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星降る昼

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星降る昼

1. Celesta

 革靴が駅からのレンガ通りを軽快にはねた。タン、タン、タン、小気味良い足音に少女は満足する。タン、タン、タン、タン、タン。ハロウィンが過ぎると駅前通りは一転し、気の早いクリスマスの装飾をはじめていた。LEDを木々に巻き付ける作業員を横目に見ながら、タン、タン、タン、少女の眼は青空に向けられていた。十一月の澄みきった青空には雲一つない。北風が吹いて、ミニスカートの脚をすり抜けた。ロングマフラーに顔をうずめる。誰の手作りというものでもない。サイズの大きいカーディガンが手のひらをゆったり隠している。重ね着したセーラー服の上半身に比べ、ミニスカートとハイソックスが寒々しい。それでも少女は臆せず歩く。タン、タン、タン、タン。

 黄葉したイチョウ並木では銀杏を踏まないように。少し厚底の革靴が枯葉をかきわけて歩く。歩き慣れた道だ。染めた明茶の髪がなびく。瞳は青空に似て明るい。生まれ持った色ではなく、カラーコンタクトレンズだった。純真清楚な学生服ではない。着崩したセーラー服の、ちょっとすれた女子高生、街にありふれた姿。枯葉が舞い散る。街路樹のなかを行く。タン、タン、タン、タン、タン、タン、タン。

 タン、不意に少女は足をとめた。楓に似た葉の樹の下だった。五角形の星の枯葉が一面にひろがっている。その中に、何か、違うものが見えた気がした。葉っぱの中に異質なものが……少女は足元を見渡した。すぐ目の前に、それはあった。

 ヒトデ。

 五角形の、星型のヒトデが、枯葉とともに落ちていた。大きな青い眼がきょとんと見開く。

 ──落ちてる?

 しゃがみ込んでそれを見た。ヒトデは白く、骨のようだった。少女は、ヒトデが乾いて生きていないと察した。死んだヒトデが落ちていた。

 ──誰か、落としてったのかな……

 辺りを見ても、もちろん、それらしい人はいない。少女は首をかしげる。ためらいながらもそのヒトデを手のひらにのせた。見た目の通り、ざらざらしていた。作り物ではなく本物らしい。少女は考える。微細なとげでおおわれたその星型を見つめる。この街に海はない。

 やがて少女はヒトデを手に立ちあがった。持って帰るものか、なやんで少女は苦笑した。持って帰っても仕方がない、と、元いた場所にヒトデを返した。そして少女は歩き去った。革靴の足音を響かせながら。

 その日、東京にヒトデが降った。

2. 高田たかだ 敬司けいじ

 閑静な午後の住宅地はとても平和で、事務仕事の手を止めて通りを眺めた高田巡査は、妙に心休まる気持ちになり、書類を置いて一服した。小学生の下校時刻に差し掛かる。そろそろ子供たちが派出所の前を通るだろう。若く人当たりの良い彼は、学区内の小学生と、近所の婦人に支持された。それは頼れるお巡りさんとしてというよりも、遊び相手のお兄さん、息子よりもかわいいアイドルという認識だったが、彼はイメージを否定しなかった。街のお巡りさんとはそういうものだと割り切っていた。やさしさ故というよりも、ある計算高さをもってやさしいお巡りさんであり続けた。

 さてと。巡査はガラス戸の外に目を向ける。日が差しているとはいえ、今日は風が冷たく、隙間風が扉を揺らした。こんな日でも半袖半ズボンの小学生がいる。いつの世代でもそうだ。俺の頃にもそういう奴がいた……向こうから来る子供たちを彼は笑みをもって迎えた。普段は通り過ぎるだけの子供たちは、この日は交番の戸をたたいた。みな自慢げな顔をして、「見て見て!」と後ろ手に隠したものを見せる。

 図工で作ったのか? 巡査が抱いた予想は、全く的をはずれた。それは、一切脈絡のない。

 ヒトデ。

 どこか旅行にでも行ったんだ? 海? 尋ねるよりも早く、快活そうな男の子がぺらぺらと喋り出す。

「そこで拾ったんだよ!」

「……そこで?」

「向こう向こう!」「小学校のね」「通る道のぉ」、別の子も語りはじめる。ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、話が読めない。「そこの、道に!」「おちてた!」「めっちゃ落ちてた!」

「……ヒトデが?」

「まじいるの!」「キモい!」「意味フメー!」……意味不明なのはこっちだ。

「じゃあそれは、落し物なのかな?」

「ちげーよあの」「超いっぱいいた!」「キモかった!」「あれ多分捨てられてんだよ」「みんな死んでんの」「白くってぇ」エトセトラ、エトセトラ……。

 まとまらない証言に巡査は苦笑で応対した。浮かべた笑顔と裏腹に、彼はひそかに推理をはじめ、事象の目星を立てていた。認識偏愛の気があるのだ。

 むらがる小学生の向こうから婦人が走ってくる。巡査は婦人を知っていた。あきらかにヒステリックな形相で、婦人はまくしたてた。

 聞いて、聞いてよ巡査さん。またなのよ、また、あれなのよ。あれ、あれ。今度はね、空からよ、空。雲も飛行機もないからっからの青空から、

「空から、ヒトデが降って来たの!」

 婦人と小学生に連れられて巡査は現場に駆り出された。無知な警察を振る舞いながら、彼はこの現象をしずかに貪欲に構えていた。彼の本心は醒めていて、よろこびさえ覚えていたかも知れない。殊にこのような意味不明の事物に関しては、胸の内に冷静な執着マニアを抱えていた。ほんのわずかに誰にも気付かれないほどに彼はかすかに微笑を浮かべる。既に現象名に心当たりがあったのだ。

