予告編がTwitterで流れたとき、一部で「こいつヨドミでは?」とネタになった映画『ハリー・ポッターが便利な死体』『スイス・アーミー・マン』をようやく観た。
観たんだけど、観終わったあと、一緒に行った友達と「え? ……え??」みたいな呆然とした状態になってしまい、レイトショーだったので終電も迫り、感想も語り合えないまま別れてしまった。駅での別れ際でも互いに「え?? え???」という気持ちのままだったので、ひとまず「各位、感想を絵でも文章でもいいのでまとめること」と誓約を交わして解散した。
というわけで感想を書きます。感想なのでネタバレも書きますが、ミステリーみたいにストーリーの筋やネタバレが重要な作品ではないので、これぐらいのネタバレは許されると思う。
(怖いのは私の解釈を読んだ人が劇場に行って、私の解釈どおりに映画を観てしまうことです。解釈はひとそれぞれでいくらでもあると思うので、私の解釈があなたの視野の幅を狭めないよう願うばかりです。)
総評として、テーマ・モチーフの繰り返し(お笑い用語で言うところの「天丼」)とストイックな音楽によって、よくまとまった作品だった。生者と死者のふたつの視線で見ることでものの意味の幅が広がり、ギャグの面白みを増している(例:生者には命の危機が迫っているが、死者は「死ぬ」という危機が分からないため悠長)。
また、作中音楽は「主人公の頭の中で鳴っているか声に出して歌っている」という設定なので、ボーカルとクラッピングを軸にしており、音作りの世界観が徹底されていて良い感じだった。そして美術も、舞台が「無人島ステージ」か「森ステージ」しかないミニマルな舞台でその場に落ちているゴミを使ったセットは、とてもかわいげがあって美しい。世界観や約束事が徹底されているので、「よくまとまった作品」だと思った。いや、まあ鑑賞後の率直な感想は「えっ???」なんだけど。
『スイス・アーミー・マン』は「笑えない状況で笑ってしまうことが笑えないという笑い」である。その困惑を笑ったり、困惑について考える作品なのだと思う。
同じ不条理死体モノの先駆作である、ガルシア=マルケスが書いた美しい水死体エステーバン(『この世で一番美しい水死人』)に惹かれた人は、死体としてのスペックを比較をしても良いかもしれない。
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そんな訳で以下感想です。ネタバレ注意!
あらすじ
無人島で助けを求める孤独な青年ハンク(ポール・ダノ)。いくら待てども助けが来ず、絶望の淵で自ら命を絶とうとしたまさにその時、波打ち際に男の死体(ダニエル・ラドクリフ)が流れ着く。ハンクは、その死体からガスが出ており、浮力を持っていることに気付く。まさかと思ったが、その力は次第に強まり、死体が勢いよく沖へと動きだす。ハンクは意を決し、その死体にまたがるとジェットスキーのように発進!様々な便利機能を持つ死体の名前はメニー。苦境の中、死んだような人生を送ってきたハンクに対し、メニーは自分の記憶を失くし、生きる喜びを知らない。「生きること」に欠けた者同士、力を合わせることを約束する。果たして2人は無事に、大切な人がいる故郷に帰ることができるのか──!?
公式ウェブサイト「story」より
タイトルはスイス・アーミー・ナイフ(≒十徳ナイフ)が由来。実際、これより高性能です。
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笑える内容なのに、状況のせいで笑えないのが笑える
まず前提として、この作品を笑っていいのか、観る人は困る。最後まで困る。
無人島に流れ着いてしまったハンク(生者)は、いろいろ必死の救援要請を試みるも報われない。このハンクの救援要請がなんだかかわいくて微笑ましいのだが、本人は瀕死なのだから笑えない状況である。「笑える内容なのに、状況のせいで笑えない」という反転によって生じる「笑い」がこの映画を占めている。
助けが来ないのでとうとう首吊り自殺を試みるハンクは、浜に流れ着いた男を発見する。もしや生きているのでは? と人恋しくなって喜んで近づくも、男はすでに事切れていた。「無人島で孤独に救助を待っているなか、やっと出会えた人間は死体だった」、この状況は悲しい。悲嘆に暮れるハンクだが、なんだか状況にそぐわない異音がする。異音の正体は屁である。ダニエル・ラドクリフの演じる死体のケツから絶えず屁が出ている。
悲嘆ムードが屁で台無しになる事態は笑える。けれども屁の原因は、死体の体内が腐敗して発生しているガスである。「死」や「腐敗」という事実は笑えない。ここで観客の笑いに一抹の混乱が混ざる。これは笑っていい笑いなんだろうか?
