの中の父の齢もそれと同じかもっと幼いかだった。彼岸にはその頃から精神病院が建っていて、父は周囲の大人から、あの病院には本当に狂って壊れてしまった人間が入院していて、素行の悪い子供もあそこに一緒に閉じ込められると脅されて行儀良くしていたと言う。川の向こうに行ったら戻れなくなる。今でこそ馬鹿馬鹿しいしひどい話だ、父はそう笑っていた。僕は「狂って壊れた人間」が分からなくて父に尋ねた。思い出してみれば父はだいぶ慎重に言葉を選んだ筈だ。

「思っていることがみんなとはずっとかけ離れてしまって、話が通じなくなってしまった人だろう」

 そう言って、また慎重に付けくわえた。

「でも治るんだよ。治るから病院があるんだ」

 それから知ったのは、治ると分かったのは二十世紀に入ってからで、それ以前あるいは戦時下では「狂って壊れた人間」は幽閉されるか殺戮の対象だったということ。
 考えたのは、あの頃から僕は向こう岸にいたということ。

 あれから、あの病院にこそ通わなかった。十七か八の時父が探し出したクリニックは新宿の一区画にあり、あとで調べたところ新宿には九十件超の精神科・神経科・心療内科医院があるらしく、選び放題だったらしい。初回だけ父と行き、病名を与えられ、いくつかの錠剤を与えられた。服用したが、変化はなかった。薬が無くなる頃に行き、薬と雑談を与えられた。全くの雑談だった。その時の医師の趣味はスキューバダイビングで、石垣島でマンタと泳いだそうだった。僕はいいですねとだけ答えた。感動的な体験でしたよ、やってみてはどうですと医師は語りかけた。そのうちやるでしょうと僕は答えた。医師は僕を面白がったが、僕には無益さばかり募った。紙幣を錠剤に両替しているようなものだった。じきに通うのを止めた。
 今更受診を決めた理由は周囲の圧力以外になく、行かなきゃ敬司君や井下田君に怒られるからという消極的な発想に他ならない。いずれ両親や塔子さんと目見えた時の免罪符が欲しかった。一応行っています、けどやっぱり駄目そうです、だからもう僕のことはどうか放っといて下さい。と。
 とは言え自分なりに変化というものを考えた。九十もある精神科の中から一件を選びなおすだけだった。市内にもあるし、キャンパスの傍にもあるだろう。どこでもよかったしどうでもよかった。検索をかけて適当に目に留まったところにアポイントを取り、十二時に面談した。同じく新宿エリアであるが、今迄の医院よりは駅から離れ、雑居ビルの十二階で、道に迷いそうな立地だった。実際道に迷いかけ、予期せぬ散歩となった。それでも時間には間に合った。迷って丁度良い位だった。
 そこで、珍しく、何も貰わなかったのである。病名も紹介書も与えられず、「経過観察」僕を診た若い医師は言った。僕は、不服はないが、これは雑談に金銭を支払っているのではないかとはっきり口に出してみた。どうせもうこれきりの関係だろうからといささか不躾に振る舞えた。医師は、ごもっともではあるが、それが治療なのだからと但しを付けながらも、

「けれども金銭を支払わないと話す相手もない人も、なかなかいらっしゃるのですよ」
「僕にはいます」
「雑談相手」
「はい」
「それは素晴らしい」

 僕はありのままを語り、医師は大変興味深いと答えた。

「凝り固まっていますよ、あなたは。複合的に絡み合っていますから、その奥深くから、一つずつ解していくほかないのです。今はつらくないのでしょう。だから、いずれつらくなったらまたいらっしゃって下さい」

 行かない気がした。「もうひとつ質問なのですが」
「はい」
「症状が出た時であれ苦痛でなければ来なくて良いということでしょうか」
「あなたが必要とするときにいらっしゃって下さい」