3. 八月一日ほずみ 夏生なつお / 荻原おぎわら 映呼えいこ

「FAll FROm The SKIES 略して FAFROTSKIES(ファフロツキーズ)現象。こんなふうに、空から降ってくる超常現象のことを言う。降ってくるものはまちまちで、氷みたいな無機物もあれば、有機物、つまり生物の場合もある。飛行機がなかったような時代に、空から大量にオタマジャクシが降ってきた、みたいなケースが世界各地に残されている。降ってくるものはなぜが水生生物が多い。特に多いのが魚やカエル。これは、原因が、竜巻が川や海を巻きあげて生物を落としていったって説と、大型の水鳥が飛行中に餌をゲロったっていう説が有力。もちろん原因不明の例も多々あって、一概に竜巻のせい、鳥のせいにすることは出来ない。例えば……」

「この状況」

「……おう」

 男子高校生・八月一日夏生は説明を中断し苦々しげにそれを見る。同級生の女子高生・荻原と最寄駅傍のクレープ屋を出た所だった。自称・帰宅部の精鋭たる二人はクレープの買い食いを悠々と実践していたのだが、クレープ屋を出た直後、八月一日のクレープにヒトデが刺さった。クルクルと手裏剣のごとく回転しながら、彼のクレープのど真ん中にヒトデが垂直着弾した瞬間を、八月一日も荻原も見逃さなかった。

 とりあえず二人はヒトデを写メった。

「で、これはホズミんへの天誅、と」

「冗談じゃない」

 八月一日夏生と書いてホズミナツオと読む。某サイトのオカルト掲示板に浸かって過ごし、そういう知識を収集してきただけの、何てことのない高校生だった。

 彼はヒトデの角をつまんでクレープから引き揚げた。相当量のホイップクリームがヒトデの体表に持っていかれた。そのざらついたいびつな星を舐めようとは思えない。二九〇円のクレープはこうしてファフロツキーズの犠牲となった。

 荻原のクレープは無傷である。「あたしは行いは悪いけど、ヒトデが降ってくる程じゃないし」

 クレープ屋は駅前のレンガ通りに面している。通りの花壇に二人は座っていた。向かいにデパートとヨーカドーがある。例えばその上階からヒトデを落とすことは可能だろうと、考えてはみるのだが、事故現場は通りの真ん中で、デパートもヨーカドーもクレープ屋の真上にはないから、投げたとしたら地上に対して斜め方向に落ちるだろう。クレープ屋の二階にも店舗はあったが、そこの窓は飾りで開かない。飛行機やヘリも通過しなかった。もちろん竜巻も水鳥も通らない。辺りにいるのはハトかカラスだ。ハトにヒトデは大きすぎる。カラスなら不可能ではないだろうが、カラスがヒトデを咥える事情が分からない。

「で、ファフロツキーズの、竜巻以外の説って何?」

 荻原は指に着いたクリームを舐める。八月一日は口を付ける気になれず、クレープとヒトデを眺めていた。

「空間転移、とか」発言してみると響きは馬鹿げていた。そういう説もあるにはあった。偶然少年の頭上にヒトデがワープしてきただけだ。

 ……ねえよ。ゆがんだクレープを手に呟いた。無いとは言い切れないが違うと思った。ワープなどという大仰なことが自分ごときに起こってはいけないと思うのだ。かと言ってより合理的な仮説が見付からないのも事実だった。偶然ということで、いいだろうか。

「ホズミん、食べないの?」

 手つかずのクレープを見て荻原が言う。早く食べないと悪くなってしまう。

 クリームまみれのヒトデを持て余しながら、ヒトデが突き刺さった瞬間を、今一度思い出そうとした。本当に上空に何も無かったか? 誰かが投げたのではないか?

 思い出そうとすると、つい五分前のことなのに、どうしてもデフォルメされた観念しか見えなかった。《クレープにヒトデが垂直落下した》事象はこれだけのことだった。しかし八月一日はその情景を図式的にしか思い出せない。《クルクルクルクル……、ズボッ》というふうに。

 本当はそうでなかったと思う。現象はもっと繊細で唐突だった。現実を現実のリアリティのまま語ることはとても難しい。ましてやリアリティのない現実など。《クルクルクルクル》を認識した時には既に《ズボッ》が完了していた。一方でクルクルからズボッの間に実に多くの事が駆け回った。その時覚えた迷いも感動も怒りも順番に並べることはとても難しい。思い出そうとするそばから微細な順番がぼろぼろくずれて伝えられない。最後に残るのは《クルクルズボッ》の略図だけだ。細部はどんどんすり減っていく。そうしてありきたりな笑い話が出来あがる。

「なんかさあ」、気の抜けた声で呟く。「食べたら証拠無くなっちゃうじゃん」

「ヒトデ?」

「だって説明しても誰も信じてくれないだろ」

 リアリティのない出来事だからこそリアリティをすり減らしたくなかった。珍しいことではあるが、覚えていても意味の無い現実で、忘れた方が健全な人生を送れると、八月一日は思うのだけれども、