ダニエル・ラドクリフが演じる死体はブリブリと屁を出し続ける。じきに死体は屁の推進力で海に発進してしまう。そこでハンクは意を決して死体に手綱をつけてまたがった! 死体はジェットスキーのように海を発進! 青い空! 青い海! 波を切って走る死体!!! 高まる音楽!!! イエーーーーーーーイ!!!!!
ここでタイトルが画面にバーーーーン!!!
Swiss Army Man!!!!!
マジです。
遭難という笑えない状況を描きながら、脱出手段である死体の描写は笑える。しかし死体の存在自体は笑えない。なぜなら死体もまた何らかの事故か事件の被害者だからである。笑えない・笑っちゃいけない状況なのにどうしても笑えてしまう、しかしその笑いにもためらいが含まれている。
つまり、あるものの意味はその「もの」自体に宿っているのではなく、そのものを「いつ」「どんな状況で」「誰が」扱うのかによって変化する。ものの意味は多重である。ここでは屁の笑いをめぐって、屁の意味の多重性を表した。
ウンコとかオナラとかいう排泄物は、子供向けのギャグでよく扱われる笑いの対象である。子供はウンコやオナラで笑い、社会性の常識を獲得した大人はウンコやオナラをはしたないものとする。ウンコは日常生活においては取るに足りないものだ。しかし野生動物がうごめく深い森の奥では、糞は近くに生物がいる兆候になる。先程のオナラと同様にウンコの意味も多重に移り変わっていく。ウンコは取るに足りないものであるが、生物の痕跡という有益な情報も表している。そしてすべての生き物はいずれ死体となり、誰かのウンコのなかに混ざり合って消えてなくなる……
異界と走馬灯
屍ジェットスキーで無人島を脱出したハンクが辿り着いたのは海辺の深い森だった。所々にゴミが落ちていることからどうやら人里は遠くないらしい。人恋しさもあってか死体を連れて探索をするハンクだが、ひょんなことから死体が喋る。この時点でエステーバン(喋らない)より優秀である。やったね!!!
死体はメニーと名乗る。メニーは生前の記憶がなく、また(死んだせいか)浮世離れしていてハンク(生者)の常識が通じない。だから糞や屁の受け取り方もハンクとは違う。死んでいるメニーに常識はない。生者と死者は隔たれている。
メニーはこれまたひょんなことから、ハンクがスマートフォンの壁紙に設定している写真の女に惚れてしまう。メニーが性的に興奮すると彼の局部が人里の方角を示すコンパスになる。バカ映画だよこれ!!!
ここでも「死者がセックス(生)に興味を持つ」という笑えない笑いが起きるが、ハンクにとってはメニーのコンパスが自身の生存に直結する。ここでも笑いの意味が多重にかさなっている。笑えるのに笑えない(から笑える)状況だ。
メニーが写真の女に恋をして、人として幸福な気持ちになることが、ハンクの生還につながっている。ハンクはその辺のゴミで人形や舞台セット(パーティー会場や映画館など)を作り、自身は女装して写真の女になりきってデートする。生者と死者は森のなかで「擬似的な楽しい思い出」を共有し、いつしかふたりに友情が芽生える。
ところで、映画の舞台である海や森というのは異界である。日本を含めた多くの地域の神話・伝承で、死語の世界は人里を離れた山奥や海の向こうにあるとされてきた。ハンクとメニーがさまよう森は死後の世界・死者の世界でもある。事実、遭難して自殺も考えていたハンクは死者の世界に片足突っ込んでいたし、メニーはすでに死んでいる。
異界である森のなかで、人形やセットを作って楽しい思い出を演じることは、死に際に見る「走馬灯」体験そのものではないだろうか。しかしこの走馬灯は、ハンクにとっては生還するために見る走馬灯である。絶海の孤島や深い森林からの帰還は、ハンクにとっての死から生への「黄泉がえり」である。すると、二人が演じた「走馬灯」は、ハンクが自殺を試みたときに見ようとしたものであると同時に、メニーが死ぬ前に見た走馬灯でもあったんじゃないだろうか……そんな空想も抱いてしまった。
話はずれるが、走馬灯とは「死に際に見ると言われている人生のさまざまなダイジェスト映像」とされている。私は走馬灯を見たことがないので(そして走馬灯を見た人は死ぬので)、実際に死に際に走馬灯なるものを見るのか、それがどんなものであるかという情報はない。
ハンクは人形やセットを作って人生の縮図を再現した。人形やセットを使ってシナリオを演じることは、映画という媒体そのものの再現ではないだろうか? 映画もまた誰かの人生のダイジェスト映像であるからには、映画は走馬灯であり、走馬灯は映画であると言い換えることもできるだろう。
この「擬似的な思い出」シーンの映像は極めて美しい。光はキラキラし、盛り上がる音楽が気持ちを高めていく。けれどもやっていることは冷静に考えるとやっぱり馬鹿馬鹿しい(死体と女装男の擬似恋愛だ)。馬鹿馬鹿しいことをとても美しく撮っているものだから、やっぱり笑えてしまうし、その笑いにもためらいが含まれている。彼らは本気でやっているのに、それを見ている自分は彼らを笑っていいのだろうか?
