act.5

眠りに着くまで

category : tags : posted :

眠りに着くまで

1. manhole

 とかく、人の世は生き辛い。
 とは言ってはみるものの、近頃懐は温かかった。電子書籍1作目の売れ行きは伸び悩んだが、2作目は進行・作画を女性漫画家が担当し、20〜30代女性向けモバイル電子コミックサイトで配信したところ、プレビュー数は好調である。ワンコイン鑑定で電子決済を導入したのも功を奏し、駅前のこの露店でもピピッと電子マネーのワンタッチで未来を引き落としていく者が増えた。
 壺の方はといえばそう上手くはいかぬ。まじないを丹念に練り込んでいるゆえ守護の効き目は抜群なのだが、一品物のため売値が高くつき、霊感商法と混合される。焼物の師は壺に限らず茶器全般の制作を助言した。小生の作風には大きな壺よりも小振りな作品の方が品良くまとまるようで、夫婦茶碗を即売会に出品したところ、しかるべき二人が茶碗を買い取ったらしい。人は皆それぞれに良い塩梅の大きさを持って生まれている。己に収まるものを作り、収まるものを手元に置けば良い。
 しかしあくまでも小生の性分であり使命であるところは路上の運命鑑定であり、今日もまた我が眼は視るべき者を捜している。
 人々には血の気の色が目立ってきた。必ずしも血の赤色ではないその闘争の色、あるいは疲弊により生じる鈍色が、人々の汗腺から滲み出し、鈍色は混ざり合い、街は錆に似てまだらの模様を漂わせる。視える者は不透明な色の靄の中に空いた色のない穴のようにぽっかりと浮かび上がって見える。あるいは辺りの鈍色に不釣り合いな鮮やかな絵の具の原色を放っている。

 暮れなずむ街、一人の男を呼び止めた。何色も発していない深い穴のごときその男は、はなから占術など気に掛けたことが無いに違いない近代合理主義者の表情で、というのも穴のような人々に顕著な特徴だが、彼らの信条は合理的ニヒリストの気が強い。

 声を掛け引き留めることは容易だ。

「申し、落としましたよ」

 と言えば立ち止まらぬ者はいない。
 彼は怪訝に外套の隠しをまさぐる。

「それと、誰に何を吹き込まれたかは知らないが、赤い薔薇の花束はおよしなさい。貴方がたにお似合いなのは、ガーベラなんてどうかね。どこの花屋にも小さな花束が置いてあるだろう」

 男は黒一色の外套と同じ眼差しで私を見つめるが、何も語らない。赤い薔薇だけは図星だろう。

「なに、おかしなことはしていない。勘が鋭いと言えば科学者の先生方にも納得して貰えるかな。私はね、勘の鋭さを仕事にしている。賭博師や名探偵とは少し異なるが、そのような所だ、時には推理もするが……ああ待ちなさい、次の電車でも間に合うだろう。良かったら何か視ていかないか。勿論、金も情報も払わせない。そう……雑談だよ。たまには、気分転換にどうだね? 3分。ほんのそれだけ、気の触れた男の戯言を聞くだけで良い」

 情報網WEBに於いて出会ったことのない人物だった。黙り込んでいるその男は、視れば視るほど、この空間に空いた穴そのもののようで、意識というものが落ち窪んで見えざる中心へ絶えず流出していくかのようだった。
 死相があった。しかし生に疲弊したためではない。

 花束はこれから会う人物に渡すための贈りものか。しかし視えた様子では、対象への友愛心も穴の中に吸い取られて心此処に非ずのようだった。思慕でもない心情に彼自身が途方に暮れているらしい。

 彼の奥底に、あの雨降りの少年と、それから見知った幾人かを垣間視た。どうやらそれらの繋がりが、私のもとに彼を呼び寄せたようである。しかし彼にとって彼らの面影は取るに足りない空気のごとき事象の様子、彼のなかに仔細なディティールは残っていなかった。それは馬耳東風である無関心というよりも、砂の中に雨が吸い込まれていくかのように仕方のない摂理として彼の意識を透過したらしい。