 お大事にどうぞと医師は言った。医師は誰にでも言った。経過観察。変化。

 空腹だったがそのまま帰宅して遅めの昼食にしようと決めた。帰りの電車で、昨日から読み続けている小説の続きをめくった。活字を追う目は止まりがちで、僕は変化についてとめどない思考をあそばせていた。電車の揺れに身を任せ、昼の光にあてられてなかばうとうとしていた。変化は、やはり、二人の同居人が最たる異邦人だった。僕らはもう慣れた筈だ。すると、変化を細密にとらえる余裕が生じるのかも知れない。「経過観察」を反芻した。無性にこれを誰かに伝えた方がいい気がしてきて、誰かにを突き止めればそれは塔子さんだった。僕は会話の中で経過観察と診断されたことをこぼし、彼女はなんでもない相槌をするだろう。彼女は次の話をはじめる。彼女にとっては取るに足りない、しかし僕には、ささやかな吉兆のように思える気がした。

 C駅の改札を抜け、帰路を歩き始めた。病院を出て一時間も経っていなかった。経過観察とは言い替えれば現状維持であり、それは変化の対義語であるにも関らず、僕は変化を見出していた。見出したがっていた。僕は退屈しているのだろうか? その癖、後方で手を叩く音がしても、無関係だろうと思って振り返る事をしなかった。拍手は続いた。僕は歩みを止めなかった。真後ろから聞こえる程音が近づいてようやくちらりと振り返り、すぐに立ち止まった。セレスタだった。

「すみません……気付けなかったものですから」

 名を呼ぶことが出来ないのだ。少女は僕の目の前まで腕を伸ばして拍手した。思わず目を瞑り、目を開けたら少女はしたり笑いだった。高校生の帰宅には早い時刻だが、と、浮かびかけた疑問は飲み込んで、「もう昼食はとりましたか」、より即時性の高い問いを立てると、彼女の回答はNOだった。一緒に食べる事にして、セレスタの一存でドーナツになった。昼下がりの店内は、百円セール期間のせいもあり子供連れで騒がしかったが、隅の二人席が開いていた。彼女はメモ帳に注文を書いて、ポイントカードと共に僕に渡した。僕は同じものを買って、席に着いた。僕は冷たい水を口に含んだ。

『最近どうですか』

 彼女は左手でドーナツを食べながら右手でペンを持って書いた。

「まあ、まずまずです。良くもなく悪くもありません」

 けれども変化はあるのかもしれない。「貴女は」

『ふつー』

 砂糖の付いた指を舐めた。それだけのことであるのに、いやに目に留まった。本人は気にもしていないのに僕ばかり注視していることに気付き、そこにもまた引っ掛かりを覚えた。発端は、恐らく、舐めるという行為の幼さだ。けれども要素が組み合わさって面倒な興味を覚えている。気になったところで何にもならない。
 彼女は首傾げ僕を見た。「いえ」、とっさに声が出た。彼女はきょとんとして発言を待っていたようだけど、僕の言葉が続かないから、じきに話題を変えた。

『昨日読んでた本は?』

 昨日から読みはじめ、まだ読了していない。また一口を含んだ。冷たい。水ばかり飲んでいても仕方がない。

「あの映画の原作で、この前頂いたチケットの。『汀線』というのですが」

 古本屋に立ち寄った際、百円棚に偶然『汀線』という題の小説を見つけ、購入して読みはじめた。

「男がいて、男は拾った流木を持っていて、海岸線に線を引くだけの生活をしています。水際に沿ってずっと線を引きながら歩いているのですが、波がありますから、描いた線は消えていきます。半ばまで読みましたがずっとそれです」
『それだけ?』
「そうなんです」

