眠りに着くまで
眠りに着くまで
1. manhole
とかく、人の世は生き辛い。
とは言ってはみるものの、近頃懐は温かかった。電子書籍1作目の売れ行きは伸び悩んだが、2作目は進行・作画を女性漫画家が担当し、20〜30代女性向けモバイル電子コミックサイトで配信したところ、プレビュー数は好調である。ワンコイン鑑定で電子決済を導入したのも功を奏し、駅前のこの露店でもピピッと電子マネーのワンタッチで未来を引き落としていく者が増えた。
壺の方はといえばそう上手くはいかぬ。まじないを丹念に練り込んでいるゆえ守護の効き目は抜群なのだが、一品物のため売値が高くつき、霊感商法と混合される。焼物の師は壺に限らず茶器全般の制作を助言した。小生の作風には大きな壺よりも小振りな作品の方が品良く纏まるようで、夫婦茶碗を即売会に出品したところ、しかるべき二人が茶碗を買い取ったらしい。人は皆それぞれに良い塩梅の大きさを持って生まれている。己に収まるものを作り、収まるものを手元に置けば良い。
しかしあくまでも小生の性分であり使命であるところは路上の運命鑑定であり、今日もまた我が眼は視るべき者を捜している。
人々には血の気の色が目立ってきた。必ずしも血の赤色ではないその闘争の色、あるいは疲弊により生じる鈍色が、人々の汗腺から滲み出し、鈍色は混ざり合い、街は錆に似てまだらの模様を漂わせる。視える者は不透明な色の靄の中に空いた色のない穴のようにぽっかりと浮かび上がって見える。あるいは辺りの鈍色に不釣り合いな鮮やかな絵の具の原色を放っている。
暮れなずむ街、一人の男を呼び止めた。何色も発していない深い穴のごときその男は、はなから占術など気に掛けたことが無いに違いない近代合理主義者の表情で、というのも穴のような人々に顕著な特徴だが、彼らの信条は合理的ニヒリストの気が強い。
声を掛け引き留めることは容易だ。
「申し、落としましたよ」
と言えば立ち止まらぬ者はいない。
彼は怪訝に外套の隠しをまさぐる。
「それと、誰に何を吹き込まれたかは知らないが、赤い薔薇の花束はおよしなさい。貴方がたにお似合いなのは、ガーベラなんてどうかね。どこの花屋にも小さな花束が置いてあるだろう」
男は黒一色の外套と同じ眼差しで私を見つめるが、何も語らない。赤い薔薇だけは図星だろう。
「なに、おかしなことはしていない。勘が鋭いと言えば科学者の先生方にも納得して貰えるかな。私はね、勘の鋭さを仕事にしている。賭博師や名探偵とは少し異なるが、そのような所だ、時には推理もするが……ああ待ちなさい、次の電車でも間に合うだろう。良かったら何か視ていかないか。勿論、金も情報も払わせない。そう……雑談だよ。たまには、気分転換にどうだね? 3分。ほんのそれだけ、気の触れた男の戯言を聞くだけで良い」
情報網に於いて出会ったことのない人物だった。黙り込んでいるその男は、視れば視るほど、この空間に空いた穴そのもののようで、意識というものが落ち窪んで見えざる中心へ絶えず流出していくかのようだった。
死相があった。しかし生に疲弊したためではない。
花束はこれから会う人物に渡すための贈りものか。しかし視えた様子では、対象への友愛心も穴の中に吸い取られて心此処に非ずのようだった。思慕でもない心情に彼自身が途方に暮れているらしい。
彼の奥底に、あの雨降りの少年と、それから見知った幾人かを垣間視た。どうやらそれらの繋がりが、私のもとに彼を呼び寄せたようである。しかし彼にとって彼らの面影は取るに足りない空気のごとき事象の様子、彼のなかに仔細なディティールは残っていなかった。それは馬耳東風である無関心というよりも、砂の中に雨が吸い込まれていくかのように仕方のない摂理として彼の意識を透過したらしい。
「底が深い。自分でもその奥底を視たことは? ある。それが、物心のついたとき?」
穴とは各人固有の興味や深淵である。人は固有の穴の中に関心や好意や敵意を貯蔵する。人は自らの穴に寄り添い生きる。しかし穴を有する万人が、その生活において、延々と穴を覗き込んでいることはない。穴は己に立ち返るための蔵である。蔵の中で生きることは、本来なら出来ないことだ。
しかし彼の穴は強大である。彼は生まれてこのかた、穴の淵ではなく、穴に落ちてその内側から世界を眺めているらしい。
小生には穴の淵までしか視えぬ。穴に溢れる表面張力で彼は彼の形を持ち堪えているが、臨界を迎えようとしている。
なおも花を持って人に会いに行こうというのか。
「ここだけの話をしよう。君は聞き流しなさい。大丈夫、人は本当は見たもの聞いたもの全て覚えているのだよ。それを思い出すには意識が足りていないというだけで、君に流れる無意識のなかに経験はちゃんと響いている筈だ。忘れるということは記憶の書物の頁の紛失ではなく、書物に挟んだ栞を失くすことだ。栞の位置を忘れても、文字は本の中にきちんと留まっているだろう。
こんな説がある。
クラゲには眼があるものの、視覚を処理するための脳が無いそうだね。
これは、クラゲが海そのものの目として生まれ、海を見る為、という俗説もあるそうじゃないか」
私はね、時の下僕なのだよ。私が視るものは視るべきもののみで、私は視るための眼に過ぎない。私の眼は私の目ではなく、大いなる時の目を代行している。
「私には見えないが、君の視る世界は美しいな」
彼は踵を返す。坂を下り駅の方角へ。既に私を忘れかけながら。
一歩歩く度に彼はゆらぎ、彼は溢れかけている。
「……さて」
駅方面から漂っていた不穏な濁りが、泥水の澄んでいくようにゆっくりと後退する。何かの危機を免れたようだ。
全てが済み、全てが澄み、もう店じまいの頃合いである。雨になる前に店を畳む。
彼は、しかし、傘を持っていなかったようだが?