「底が深い。自分でもその奥底を視たことは? ある。それが、物心のついたとき?」

 穴とは各人固有の興味や深淵である。人は固有の穴の中に関心や好意や敵意を貯蔵する。人は自らの穴に寄り添い生きる。しかし穴を有する万人が、その生活において、延々と穴を覗き込んでいることはない。穴は己に立ち返るための蔵である。蔵の中で生きることは、本来なら出来ないことだ。
 しかし彼の穴は強大である。彼は生まれてこのかた、穴の淵ではなく、穴に落ちてその内側から世界を眺めているらしい。
 小生には穴の淵までしか視えぬ。穴に溢れる表面張力で彼は彼の形を持ち堪えているが、臨界を迎えようとしている。
 なおも花を持って人に会いに行こうというのか。

「ここだけの話をしよう。君は聞き流しなさい。大丈夫、人は本当は見たもの聞いたもの全て覚えているのだよ。それを思い出すには意識が足りていないというだけで、君に流れる無意識のなかに経験はちゃんと響いている筈だ。忘れるということは記憶の書物の頁の紛失ではなく、書物に挟んだ栞を失くすことだ。栞の位置を忘れても、文字は本の中にきちんと留まっているだろう。

 こんな説がある。
 クラゲには眼があるものの、視覚を処理するための脳が無いそうだね。
 これは、クラゲが海そのものの目として生まれ、海を見る為、という俗説もあるそうじゃないか」

 私はね、時の下僕なのだよ。私が視るものは視るべきもののみで、私は視るための眼に過ぎない。私の眼は私の目ではなく、大いなる時の目を代行している。

「私には見えないが、君の視る世界は美しいな」

 彼は踵を返す。坂を下り駅の方角へ。既に私を忘れかけながら。
 一歩歩く度に彼はゆらぎ、彼は溢れかけている。

「……さて」

 駅方面から漂っていた不穏な濁りが、泥水の澄んでいくようにゆっくりと後退する。何かの危機を免れたようだ。
 全てが済み、全てが澄み、もう店じまいの頃合いである。雨になる前に店を畳む。
 彼は、しかし、傘を持っていなかったようだが?

lull

category : tags : posted :

lull

 温かいなかに浮かんでいる。深く沈みながらゆれている。かつてなく好い気分だった。薄明るい光が辺りを満たしていた。水色だった。やわらかい。

 確かに憶えがあるのに思い出せない、ツンとした薬品のような臭がする。

 迷いがない。

 ここに留まっている限り明晰だ。

 温かさのなかで安心しきって四肢を投げ出す。痛みや不愉快であることが少しもない。包み込まれたままの己を肯定できる。

 あのときの感覚に似ている。あのときをなぞっている。それとも今まさに思い出す振りをして、記憶を新たに捏ち上げているのかも知れない。

 明晰さが語り始める。齢五歳にして、あれほどの光景と感覚を、果たして自覚していたのかと、疑問に思う。

 本当のところ、あのときはじめて現象を目撃した自覚を得たという記憶は、あとからの脚色だったに違いない。光景を見て自覚に至ったという経験は本物かも知れない。しかしそのときのことを記憶として再生する度に、図らずしも経験には手垢が付き、そこに無かったはずの秩序を付け加え、補強し、いつしか補強の構造体が経験そのものを乗っ取ってしまった。出来事はあったが、あの通りではなかった。見えたもの、思ったことは、それぞれをばらばらに自覚し、必ずしもこれを見たからこう思ったと意味同士が連結していることはなく、けれども人は知覚がばらばらであることに耐えられないから手元にある意味を繋げてしまう。