「もったいなくって」

 ガラクタを捨てられないのと似ている。

「でも、ヒトデじゃん。とっていても意味無いよ」

 誰の宝にもならない。

「そうなんだけどさあ」

「たぶん偶然だよ。偶然刺さっちゃっただけ。気にしなくったっていいじゃん。たぶん誰も見てないよ。何ならあたしが覚えていてあげる」

 荻原はもう半分程食べ終えていた。オレも食べなきゃ、と八月一日はやっと一口ほおばる。ヒトデでぐちゃぐちゃだろうがクレープの味に変わりなかった。至福の味をかみしめる。

「荻原」

「なに?」

「ジェラートインブラウニー超うまい」

「買い食いのクレープって至福だよねえ。でもちょっと寒くなってきた」

 クレープの包み紙と一緒にヒトデを捨てた。ゴミ箱からヒトデを見つけた従業員の怪訝な顔を想像し、彼らは盗み笑いする。

4. 高橋たかはし 塔子とうこ

 彼からメールがあったことに驚く。神出鬼没な質で、こちらから声を掛けないとつかまえられない。神出鬼没な癖に律義だからこちらから声を掛ければ必ず返信がある。珍しく、彼の方から連絡があった。

『降ってきた』

 その一文に写真が添付されていた。二、三のヒトデがまばらに路上に散らばっている。

 彼女は寝ぼけ眼でそれを見た。時差により、彼女の滞在地では夜明け頃だった。『どこにいるの?』覚醒しない頭で返事を打つと、『家のそば』と帰ってくる。彼の家はよく知っていた。海沿いでも何でもない、東京の住宅地だ。

『ヒトデが降ってきたの? いま? なんで?』布団を頭から被る。十一月のかの地は寒い。

『また降ってきた。今、三時過ぎ 分からない 晴れてます』

 断片的な言葉ばかり届く。電話や対話の時もそうで、物腰やわらかではあるが、どこか冷めていてあまり話そうとしない。そんな彼がわざわざメールを寄越したのだ、とても深い事情があるに違いないけれど、寝起きの彼女は対応しかねていた。寒くて眠くて動けない。

『本当に、空からヒトデが降ってきたの? 原因は?』

『分かりません 晴れていて雲はありません
何もない所から落ちてきました 丁度真ん中にいます
おだやかです』

 本文の突拍子のなさの割に、文体から焦りを感じられない。

 彼の言葉を信じるとすれば、東京の天気は晴れ時々ヒトデだという。

 他にも数枚の写真が送られてきた。路上にヒトデがばらまかれていて、どれもがどうやら死骸らしい。悪戯ではないと思う。悪戯するような性格ではない。嘘をつくようなひとではなかった。

 ヒトデは彼にとって「おだやか」な事物だった。「おだやか」な彼のまなざしを思い浮かべた。やすらいでいる彼を見るのは嬉しいけれど、彼女は「おだやか」なのが苦手だった。つかみどころがない。どうしたらいいのか分からなくなってしまうのだ。今も、どのように返信を書けばいいのか、考えがまとまらない。

 朝の手前のうすくらがりのなかで、彼女の意識はふたたび眠りに遠のく。ぼんやりとした頭で送信した。

『嘘じゃないよね? 夢じゃないんだよね?』

 彼女は目をつむる。夜の残り香に沈んでいく。

 携帯の振動に彼女は気付かない。

『貴女がそう言うのなら夢ではないし嘘ではないと思います
安心しました 僕も不安だったのです 夢かもしれないと思ったので
突然のメール済みません ありがとうございました さようなら まだ降っています』

5. ザムザ

 住宅地の真ん中にある小さな公園、の一角を覆い尽くすヒトデの死骸、に申し訳ばかりの立ち入り禁止テープが張られる。現場の巡査が応援を呼び、不審物ということで現場検証をする。発見者の子供たちと婦人に聞き込みをし、その後は公園の外へ帰した。幾人の野次馬が残ったが、対象はたかだかヒトデであるため、関心はすぐに霧散した。ただ一人、男がいた。

 市民をよそに、テープの外で見張る警官をよそに、男は退屈な現場に足を踏み入れた。慌てふためく警官を眺めていた。現場に飛び交う、氾濫する、記述、写真、混乱、ヒトデ。大変そうだな、と思った。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。辺りをふらふら歩きまわった。数えた所、二十匹程のヒトデが公園に落ちていた。みんな死んでいた。気持ち悪いなあと思った。ゆうゆう観察を済ませてから、彼はテープをまたいで現場を去った。警察はその男を見過ごした。せいぜいそよ風が吹いたくらいだった。

 騒動に対して、男は、ただただ面倒くさがった。あらかた見物は済ませたから、関与する気は起きなかった。喜劇としてはなかなかだが、放っておけばいずれ止むのだ。話のタネにはなるだろう。男は全然憂いていない。

 ──ヒトデ、ねえ。

 通りを歩きながら男は考えた。すれ違う影はない。風が吹く度に街路樹が枯葉を舞い散らせた。男はそれを苦手とした。雨、雪、人混み等、空間を埋めるものを嫌った。落葉もそれに類するものだった。吹き寄せを踏まぬよう歩いた。男は無音を振る舞った。だからこそ現場検証にも紛れこめる。

 ──リス、とか、可愛いものならいいのに。

 ──もしくは食い物。乾物。保存食系。

 ──ヒトデって、食えるのか?

