(別の記事用に書こうとした文章を再構成しました。)
本記事の誤用の訂正をしました。/ 追記を公開しました。
おそらくは誰でも、可哀想なものや倫理規範に反するものへの薄暗い興味を持っていると思います。私も作品で悲壮な場面は書きますし、それは悲壮な状況に関心があるから書いています。ただ、自分で可哀想なものを書くときには、悲壮感をフェティッシュで片付けないようにしています。
これに関しては精神論めいた結論になってしまいますが、興味(またはフェチ「萌え」)を持つからには「当事者意識を持たなければならない」と考えています。
たとえば現実で合意のない暴力(ネットスラングで「リョナ[1]」)を振るってはいけないのは当然です。しかし、フィクションのリョナを読者として楽しむときも、「現実では望まない暴力をうけて苦しんでいる存在がある」ことの自覚は忘れない方が良いと思うのです。
性暴力の被害者が、自分が受けた暴力について思い出されたり、性暴力を肯定する作品を見て傷つくことを「セカンドレイプ」といいます。[2]
たぶん、自分が薄暗い興味を抱いているという当事者意識を持たないでいると、ふとした時に自分が無自覚なまま加害者の立場に転じる(セカンドレイプをしてしまう)可能性があります。ここでの加害とは、暴力を振るうことだけではなく、見て見ぬふりをすることや、そもそも暴力に気づかないでいることも含みます。
別に「配慮して自粛しろ」と言っているのではありません。どんな題材であれ、それを好むことは万人の自由です。ただ、「これはフィクションだから現実とは無関係」と思考停止するのではなく、「興味を持つからには、その興味のうしろめたさも自分で抱えろ」というだけです。うしろめたさを自覚することが、フィクションの暴力をうっかり現実に持ち込まないための自制心につながると思います。
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