 本当は海に行かなかったのだと思うことはある意味正しい。

 あり得たのだろう。

 すべてが正しいと、このなかでなら思える。一歩外に出ると、そうはいかない。細くて強靭なワイヤーのような素材で、何もかもが連結し合い、順番と関連を強いられる。

 今は、きれいな色をしていて、明るくて、すべてほどけている。同じレベルに浮かんでいて、誰かが浮かべたというものではない。辺りのものは方向を欠いて漂っている。

 今は、温かい。時に対する終わりがすぐ傍まで見えるが、引き返せる。カーテンは開けない方がいい。

 一度開いた瞼はしずかに閉ざされた。寄せた波が返すくらい自然に。

 寄せて返す、意識のなかで、生活の上では思いもよらない思案が、浮かんでくる。

 何にも無ければいいのにと願いながら、触れるものは全て何らかの硬さを持ち合わせていて、建築に囲われた空間と日付は溶けて流れ出す兆しがない。

 誰しも、いなくなればいいのだ。誰しも、と言ったとき、思い当たる顔や名前や、想像できる他人の境遇が制止をかけ、自問と撤回を迫る。でも、そういった道徳心をこの場に持ち出して来ることこそ、自分を騙している証なのだ。憐憫など本当は身に備えていない。薄情どころか皆無だ。本当のところを取り繕ってはいけない。嘘をついてはいけない。

 そうして確信をもって無を願う。

 おだやかでいてばらばらでありたい。

 これぐらいの心持ちが一番無理なくいられる。楽な体勢で楽な温度だ。

 開き、閉じるを繰り返す。

 やがてごく自然に浮上する。

 目醒めの瞬間。確かさをもって開いた眼が、カーテンの隙間から差す光を受ける。

 陸上に引き戻されたその瞬間、電話が鳴った。目醒しのためのアラームではなく、着信だった。布団の中で電話を取った。

「ごめんね、朝早くて」と高橋塔子は言った。丁度起きたところだと僕は応じた。

「嘘。起こしちゃったでしょう」

 そうではない、丁度目醒めたら電話が掛かってきたのだ。丁度だったと僕は繰り返した。

 布団の中で収まりが悪くもぞもぞと姿勢を変える。沈黙のあいだ彼女はふふふと笑い、時間を流す。何か具合が悪い。目醒めてみると節々が重い。

「重力が重い?」

 以前もそう言ってからかわれた覚えがあると答えると、そのフレーズを最初に用いたのは僕の方であると指摘された。

「ゼミの度に言っていたし、学祭の時期なんて枕詞みたいにしてた」

 今だったら浮力が足りないとでも表すだろうと考えた。もしくは簡素に疲れたと言う。

 訊かれたことに答える。貴女はどうですかの構文で返す。互いに、これは訊きたいことではない。

 今夜の予定を尋ねられる。急な誘いになったことを詫びながら。

 今目覚めて、今日は用事も無いから、朝に会うにしても構わなかったが、彼女も彼女で理由があるのだろう。承諾し、時刻と場所を告げられた。既に席を取っていたが、諸般の事情で連絡が前後したので、僕にはこうやって朝一で電話をしたのだと彼女は言う。僕は全く構わない。約束など交わさないに越したことは無い。

 新宿である。十一時間後。

 要件を話し終えてしまったので、通話は締めの言葉へ向かう。

「それじゃあ」と。

「それでは」と返す。

 頷き合うだけの合間を経て通話を切った。四分三十秒経過していた。

 

 通話の最中から気付いていたが、枕が水を吸って冷たく濡れていた。頬、襟、髪も濡れていて、口許を拭い、端末を拭いた。

 その頃にはもう、さっき電話なんてあっただろうかと、批判的に記憶を思い返している。

 

 そして重力について語った相手は、彼女ではないと、不意に思い出し、また一滴が滴る。

流浪のクッキー職人

category : tags : posted :

流浪のクッキー職人

 夕暮れの暗い部屋で机に向かって考え事をしていた。これがはじめてではない。最寄り駅の自転車置き場から、家とは逆方向に自転車を走らせた先にある、川沿いの一軒家。その日はミナトさんしかいなかった。
 いつでも来ていいということになっていたし、特に混乱したり冷静さを欠いていると自覚した時に避難所としてここに来る。小家出と言ったところだ。僕らはいつでも来ていつでも帰っていい。彼は秘密の先生であり第三の祖父だった。僕はミナトさんの家で紅茶の味を覚えた。
 家と学校とバイト先で縁取られた生活のデルタはとても狭い。人に会いたくない時もある。家族に対してもまともに会話ができない気分の時もあって、このまま帰宅したら状況が悪化すると気付いたらすぐこちらに来るように決めていた。僕の持っている関係の網目から最も遠くて、かつ僕がいてもいい所。荻原もいていい所。でも今日荻原はいない。ここに来ていないということは、今日は家を出ていないのかも知れない。