 落葉はカエデの木に似た星型だった。だんだんヒトデに見えてきた。

 足元ばかり気にしていた男は樹上に関心を払わなかった。

 ガサッと枝葉が揺れたかと思えば、「痛っ!?」、男の声だけがした。

 通りを行く姿ははじめからない。はじめから、何もない。

 もしもあなたがこの場に居合わせていたなら、風車のごとく回転しながら落下するヒトデが、地上一・八メートル地点で、不意に跳ね返るのが見えただろう。それは目に見えない何かにぶつかってバウンドしたように見える。あなたの目には見えない何かに。

 痛っ!? と声を上げた何かは、自分の脳天に落ちたヒトデを見つける。

 いまいましく舌打ちし。

 たった今地面に打ち付けられたヒトデは重力に逆らって地上一・五メートルの高さに浮遊する。直後、水平に高速回転しながら茂みの中へ飛んで行った。

 想像できない人は、フリスビーの要領でヒトデがぶん投げられた様を思い描いてほしい。

 腹いせを終えた彼は、ちょっとすがすがしい気分で通りを行く。

 一匹見たら五十匹いる。ゴキブリではなく、その手の現象が。ヒトデごときにかまけている暇はない。偶然東京の眼前に晒されたヒトデの背後には、五十倍の事象が蠢いている。もっと多いのかも知れない。あなたの目には見えないだけで。

 例えば透明人間とか。

6. 帆来ほらい 汐孝きよたか

 ヒトデが空から降ってくる。

 白濁した死骸が円を描いて、この現場に降りしきる。

 くるくる回る。落ちて来る。

 彼はそのなかに立っていた。

 黒のロングコートを身に纏っていた。外套の下も喪服だった。彼は青空を見上げた。またひとつ、空からこぼれ落ちた。白と黒の光景だった。

 貪欲な好奇心も、戸惑いも、怒りも面白さもなかった。現象をただ眺めていた。特に感想はなかった。ただ、空を見上げていた。晴れていて雲はなかった。晩秋の陽光にゆらめいていた。

 ふるい落とされてゆるやかに沈んでいった。ひとつひとつの現象を肌で受けとめた。凪いでいた。

 黒のロングコートは遠くからでも映えて見え、ヒトデの中に立つ彼もまた現象を演じる役者のようだった。

 タン、タン、タン。足音が鳴る方を見ると、少女が首を傾げて見つめていた。二人をはさんでヒトデが落ちた。

「僕のせいではないんですよ」

 どこか後ろめたさを漂わせて呟いた。

「僕のせいじゃないんです」

 とはいえ悔いた様子はない。少女は猫のようにゆっくり瞬きして彼の言葉に応じた。彼はその青い眼を見た。少女は笑い掛けた。ヒトデが降っていた。

 何故ヒトデなのでしょうか。尋ねようとして、彼はやめた。少女が答えないことを知っていた。少女は足元のヒトデを見て、それから青空を見た。薄汚れた白い死骸に、積雪を思い浮かべた。空を仰いだ。語るともなく呟いた。

「これでも随分治まった方です。少し前までは本当に本降りでした」

 彼なりにおだやかな心地だった。回りながら落ちるいびつな星々。光景はうつくしかった。

 彼の口角がやわらいだように見えて、少女は彼を今一度見た。殆ど笑ってくれないのだ。

 ずっと光景を見ていたのだが、彼はふと目を伏せ、ヒトデの雨を通り抜けた。

「行きましょうか」

 少女に声を掛けた。少女は頷き、ともに歩いた。

 しばらくは止みそうにない。

空室 / horizon

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空室

 そこには誰もいない。

 昼の光に明るいリビングルームは空室で、家具はあれど、がらんどうだった。誰もいない。一時は何かが埋めていたたくさんの空白がぽっかりと大穴を開けていた。いたはずの誰かがいない気がする。居場所を失って屋外に立ち尽くしているようながらんどうの気持ちになった。でもそもそも失ってはいなかった。

 窓は開け放たれ、冷たい風が吹き抜ける。冷たいものは清浄な気がする。カーテンは風を受け止めて深呼吸をするように膨らんで引くのを繰り返す。外の光景は微風にたゆたう。ベランダもリビングも冠水している。波が立ち、カーテンがゆれる。地上四階のここがこのありさまであるのなら、ここではない場所でも何もかも終わったも同然なのだろう。

 誰もいない。外は晴れている。水面は果てしなく広がり、冷たい風が吹いている。気持ちはがらんどうだった。空白が大きな口を開けていた。

 机の上に新聞紙でくるまれた小さくて重厚な小包がひとつ。誰かの贈り物かも知れない。重みと小ささと冷ややかさで、封を解く前から既に中身の金属が呼ぶ結末は分かっていた。嘆きはない。諦めでもない。セーフティを外したのか覚えがない。既に外れていたのかも知れない。冷たい矛先をこめかみに押し当てたのも悲しいこととは思わない。冷たいものは清浄な気がした。足下に水面は冷ややかに広がり、広がりながら、広がっていた。