 鞄から『汀線』を出して見せる。一センチもない薄さの文庫本。

「あまり、ストーリーが無いから、本に急かされることがなくて。だから自分で読まなければならない」
『?』

 セレスタは首を傾げた。今の発言は、口を突いて出たもので、殆ど深く考えていなかったのだ。「分かりにくいですね」今度は伝わりやすいように言葉を選んだ。

「続きを早く読みたいとは思わないんです。生死にかかわる事件も、どんでん返しもなくて、かといって幸福な平穏でもなくて、鬱屈している訳でもなくて。早く知りたい結末が無いんです。だから急いで読む必要がないんです」

 それでも結局よく分からない。僕もよく分かっていない。セレスタは手を拭き、はじめの方の頁をめくった。

『すき?』
「まだ読み終えていないのですが」
『今のとこ』
「悪くないですよ」
『おわったらかして』

 勿論だった。彼女は笑った。

「僕は、面白くない小説の方が落ち着いて読めるみたいです。幸福でもなく不幸でもなく、急かされない淡白な語りの方がちゃんと読めますし、そういうものを求めているようです」

 彼女は少し迷いながら、『おちつく?』と尋ねる。
「そうかも知れません」

 自分で感じていたよりも『汀線』は好みなのかも知れない。それに、『海ですね』「そうですね」見透かされていたようだし、僕も自然と欲しているらしい。

「説明は上手く伝わりましたか」

 ふと不安が過り尋ねると彼女はペンを口許にあて首を傾げる。

『わかったようで わかんないです』
「すみません」

 彼女は首を振る。『ただなんかわかりそうです ギリギリです』
「でも、僕もよく分かっていないんです」

 考えないでものを言うことが自分は多過ぎるのかも知れない。言い訳がましいが、考えれば考える程雑多であいまいな事実につき当って、正しい結論を見出せなかった。結論に辿り着く努力を止めた。悟ったようなつもりでいて僕は不誠実なのだろう。
 セレスタは、視線を泳がせて考えに耽っていた。何が見えるのだろうか。ふとひらめいたらしく、書き付けた。

『ゆらゆらがすき?』

 僕の傾向として。成程と思った。すきかどうかは確信が持てないが、確かに求めているらしかった。見出されたことへの感慨に浸り、「雑談の重要性」を思った。医師より彼女の方が上手いではないか。

「先程まで雑談の重要性についての雑談をしていました」
『雑談?』
「雑談も、ある場合には本質を掴み、解決の糸口になるようです」

 セレスタは『雑談』に下線を引いて反芻した。

「世の中には金銭を支払わないと雑談の相手もいない人がいるのです」

 彼女は右手で丸印を作った。その辺に関しては僕らは幸運だった。
 若年者の彼女が劣っていると感じたことは一度もなかっただろう。僕に会話を求める彼女を僕も迎え入れていたし、僕は僕で、彼女は実は僕みたいな人間なのではないかと独りよがりにも淡く期待を寄せているようである。
 端的に言うと、彼女は見ていて面白かった。それこそ『ゆらゆら』しているのかも知れない。

 席を立つ際に彼女はザムザの分の購入を提案した。また、同じものを買って店を出た。駅前の喧騒を抜けるとじきに通りには僕らしか居なくなった。喋りはしないが、確かに僕ら二人で並んで歩いた。何気なく触れて僕の手を取った。僕が見ても彼女は答えなかった。でも笑っていた。彼女にとってこれは何らかの言語だった。

眠れる街の

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眠れる街の

From:celesta
Title:RE:

メールありがとうございます◎
自分を作ってるってたしかにそうだなあって思いました(‘ω’*)
ゴシックファッションかっこいいですね(*^ヮ^*)
黒とか格好いい系も着てみたいです そういうのもたまにはいいかな?w

私もその人みたいに、自分のことを作っているタイプです
自分でゆずれないって部分があって、そこを強めるために、着るもの・身につけるものを選んでいます
VIIIIさんは作らないタイプとおっしゃいましたが、実はみんなちょっとは自分のことを作ってるんじゃないかなって私は思います
VIIIIさんだってお洋服の好みとか、好きな色とか、自分で選んでる部分があると思います
それが、例えばゴスロリとか分かりやすい好みだと、作っていることが分かりやすいだけで、カジュアルな洋服だって自分を作っていることになるんじゃないでしょうか?
みんなが自分のことを作っているけど、作っている内容に程度の差があるんだと思います
私はけっこう作っている方ですww