 悩ましい事態が起きていた。誰にも相談できそうにないので、僕はひとり頭を抱えている。
 三つの出来事が平行しており、それらが織り成す全貌を察しているのは僕だけなのである。

 まず、今日、荻原が学校を休んだ。そこでHRの配布物を僕が荻原に渡すようにと頼まれた。僕と荻原は仲が良いことになっていて(実際軽口を叩き合う仲なのは皆知ってのことである)荻原のご近所さんは僕だけだった。断る理由もないので僕は承諾した。ついでに暇なら愚痴でも聞いてやろうと、昼頃まではそう思っていた。
 それから、放課後のこと。僕は用もなく理科室や図書室や美術室を覗くのが好きだった。第二理科室にはアカハライモリがいて図書室は暇をつぶすことができて、美術室は美術部員が自主制作の油絵やイラストを描きに集まっていた。何となく気の合う奴が多いので、僕は部員でもないが時々様子を見に行った。荻原のほうが足しげく通っていて、妙にイラストが上手いらしいが、僕に見せたことは一度もない。
 美術室には荻原と親しい長谷川という他クラスの部員がいて、今日、その長谷川さんに話しかけられた。荻原に影響された彼女は僕のことを茶化してホズミんと呼ぶ。「ホズミん、ちょっといいかな」と小声で僕を呼び付けて、「荻原さん最近なんかあった?」と切りだされた。僕はここ最近味わった諸々を経て、いかにもややこしそうな相談事は肌で感じられるようになった。長谷川さんの声の潜め方はとてもシリアスそうで、事実その通りに話は組み込まれていった。「今日は休んでた」と僕も小声で答える。「そうなんだ」と長谷川さんは悲しげに言う。
「あの、ホズミん、えっと、他の人には秘密にしてね。荻原さんには私から聞いたって言ってもいいけど、もし荻原さんが詳しいこと自分で言わなかったら、ホズミんも黙っててね。私もホズミんにしか言わないから。それから、変なこと訊くけどあんまり気にしないで。私が気にしすぎてるだけだし、ホズミんを疑ってる訳じゃないの」
 ちょっと早口の小声で長谷川さんは注意深く語る。イーゼルにかかった長谷川さんの絵に僕は視点を落とす。どこかの屋上でセーラー服の女の子が夕日を見ている絵だった。紫色とオレンジ色を塗り重ねて、ぬるぬるとした質感の不思議な色をしている。
「私にしか相談してないんだって」と長谷川さんは続ける。「昨日の夜聞いたの。学校じゃ話さなかった。夜遅くに連絡があって、それではじめて知ったんだけど」
「それで」
「ホズミんは、荻原さんとつき合ってるの?」
「──ん?」
 急速にハテナマークで埋め尽くされる僕の脳内イメージに「違う、ちがうの」と長谷川さんが訂正を入れる。「いまのは、私が訊きたかっただけで、荻原さんのそのことじゃないから」
 端からはそう見えることもあるという事実に、僕も気分が塞がる思いがした。
 長谷川さんのスカートに絵の具汚れがついていることに気付いた。薄ピンク色だった。この絵の中の雲の部分をこの色で塗ったのかも知れない。
「昨日の夜」と長谷川さんが切り出す。「告白されたって相談を受けて。誰にとは言ってなかったけど、すごく混乱してて怖くて学校に行きたくないって言ってた。男の人苦手みたいだからすごくつらかったみたいで。誰にも言えなくて私にだけ教えてくれたみたいだし。私はそれが──ごめんね──ホズミんなんじゃないかって」
「いや、違うよ。……オレはそういうことしないよ」
 男性恐怖症? じゃああいつの趣味は、青木先生やミナトさんは一体どうなるんだ。
「荻原さん、大丈夫だよね?」
 自分のことのように不安げにしている長谷川さんに「そんな、心配すんなよ」とその時は言った。「あいつ根は冷静だからそんなことで慌てないよ。昨日はたまたま、気持ちが立て込んでて、滅入っただけだろ。そんなもんじゃん。気持ちが忙しい時に限って、別の方向から不幸が重なるの」
「そうかなあ」と長谷川さん。
「とにかく、そんな心配することじゃないって」
 適当に話をつけて僕は美術室を出る。そうして学校を出て、駅まで辿り着いた頃、僕は別の一件を思い出した。他愛無いことだとは思うのだが、昼休み、他クラスの相島という奴が訪ねてきた。相島は僕と一緒に弁当を食っていた野呂と親しく、僕と相島は野呂を介して数度会話した仲である。色黒で明るく騒がしく、きっとこういう顔立ちと性格の奴はこの世にいっぱいいるのに、自分はこの誰とも気心が知れないのだろうと、見かける度に考える。
 相島は扉の傍の席でトランプに興じる女子に話しかけた。「荻原さんって、いる?」それが聞こえた。今日は休んでいると女子たちは答えた。僕は席を立ちながら、「何か伝言あるなら伝えとこうか」と声を掛けたが、「いや、ああ、大丈夫」と僕を一瞥して帰って行った。落し物でも拾ったのだろうかと、その時は気に留めなかった。
 電車に揺られて思索しているうちに、以上の断片がすべて繋がってしまった僕は、自転車をぶっ飛ばして川辺の一軒家に向かっていた。