 身体はがらんどうだった。大きな音がして本当に終わった。動かなくなった自分の身体になおも四発引き金を引いた。

誰よりもシュシュじゃない

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誰よりもシュシュじゃない

 親が寝たころ、風呂に入ろうとすると外の階段を上がってくる音がして、うちの兄が帰ってくる。兄は高一だけどバイトしてるから帰りが遅くって、いつも親が寝る頃に帰ってくる。うちのことをちらっと見て「ただいま」ってひとこと言って、手を洗ってそのまま部屋にこもる。バイト帰りは絶対に音楽聴きながら帰ってくるから、うちらが何か言っても何も聴こえないっぽい。別にうちも言いたいことはない。うちがお風呂を上がったころ、家族の中で一番最後に、兄は風呂に入る。だから寝るのは一時か二時。いつも眠たげ。自業自得だ。

 心菜はお兄ちゃんいるのいいじゃんって言うけど、心菜には妹がいて、でも心菜はお兄ちゃんがほしいって言ってた。うちは心菜の方が羨ましかった。取り換えっこしようって心菜が言ったのが本当だったらいいのにってちょっとだけガチで思った。なんでお兄ちゃんがいいのって心菜に聞いたら「やさしくしてほしい」って言うからなんかおかしかった。頭ぽんぽんされたいんだって。バカだし。うちの兄ヒャクナナジュッセンチないから頭ぽんぽんとかないっしょ。心菜結局背ぇ高い人が好みなんでしょ? 学校で話すのは心菜と美優と絵里菜とかそのへん。あと春翔と凜玖と伶音とか。美優と伶音が今付き合ってる。バレバレ。うちはいない。春翔以外うちのクラスレベル低いよね? 頭も悪いし。学年最下位らしい。知らないけど。ルックスだってせめて光希先輩ぐらいがよくない? 心菜は微妙な顔してたけど。ひどくない? 悠大の方が微妙だろ。

 心菜の妹の心実は今小四だったと思う。髪の毛がすごくさらさらで細いし羨ましい。心菜のおさがり着てるみたいだけど、心菜の服カワイイから全然いいと思う。おさがりってあげる方も微妙な気持ちなんだって心菜はイヤみたい。ねたまれるから。でもいいじゃん。うちの兄からおさがりなんてないから、羨ましいよ。すごい、姉妹って感じじゃん。仲良し姉妹。

 風呂上がって、またメッセージが来てる。美優。はよ寝ろし。中指立てたスタンプを送ってうちはもう寝る。兄がシャワー浴びる音が聞こえる。あいつLINE嫌いなんだって言ってた。だから登録してない。不便。みんな使ってんのに変な意地張って。ほんと下らないこだわり止めてほしい。美優がずっと送ってくる。絵里菜とかまだ起きてんのかな。心菜もう寝てんだろうなあ。

 バイトがある日、兄は帰りが遅い。高校からチョクで行くから夕飯を食べない。でも週三だから、家でちゃんと食べてる日の方が多い。うちも高校入ったらすぐバイトするって決めてる。――漫然と朱夏はそう思っている。――

 朝、兄はぼそぼそと半寝でトーストを食べてる。短い髪型が寝癖でぐちゃぐちゃで、制服は黒いカーデとゆるいネクタイと腰パン、すごい普通。つか地味。「今日バイトあんの?」ってなんとなく聞いてみたらトーストもそもそしながら「ない」って、思いっきり寝起き顔で、ぼそぼそした喋り方で、全然かっこよくない。「なんで?」って逆に聞かれて何かむかついたから「いいじゃん」つって話ぶち切った。朝食べろって親が言うけど寝起きに食えないでしょ。常識。「ごちそうさま」って言って、兄が軽く食器をすすいでた。マジメ。暗いんだよね。ほんと。パッとしない。

 うちは前髪を横分けして、後ろ髪はピンでとめながらシュシュで左サイドにまとめた。髪染めるの禁止されてるからこう言う髪型しかできない。パーマもダメ。でもストパはいい。うちはストパ。うちも兄も髪の毛がチクチクして固い。たまに指に刺さる。詩音は髪が指に刺さったことなんてないって言ってたけど。詩音も髪サラサラできれい。詩音とはすごい仲良いわけじゃない。クラス一緒なだけ。秋の日差しも強いから、日焼け止めもちゃんと塗る。イヤリングもピアスも禁止。ピアスは穴あけたらバレるからあと一年も待たなきゃいけない。高校はいったら絶対ピアスあけるって決めてる。髪もちょっとだけ明るめにする。ネイルもちゃんとやりたい。兄はそう言う自由を全然使わない。バイトしてるだけ。ケチくさくない? あいつの方が早くうちを出るから鍵閉めるのはいつもうちの役。「行ってきまー」って小さい声で兄が言った。それでイヤホンを耳に詰めて出かける。いっつも何の曲を聞いてるかっていうと、最近の曲のなんて全然聞いてなくって、誰も知らないような古い曲ばっか聞いてる。センスが悪いんだと思う。ロクな趣味ないって知ってる。つか趣味とかあんのかな? 携帯かパソコンかたまに本読んでるだけ。テレビは下らないから見ないとか言って。自分がヒトと違うって思ってるんでしょ。