他人の目によって、走馬灯は映画に昇華される
ハンクはメニーのために楽しい思い出を作ろうとする。楽しい思い出を通じてメニーの機能は向上し(歯は髭剃りになり、指は火打ち石になり、手刀で薪を割る)、メニーとの交流は図らずしもハンクのトラウマも癒やしていく。
メニーは死んでいるので生者の常識からは外れている。常識外れのメニーはハンクに新たな視座を与える。メニーと対話することでハンクは影響を与えられ、幼少期から引きずっていた「人を愛すること」へのトラウマを癒やす。そしてメニーはハンクが作ったセットによって、人間らしい愛を学んでいく。生と死の垣根も越えて、ふたりはそれぞれに新しい哲学を獲得する。それは常識や約束事から開放された明るい共同生活だ。
メニーとハンク、二人だけの世界であればそれでもいい。しかし、これまた事故的な要因で、ふたりは人里に生還する(ひとりは最初から死んでいるが)。ハンクは警察に保護されてTV番組の取材を受ける。ここでハンクはふたりだけの世界を離れて、もう一度世間(社会常識)の前に立たされるのである。臨死体験を経て心境の変化を迎えたハンクは、そこで常識に歯向かう行動を取る。
森の中のふたりきりの世界と異なっているのは、死体の奇跡をハンクだけでなく、警察官やTVカメラなどの社会の他人が目撃していることだ。閉ざされたふたりきりの世界は暴かれ、他人が侵入する。世間はハンクが獲得した哲学に無関心かもしれないし、否定的かもしれない。ハンクはメニーによって学んだ哲学を用いて、決して居心地の良くない社会へ再挑戦する。
そしてメニーもそれに応じる。死体がみせた奇跡を、今度はハンクだけでなく社会も目撃する。他人の視線によってハンクの冒険は客観的に意味づけられる。この物語は死にかけたハンクの妄想ではなく、メニーはイマジナリーフレンドではなく、すべて真実だったのだ。
見よ、最後の力を振り絞る死体の奇跡を! 成長を遂げたハンク青年を!
しかし、奇跡の現場を目撃する他人にとっては、目の前で繰り広げられる出来事に「はあ???」と呆然とすることしかできない。それは映画の観客にも同じである。観客も作中の世間と一緒になって、ひとりの青年と死体の絆を「はあ????」という困惑とともに見送らなければならない。
ハンクが獲得した哲学は何にも勝るものだが、哲学の発露方法はかなり馬鹿馬鹿しい。ここでも「笑えるのに笑っていいのか分からない困惑」が発生する。そして困惑が最高潮に達したところで、画面は The End と暗転する。え? え???
「映画」と「走馬灯」が決定的に異なるのは、走馬灯は自分だけの世界であるが、映画は他人も見ることができるという点である。他人の介入によって、ハンクの冒険は走馬灯を越えて映画になった。ハンクはこれで完全に蘇り(黄泉がえり)を果たしたと言えよう。
優れた小説は同時に小説論でもあるとむかし誰かが言っていた。同様に優れた映画は映画論となりうるだろう。我々観客は『スイス・アーミー・マン』という映画を通じて、走馬灯を越えたハンクの「映画」を見ていたに違いない。
自分でも何言ってるのか分からない。
むりやりまとめ
テーマとモチーフの繰り返し、少ない登場人物と音楽が97分のミニマルなスケールに器用にまとまっている。器用過ぎるぐらいかもしれない。
作中モチーフの繰り返し構造と、自分がこの作品によって困惑させられることに気付けば滅茶苦茶楽しいと思う。
ちなみに The End の表示されるタイミングがまた絶妙で、ハンクの立場で余韻に浸ることもできず、作中の一般市民と一緒に「で、あれは何だったの?」と悩むこともできない、本当に絶妙なタイミングで、我々観客は映画から締め出される。これは映画館で見るのが楽しかった。最後の「えっ?」からの隙のない The End により、たぶん映画館の客席は一体になっただろう──「えっ……???」と。
ただまあ、「山川が褒めてた」ということ自体が一部の人にとっては地雷発見器も同然だろうから、無理に試聴しないでほしい。そして勿論だけど、上記はすべて「私の感想」であり、読解はこの限りではない。
公開館・公開日数ともに残り少ないのでご注意ください。うん、楽しいよ。俺は好き。
まさか自著宣伝オチとは誰も思うまい