「荻原いる?」

 息切れした僕が開口一番に尋ねると、ミナトさんは「いや」と言い、「今日は誰も来ていない」と語った。息も荒く汗をかいた僕のことをミナトさんは何も訊かない。「休んでいい?」と言って居間に上がった。セイロンティーを飲んで、やっと落ち着いている。ひとまずはと荻原にメッセージを送った。
『プリントは預かっている 今ミナトさんちにいる』
 送ってから、脅迫状めいていると思った。

 気まずさゆえの不登校なのか、本当に傷ついて寝込んでいるのか、たまたま風邪でも引いたのか、別の事情か、僕には分からない。相島が荻原に、だとして、相島から荻原へも、荻原から相島へも、接点が想像つかない。荻原が長谷川さんに漏らすのは分かる。でも長谷川さんが僕に相談したのはなぜか? 僕がたまたま通りかかったからだ。理由などなかった。僕はいつもたまたまそこにいるだけだった。そこにいるだけで何かが降りかかってくる。言ってしまえば間の悪い人間だった。

 ミナトさんがお茶請けにクッキーを出してくれた。人型や、犬や馬のような四つ足の動物、家らしき形、クマの頭部、いろいろな形にくり抜かれている。手作り菓子に独特の素朴な味がした。甘さ控えめでザクザクしてなかなか悪くないが、ミナトさんの自作とはというてい思えない。「これどうしたの」と訊くと「貰った」の一言で、ミナトさんは席を立ってしまった。少しして戻ってきたミナトさんは包装済みのクッキーをまるまる一袋抱えている。
「映呼にも渡したんだがな」
「本当それどうしたんだよ」
 卸売業者かと言いたい位の量である。
「荻原今日学校来なかったんだよ」
 何故という目でサングラスの向こうから見られ、口を滑らせたことに気付いた。
「……いや、なんか、でもその件は言うなって口止めされてて」……「ガキのしょうもないいざこざだよ。その、わざわざ言うことじゃないんだ」
 とはいえ、微妙な沈黙が流れてしまう。

「これ美味いか」ミナトさんは不意に話題を目の前のクッキーに戻した。
「いや、不味くはないよ。でもどうしたん、買ったの? 安売りでもしてた?」
「ホズミ。お前にも、この話を語る時が来たようだ」
 と、何やら大仰な台詞とともに、ミナトさんはサングラスを外して指紋を拭いた。電球色の仄暗い室内光がサングラスに反射する。目を伏せる初老の男。グレーのジャケット、前時代風の応接間。下手なドラマのセットみたいだった。