 いっつも遅刻ギリギリでうちを出る。中学まで徒歩五分。これだけが取り柄。

「しゅかープリント貸してー」って美優が来て、数学のプリントを見せた。美優は数学が全然できない。本当に遅い。前の授業中に終わらない。だってロクに授業聞いてないから。美優に貸したのに、木村もなぜか使ってた。何かムカついた。いいけど、勝手に使うなよ。

 英語の教師はブスのデブで発音も悪い。飽き飽きする。「ホズミさぁん」って当てられて、1段落目を読んだ。I think that「アイ シンク ザット」my sister must study more hard.「マイ シスター マスト スタディー モア ハード」

「ホズミ、英訳して?」

「私のきょうだいは、もっと勉強すべきだと思う」

「じゃあ続き、小池」

「アイシンク ソートゥー。バット シールックス ベリービジー。ビコーズ……」

 順々に後ろの席が当てられていく。

 この教師は兄も担当したことがあるから、うちに対して妙になれなれしい。去年はうちも兄も両方学校にいた。うちは、めちゃくちゃ珍しい名字で、八月一日って書いてホズミって言う日本に何人いるんだろうレベルの名字で、同じ名字の他人なんて同じ学校にいるわけなくて、だから学校にいる奴全員がうちと兄のことを知ってる。

 名字が嫌い。何やっても聞き直されたりして面倒だし、みんな変な目で見てるって知ってる。もっと普通の名前ならよかったっていっつも思う。佐藤みたいにありふれた名前でいい。でも佐藤と一緒はヤだ。

 その佐藤が、佐藤伶音が腰パンで指導されてるのを眺めている。凜玖がぐちぐち文句を言うのを心菜も超頷いてる。さっきまで隠れて携帯いじってた美優が、ハサミでプリを切って配ってる。美優と、心菜と、愛依羅と、伶音と凜玖と春翔と、木村が写ってる。え。何これ、うち誘われてないんだけど。

「土曜映画行ったのー」って美優が言う。

「木村も?」

「えどうしたの。蒼空もいていいじゃん」

「いや何か、木村キャラ違くね?」

「どしたの朱夏ウケる」

「えー次誘ってよ」

「ごめーん。マジウケんね」

 愛依羅と凜玖と木村が来たからうちは美優の席から離れた。前の授業寝てた伶音が「ホズミ、数学のプリント見して」って、

(――うるさいなぁ! 自分で考えろよ!!)

 マジでそう言いたかった。

「ごめんうち終わってない」って嘘ついた。

「えーマジかー」って伶音は心菜の方に聞きに行った。心菜はニコニコして見せてた。

 ……うちのこと何だと思ってんの? 宿題見せてくれる道具?

 その日はずっとイラついてた。自分でも分かってた。今誰かに話しても絶対キレるに決まってるから今日は一人でいることにした。

 うちは部活に入ってない。前テニ部だったけどやめた。絵里菜はまだテニ部にいる。絵里菜はがんばってると思う。絵里菜と最近遊んでない。部活で忙しいから。

 うちは一人で屋上に行こうと思った。でも屋上が開いてるわけじゃない。屋上に続いてる階段はコーンで「立ち入り禁止」になっていて、階段はホコリかぶってて、上履きで歩いたら足跡がついてバレるぐらいに汚い。屋上に上がる時はいつも、周りに誰もいないのを確認して、上履きを脱いで、つま先立ちで階段のすみっこを歩いて、バレないように気をつけてる。屋上の扉は開かないけれど、踊り場の窓から学校のまわりを見渡せるのがすごく気持ちいいし、一人でいても誰にもバレないから好きだった。ここがうちの隠れ家だった。誰にも邪魔されない場所だった。

 前、詩音とはち合わせたのはここでだった。詩音はここで本を読んでた。うちが来て、すごく驚いてたけど、うちも実は驚いてた。地味系優等生の詩音が立ち入り禁止の場所にいるって思ってなかったから意外だった。うちと詩音はすこし喋った。詩音の読んでる本のことを聞いた。「それ、うちの兄も読んでた」って言ったら詩音は「ホズミさん、お兄ちゃんいるんだー」って言った。うちは「ホズミじゃなくて、朱夏って呼んで」って頼んだ。「自分の名字きらいだから」

「じゃあ、しゅかちゃんって呼ぶね」

「何て呼べばいい?」こん時はまだ詩音のことを大川さんって呼んでた。

「うちも、詩音って呼んでいいよ」

「わかった、詩音」

「朱夏って名前、ずっとかわいいなって思ってたんだー」

 ちょっと照れた。その日はうちら友達になれた気がした。でも次の日教室で会ったときは、全然話をしなかった。なんでだろう? 昨日は話せたのに、次の日はすごくよそよそしい。ちょっと淋しかった。

 今日も屋上に行こうって決めて、階段の前で辺りを見回した。どっからか話し声が聞こえてきた。階段の真ん前の教室は、少人数授業の時だけ使う特別教室だから人がいるわけがない。ってことは、屋上に誰かがいるんだと思った。声は、美優と愛依羅に聞こえた。でも男子の声も聞こえた。木村っぽく聞こえたけどよく分かんなかった。うちは、一人になりたかったのに。この階段じゃなくて、廊下の向こうにあるもう一つの階段で一階まで下りて、もう帰ろうって決めた。でも廊下で体育の安江に出くわした。若い女の先生だけど生徒になめられないようにってかなり厳しい。こんにちはーって適当にあいさつしてうちと先生はすれ違った。うちが角を曲がって階段を下りようとした時、あれって思った。あいつら、屋上いるの安江にバレるじゃん。