私が好きなのは、作ってる人の中で、自然に作っている、自分に似合っている人です
知人に、自分のことを作ってるだろうなって人がいるのですが、
その人はその人の内面に本当に似合ってると思います
(内面なんて、私は他人だからわからないのですが´・ω・`)
ただ、その人は、これしか自分には似合わない、と、消去法で選んでいるそうです
それでも似合っているのだからすごいなあって思ってしまいますが(・ヮ・`)
自分で選んだ服が自分に似合ってるってことは、それだけ自分がしっかりしてるのかなって、
そう考えると尊敬とか、あこがれてしまいます
私はたぶん全然なんです 見た目をとりつくろって見た目に助けてもらってます
つまらない自分をごまかすために自分の姿を作ってるんだと思います

…暗くてすみません><

私けっこう根暗です みんなに明るいって思われてるんだろうけど

 

From:VIIII
Title:RE:RE:

こんばんは。なるほどなあって思いながら読んでました。
僕もたぶんすげーネクラですよ(笑)
他人のこと羨んでばっかりです。

程度の差っていうのが頷けます。好き嫌いも結局、理想像に近づこうっていう思いなんですね。
僕は自分の見た目は派手すぎず地味すぎずに決めています。例のゴスの友人には絶対かないませんwww
その代わりかどうかは分からないけど、僕は音楽を聴きます。別に音楽ファンではありません。(ライブオタとかロキノンじゃないし、別に詳しくもないです)
僕は洋楽が苦手で邦楽を聴きます。音楽のことばが好きだからです。僕が好きなのは歌詞が上手いバンドです。たぶん読書するような気持ちで音楽を聴いてるのだと思います。僕はことばが好きだから、好きなことばを音楽で選んでいます。

celestaさんのお話はとても面白かったです。
まるで上から目線で申し訳ないのですが、僕は、celestaさんが自分の意見をはっきり持っていると思うし、意見がないと自分を作ることは出来ないと思います。
僕は他の人のことばを聞けるのがとてもうれしいです。日常会話の中のお喋りよりも、もっと深い所で、話がしたいと思っています。
誰しも考え事をして、自分のことばを持っているはずです。けど、そのことばが表にあらわれることは滅多にないと思います。それでは何かもったいないです。
だからcelestaさんの思うことを聞けてとてもうれしいです。気持ち悪かったらすみません・・・

 

From:celesta
Title:RE:RE:RE:

ありがとうございます(*´ω`人)+゜
私もVIIIIさんのお話が好きです*

そうですね、本音でお話ができるのってすごくめずらしいことだと思います◎
たとえ私に宛てられたものでないにしても、ひとのことばを聞くのはとてもすきです
だからVIIIIさんとのメールもとてもたのしいです:)

私は音楽ぜんぜんくわしくないです…..
VIIIIさんのおすすめとかありますか?

 

From:VIIII
Title:RE:RE:RE:RE:

ありがとうございます!!(照れますwwww)
僕が一番好きなのはDrive to Plutoっていうバンド(もう解散してしまった)なんですけど、
このバンドはちょっと特殊で、
歌詞はあるのにボーカルが歌いたがらないからインストじゃないのにインストなんですw
だから歌詞カードを読んで、歌を想像するしかありません。ギターやドラムの音は普通に入っています。
こんな変なバンドだから全然売れなかったみたいで、CDはプレミアがかってることもあります。
僕は動画サイトからうまいことやってますが(笑)
最近好きなのは「鉛色の一日」って曲です。URL貼っときます(よかったら!)