「あるところに流浪のクッキー職人がいた」
「はあ」
「まあ、無頼漢だ。一個の実存。菓子作りが趣味だった」
 出し抜けに硬いものを食わされて僕は黙り込む。咀嚼に時間が掛かる。ミナトさんは相手の顎の弱さを知っていて、干し肉みたいな言葉を不意に投げかける。
 きっと、それは、神話の一環だったのだ。本当にあった伝えにくい現実を何とか伝達するために、別の物語を仕立てあげる試み。神話は素直に飲み込まなくてはならない。そういう次元の現実なのだ。桃から子供なんて本当は生まれないけれど、そういう言い回しを取らなければならない事態が、ある時期にきっと訪れる。桃に秘めた暗喩のことは後で知ればいい。今は黙って耳を傾けなければならない。
 僕と荻原はレイに寄り添ってミナトさんのお話を聞いた。レイは僕らと同い年の大型犬で、仔犬の時は焦茶色だったのに、老いてからは白髪みたいに白く透き通った毛並みになってしまった。目はりりしいけれど年をとっておとなしく、昔は外で飼っていたが、最後の数年は室内で過ごした。その頃の荻原はまるで趣味でもない水色の星柄の洋服を着ていた。僕は犬が苦手だったが、レイはおとなしく賢かった。
 今思えば、おとぎ話のような説話や寓話をミナトさんは数多く語ってくれた。半分即興半分大真面目のお話を僕らは正直に真面目に聞いていた。語りの言葉遣いを思い出す。ミナトさんの低く問いかける声はいつでも耳に心地よかった。
「寒い雨降りの日に拾った。橋の下で震えていたレイに似ていた。持って帰ったら奴はここの台所でクッキーを焼きはじめた」
「これ?」
「時々クッキーを焼く。他のこともする。靴屋の小人を知っているな」
 あの童話も何かの比喩だったのか?
「それって、ヒトなんですか。何か、重ねようとしているんですか」
 あるいは、本当に、そういうことも?
 ミナトさんはいつでも泰然として語る。
「早まった深読みに走るのは悪い兆候だ、夏生。幻想でも妄想でもなく何のメタファーでもないある種の極限状況を、お前なら察せられる筈だ。『そうとしか言えない』ものがある。お前の読んだ怪人たちが常に偽物でも本物でもないように」
「分かってます」と僕は言う。
「生来の実在と仮想の幽霊の中空」そう言ってミナト氏は少し言葉に詰まる。「中間に在る」空に向かって舌の上で推敲する。僕はクッキーをつまんでいる。
「ホズミ。行く宛のないそいつは橋の下で震えていた。川辺で身を縮め生命をすり減らしていた。雨が降っていた。川の水嵩が増す前に、憔悴したそれを連れ帰った。一夜明け、そいつはどこかへ消えた。そいつはたまに戻ってきて焼き菓子を置いて帰る」
 それが、居た?
「鳥の巣みたいな家になったな。集い、種を落としていく。常に通り過ぎる。風が吹き抜けるように、流れなくてはならない。それで良いんだ。ホズミ。お前もここに集まり、いつか発ち去るんだろう」
 時間を掛けて丁寧に拭いたサングラスを、ミナト氏はテーブルの上に置き、クッキーを二三つまんで茶を飲んだ。
「それで、これがそのクッキー?」
「彼奴はわざと作り過ぎる。面白がってやっている」
「はた迷惑な」
「食ったじゃないか」
「まあ正直言って美味しいですよ。市販品の規格的な甘さがないっていうか、素朴な。好きだよ」
「これだけの量だ。持って帰ってくれ」
「まあ、いいよ。あれ? 荻原には渡したんですよね」
「ああ」
「いつ?」
「一昨日」
「期限大丈夫なんですか」
「もう食っただろう」
 急に湿気っているような気がしはじめた。そう思えばそう感じる味だった。
「で、そのクッキー職人は」
「ここにはいない」
 そんなことは知っている。こんなところで準備もなくUMAとご対面したくない。UMAと呼べるのか怪しいが、未確認で謎だからいいんじゃないかと思う。
 流浪のクッキー職人。訳が分からん。
 何もかも訳が分からない。