「誰かいるの?」

 って安江が階段の上に向かって呼んでるのが聞こえた。明らかにキレてる声だった。

 バカじゃん。バレたらうちが困るのに。美優っぽい誰かは黙ったみたいで、安江をやり過ごした。でも絶対バレてる。マジでバカじゃないの? あいつらのバカのせいでうちの場所が奪われたんじゃん。

 うちは学校を出て、家の前を避けて、近所の公園のベンチに座った。まだ家に帰る気分じゃなかった。誰とも会いたくないから。

 かばんから携帯を出して心菜のつぶやきを見た。心菜から美優に飛んで、美優から愛依羅に飛んだ。愛依羅のつぶやきに、陰口があった。絵里菜が春翔に媚び売ってるって書かれてた。何これ? 絵里菜そういうことしないでしょ。春翔がテニ部だから仲良くしてるだけじゃないの? でも絵里菜、たしか前に愛依羅のこと嫌いってつぶやいてた。愛依羅、部活サボってばっかですぐ辞めたって。でも退部前の試合でダブルスの相手にすごい失礼なことしたって言ってた。それを絵里菜が自分のブログに愚痴ったのが教師にバレて、つか誰かがチクったんだと思うけど、絵里菜が指導を受けた。でも原因は愛依羅の方じゃないの? それから、伶音と美優が別れたことが書いてあった。美優が蒼空に浮気したからって書いてた。でも書いてあったのは美優に愛想つかされた伶音へのイヤミだった。伶音に対する悪口。でも美優は優しいから伶音とつき合ってあげてるフリしてあげてるって愛依羅は書いてた。美優の本命は春翔なんだって。それ二股なんじゃないの?

 それからこの前の映画のことが書いてあった。そこにうちのことも書かれてた。うちをヌキにしたのわざとだったって、うちが春翔のこと好きだからって書いてある。意味不明。ウソじゃん。春翔が一番マシって言ったかもしんないけど、それが好きって意味じゃない。そのくせうちが美優と仲良しぶってるのがウザイって。仲良しぶってるって、だって、美優とは幼稚園も小学校も一緒で付き合いが長いだけだし。何それ? 美優うちのこと嫌いなの? 当てつけじゃん。うちは関係ない。春翔なんてどうでもいい。浮気するお前の方が頭悪いっしょ。いちいちつっこんでくる愛依羅もどんだけ自意識過剰?

 木村が、うちのことをコメしてる。「優等生系吊り目のブス」。

 吊り目はテメーもだろ。うちの吊り目は、遺伝。親はそうでもないのに、うちと兄は吊り目が似てる。

 ホントに自分のこと嫌いになった。変な名前もブサイクも人間関係もなにもかも。

 何か全部イヤになって公園のベンチでぼーっとしてた。何もする気になれなかった。最近、日が暮れるのが早かったから、どんどん寒くなってったけど、本当に何もする気になれない。

 うちが愛依羅に階段から突き落とされるシーンを考えてた。意味のない妄想だけど。愛依羅が歪んだ笑い方をしてる。うちは、落ちる直前に踏みとどまって、愛依羅を逆に突き落とした。美優がうちのことを安江にチクった。うちは正当防衛だって言った。心菜がそれを安江にチクった。心菜?

(うちのこと馬鹿にしてるんでしょ。知ってる。年上好きのビッチって)

 ……何それ? 心菜、ホントはそんなこと思ってたの?

(うぜーんだよ、ハチガツツイタチ)

 木村。

(ウソみてーな名前だな。ブス)

「……ざけんな」

 妄想だって知ってるけど、それでもイラつくのが抑えきれなかった。こんなこと考えてしまう自分にもイラついた。うちも自意識過剰。あいつらに嫌われんのは恐くないけど、生きづらくはなると思う。毎日毎日顔合わせなきゃなんない。めんどくさい。というか、何もかもくだらない。

 この愛依羅の愚痴を教師に見せたら愛依羅を貶めることはできると思う。けど結局チクったうちのことはバレるわけだし、うちはますます嫌われて、愛依羅は1ミリも反省しない。クソだ。ムカついて、刺し殺したらうちは少年院送りになんのかな? 実感わかない。うちに帰りたくない。そういう気分じゃない。もうどこにも戻りたくない。誰のことも嫌い。このまま死んでもいいような感じがしてる。

 そしたら、向こうから兄が歩いてきた。はじめは誰かと思ったけど、短い髪と背丈とかばんであいつだって分かった。ほっといてほしかったのに、兄は「朱夏?」ってうちを呼んだ。うちは聞こえないふりをした。あいつは公園をつっきってうちのそばまで来た。

「何やってん」

「べつに」

「待ち合わせ?」

「カンケーない」

「あそ」

「ねえ、邪魔だから出てってくんない? うち今すごいイラついてんの。絶対誰にでもあたり散らす自信あんの。だからうちがキレる前に帰って。邪魔なの。ほっといて。一人になりたい」

