これは物語ではない

水槽

 水槽の前は仄暗く、青色に光り、水槽は毅然と存在している。
 低くうなるような音響が神秘らしさを演出している。(……リラクゼーション)
 壁の一面に、絵画みたいな大きさで、水槽は青く輝く。
 手のひらと、額を、水槽にあて、ぴったりとくっつく。中を覗き込む。ガラスは冷たく、満たされた水も冷たい。
 半透明な生き物は固有の形をもてない。人工の水流に抗えず、流れに自我を溶かしながら、飼われている。もてあました消化器が水流にたなびいている。顔も名前ももたず、息をすることも泳ぐこともしない。
 ガラスに触れる額が生き物の温度を伝達する。毅然として冷たく、人の保つ平熱は冷水に奪われ霧散した。
 身体を寄せ過ぎたのだ。
 あ、とも思わぬうちに、私は水槽を踏み越えた。
 流体の冷たさが一気に身体を満たす。
 振り返ると、青い光が背後にあった。生き物は青に照らされて、水流に隷従して循環をつづけていた。さらに背後には空気がある。ガラスを隔てて、固体の世界だ。
 前方は息を呑むような暗闇。吐息も身体も顔も名前も、すべてを呑み込む闇だった。
 背後の青色灯は頼りない。私は暗闇の暗い方へ歩む。
 あの生き物とつがいになってもよかったと、そう思った頃にはもう、私は闇の奥深くにいた。
 引き返せないなら歩くほかない。
 呑み込まれながら呑み込んでいるような気がしはじめた。

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