「あのさあ」クッキーを頬張りながら僕は問いかける。なんだかんだ手が止まらなかった。
「なんというか、やること、今引き受けていることって、ひとつにしぼった方がいいんですかね? オレ、なんでかいつも引き当てちゃうっぽいんですよ。ババを。色んな人と色んな場所でババ抜きを掛け持ちしてて、どれがどのデッキのジョーカーだったか、混ぜこぜになってるんです」
「翻弄されればいい。噛み付いてもいいだろう。歯向かえなければ逃げればいい」
「そりゃそうなんですけど、オレは、なんというか、逃げづらいんです」
「お前にも人が集うんだな」
 ミナトさんはそう言った。しみじみという感じがした。
「お前は若い。羨ましくもなる程だ。何を悩むことがある? ありもしない閉塞感に苛まれて辛抱を続けるのか? 逸脱を知っているだろう、お前は。いずれ闘う時が来るということもお前は察している筈だ。もっと堂々と闘って良い。何をしても良いんだ」
「それは、そうですよ、けど」

 物を多く持ちすぎたのだ。それは僕がというよりも、僕らが、この世代が、皆が。
 互いに支えあった結果がんじがらめに陥っているように思う。どこをとってもこんがらがって複雑で、互いに足を引っ張り合い、そんな中で僕ひとりが抜け出したとしても、僕だけが露頭に迷って倒れてしまうのだろう。誰も助けてくれない。善意に欠けているのではないく、状況の維持で精一杯だから。手を差し伸べる暇さえない。闘う暇もない。状況はすぐには変わらない。

「いやだなあ」

 自然とため息がもれた。クッキーは美味い。紅茶も美味い。
 ミナトさんだってすぐに今のミナトさんのあり方に辿り着いた訳ではないだろうに、僕には成長を強いるのだ。でも、強いられでもしない限り、僕は成長出来ないのだと思う。
 どうやったら逃げ出せるんですかなんて尋ねるのは元も子もない。それに期待した答えなんてこの場では絶対に得られない。
 人型のクッキーをつまんで眺める。きっと仲間がいたら、この網目を抜け出せるに違いない。例えばこの家のように。あるいは誰かを探して。
「もう、帰りたくないっすよ、ミナトさん」
「だろうな」とミナトさんは一言。
 それにクッキーだけじゃ夕飯を食った気がしない。何か食って帰りたい。そう言うとミナトさんは戸棚から大量のそうめんを取り出した。
「肉食いたいよ」と希望を漏らす。それかラーメン。

親愛なるKに捧げる

category : tags : posted :

From:TAKAHASHI To-ko
Title:




お元気ですか。

お久しぶりです。帰国を知らせるために、まずあなたにメールしようと思っていました。

あなたはきっと忙しくしているから、電話をしても出られないかもしれないと思ったので
もしもこれを読んでいただけたのであれば、どうかお電話をください。


大変な思いをさせてしまったことをずっと悔やんでいました。

あなたを切り捨てるような真似をしたことが本当に申し訳ありません。


よい結論を下すには、私たちはきっと幼すぎたのだと思います。

いまから、最善の策を見つけられるか、それは分かりません。

何もかも水に流してほしいという都合のいいことは言えません。

でも、大人になった今なら(本当に大人になれたのか、確かではありませんが)
すべてを踏まえたうえでまたやり直せるのではないかと、
ずっと考えていました。

もしもあなたに許してもらえるのであれば、またゼロから
私達の交友をやり直したいと願っています。


彼も彼で困難です。

私にも彼のことはきっとわからないままだと思います。

でも彼もあなたも優しいから、あなたが優しいということを私は知ってるし信じてます、あなたが受け入れてくれるのなら心を開いてくれるはずです。


私は許されなくてもかまいません。
でも彼のことは







どうか

























私は彼もあなたも

























[下書きを破棄しますか?]









[下書きを破棄しました]

広告 (SPONSORED LINK)

PAGE TOP