>たとえ私に宛てられたものでないにしても、ひとのことばを聞くのはとてもすきです

すみません、「自分に宛てられたものではないことば」とはどういうことでしょうか?

 

From:celesta
Title:RE:RE:RE:RE:RE:

わーDrive to Plutoおもしろそうですね(*・∀・*)!
鉛色の一日を聴きました
落ち着いていてきれいな曲ですね*
どんな感じで歌が入るのでしょう?
ほかの曲も聴いてみたいですo(^-^)o

したしい人がふたりいて、私ふくめて3人でお話することが多いのですが、
ときどきその人たちふたりで話しているのを聞いています
私は隣にいるだけなのですが、ふたりのお話がとてもたのしいです
だから私に対してのことばじゃなくても、ことばを聞くのはおもしろいです’`*

 

From:VIIII
Title:RE:RE:RE:RE:RE:RE:

やった布教成功!(笑)
周りにあまりにもファンがいないからさびしいんですよ(笑)
でも皆に有名になったらやだなあと思いつつ。だから限られた人にしか広めてません。
もっとも、とても万人ウケするとは思えませんがww
同じアルバムに入っている「she,see,sea」もいい感じです。PVのURL貼っときますんで、どうぞ!

音楽や本はもしかしたら「自分に宛てられたものではないことば」なのかもしれないですね。
僕のために書かれたものではないけど、僕はそれを聴いたり読んだりして、共感したり感動するので。
たまに、この曲は僕のことを言ってるんじゃないかと思ったりすることもありますが・・・・(笑)一方的な思いこみですけど・・・・・

一緒に喋る友人はまあいるんですけど、自分の本当に思っていることを話せる相手ってなかなかいないと思います。
僕は本当は色んな人と話をしてみたいです。
僕は話すことも好きだし、聞くことも好きなんだと思います。


もしもcelestaさんが、何かいいたいことがあるのに周りに言えないような時が来れば、僕のことを使ってくれていいです。
愚痴とか、イラついたこととか、何でもいいので僕に当たり散らしてくれていいと思います。
こんなことを言っておきながら僕は誰かをなぐさめたりはげますのがすごく苦手です。
けれどもせめて話を聞くことぐらいは出来るんじゃないかと思います。
せめて自分に出来ることをしたいんです。
だから、何かあったら僕が話を聞きます。
文字じゃどうすることも出来ないけれど、僕を頼ってくれたらうれしいです。

 

From:celesta
Title:RE:RE:RE:RE:RE:RE:RE:

ありがとうございます*
私もうれしいです◎ 0833731

 

 やばい。押しすぎた。食いつきすぎた。ヤバイ絶対ドン引きされてる。
 たった二行になってしまった彼女の返信を見て、過ちを思い返して、赤面して、のたうちまわる。僕の家の僕の部屋の中だし、もう深夜一時を回っているから、この奇態が誰かの目に触れることはないだろう。すぐに釈明を返したかったが今は冷静にメールを打てる気がしない。明日の朝に回すことにした。それにもう彼女は眠ってしまっただろうから。
 0833731 は彼女がよく使う数字で、何を意味しているのかまるで分からなかったが、ぐぐってみるとどうやら前世紀の端末で「おやすみなさい」を表した語呂合わせらしい。ずいぶんと古いスラングだ。ともあれ0833731があると彼女はもう返さない。
 ということは寝る間際の彼女にドン引きメールを送ってしまったという訳で、本当に申し訳ないし、非常に恥ずかしくて正直消えたい。夢見最悪だろうなあ。もっとやわらかに遠回しに言うことは出来なかったのか、そもそもあそこまで言う必要はなかったのではないか……発言は無かったことには出来ないのだけど。
 深夜一時。さっきまで彼女はこの街のどこかに起きていた。そしてたった今眠りに就き、僕はまだ起きている。同じ時刻を過ごしたのだ。当然の事ではあるけれども繰り返し考える。同じ時刻を過ごしたのだと。

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