「……あ、そ」

「だから早くどっか行ってよ。ムカつくんだよ! おめーにはカンケーねーから! 来んなよ! 帰れ!!」

 怒鳴りながら自分でも分かってた。もうあたり散らしてるって。思いのままにいかない自分の感情が、救いようのないバカみたいだった。泣きだしそうだった。自分が過剰にイラついてることが、でもどこかで不思議で、なんというか、怒ってるうちのことをもうひとりのうちが眺めてるみたいだった。泣きそうだったのにどこかがすごく冷静だった。はじめての感じだった。でも、そうやって、怒ってる自分を正当化してるんだ。

「あんさ、朱夏」

「何!?」

「なんかその、……気ぃ抜いてもいいと思う」

 何、それ。

「なんか、困ってるんだろ、たぶん。なんか、分かる。オレにもそういうのあった」

「……」

「オレ、中学すげー嫌いだった。でも中学なんて、狭いから。そん中が全てじゃないし、家族だって狭いし。

 別の場所見つけるといいよ。もっとマトモな場所、全然あるから」

「……ねーよ」

「いや、あったよ、意外に。オレ、別に家出だってしたっていいと思う」

「カンタンに言わないでよ」

「……まあ、簡単じゃあないけどさ。でも、案外あると思うよ。色々。一人でいても死ぬわけじゃないし。好きな歌手とかでもいいのかもしれない。

 つーか、寒いじゃん。帰ろ。

 あと、この公園不審者いろいろ多いからさあ。コンビニ寄って肉まんとか食おうよ」

「……それ、気ぃ使ってんの?」

「ぜんぜん」

「おごってくれんならいいよ」

「お前、高校生にたかる?」

「バイトしてんだからいーじゃん!」

「百円までしか払わねーけどな」

「中学生収入ないんですけどー?」

「だから百円は払うって言ってんだろ」

「ケチくさくない? 彼女いんの?」

「……」

 笑った。

「やっぱねー」

「……恋愛だけが楽しみじゃねーから! オレは、恋愛の枠の中にいたくないんだよ!」

「でも高校で彼女できないとか人生ダメじゃね?」

「…………そういうカクイツ的価値観が駄目なんだよなぁー」

「負け惜しみじゃん、バァーカ」

 コンビニ寄った帰り道で、兄の中学の頃の話をなんとなく聞いた。

「お前よりヒドかったよ」って言っていた。

「友達なんていなかったし、いろんなことが気持ち悪かった。だから高校マジで楽しい。マジでって程でもないけど、相当楽しい。お前が思ってるような高校デビューなんて絶対起こんないけど、でも色んな奴がいておもしろいよ、ホントに」

「ふぅーん」

「なんかさ、朱夏どうせ頭いいから、苦労してんだろうなって思ってたんだよ」

 ……それ褒めてんの? うちには分かんない。

「マジメにやってもしょーがなかったりするから、いい加減にして相手にしないことが一番な気もするから」

「でも、それって逃げとか負けとかじゃないの?」

「……そうかもしれない」

 そうっしょ? くやしいことは無くなんないんじゃん。うちは、きっと兄みたいに、あきらめて生きてくことは出来ない。まちがってることにはまちがいだって言いたいし、自分が正しいと信じたことをやり通したい。

「うちは……うまく生きるし」

 兄はもうなんも言わなかった。兄はたぶん、あきらめたんだと思う。それが大人になるってこと? わかんない。でもうちはまだあきらめたくない。

 帰って、帰りが遅い上に間食してきたことを親にめっちゃ怒られた。うちらは夕飯もちゃんと食べた。食べ終わると兄はすぐにいつもどおり自分の部屋にこもった。うちは、数学のプリントを嫌々やりながら、絵里菜に今週末どっか行こうってメッセした。それから、詩音のメルアドを聞いてみようと思ったけど、やっぱ止めて、しばらく携帯も見ないでぼーっとしてた。そんで、詩音と仲良くなれるか考えてみてた。よそよそしいかな? でもまあ、いっか。

 メルアド聞いてみよ。

水槽

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水槽

 水槽の前は仄暗く、青色に光り、水槽は毅然と存在している。
 低くうなるような音響が神秘らしさを演出している。(……リラクゼーション)
 壁の一面に、絵画みたいな大きさで、水槽は青く輝く。
 手のひらと、額を、水槽にあて、ぴったりとくっつく。中を覗き込む。ガラスは冷たく、満たされた水も冷たい。
 半透明な生き物は固有の形をもてない。人工の水流に抗えず、流れに自我を溶かしながら、飼われている。もてあました消化器が水流にたなびいている。顔も名前ももたず、息をすることも泳ぐこともしない。
 ガラスに触れる額が生き物の温度を伝達する。毅然として冷たく、人の保つ平熱は冷水に奪われ霧散した。
 身体を寄せ過ぎたのだ。
 あ、とも思わぬうちに、私は水槽を踏み越えた。
 流体の冷たさが一気に身体を満たす。
 振り返ると、青い光が背後にあった。生き物は青に照らされて、水流に隷従して循環をつづけていた。さらに背後には空気がある。ガラスを隔てて、固体の世界だ。
 前方は息を呑むような暗闇。吐息も身体も顔も名前も、すべてを呑み込む闇だった。
 背後の青色灯は頼りない。私は暗闇の暗い方へ歩む。
 あの生き物とつがいになってもよかったと、そう思った頃にはもう、私は闇の奥深くにいた。
 引き返せないなら歩くほかない。
 呑み込まれながら呑み込んでいるような気がしはじめた。

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