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fragments

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『fragments』 筆を執った。外気はとても寒く、壁の薄いこの家で温かいミルクコーヒーを飲みながら、昨夜の通話と今日の出来事を丁寧に思い返す。夕暮れにそびえる工場のことを思い出す。今日、はじめて工場長に会って、二言三言会話を交わした。もうこんなことはやめにしたいと、工場長は言っていた。夕闇を背負った工場の巨大なシルエットがぼくにも工場長にとっても……

 筆を執った。外気はとても寒く、壁の薄いこの家で温かいミルクコーヒーを飲みながら、昨夜の通話と今日の出来事を丁寧に思い返す。夕暮れにそびえる工場のことを思い出す。今日、はじめて工場長に会って、二言三言会話を交わした。もうこんなことはやめにしたいと、工場長は言っていた。夕闇を背負った工場の巨大なシルエットがぼくにも工場長にとっても苦々しい城砦のようにしか思えなかった。

 自分を主人公において書くのはとても難しい。現実対虚構の二項対立に散々惑わされつづけたぼくたちは、虚構と現実を隔てるのは劇場の舞台と客席のようなステージ一段の段差ではなく、段階ステップを踏まないスロープであり、現実は意図せず虚構に転がり、虚構もまた意図せず現実へ流れ落ちるのだと身をもって知ることになる。自分が虚実の間のどのレベルに立ち、ものを見て理解し記すのか、未だに測りかねている。だんだん目が冴えてきたので続きをしばらく書けそうな気がする。深夜の冬はいっそう深く冷え込む。

 対話は映像で行われる。端末のインカメラで互いの姿と背景を映す。通信料金は国際電話よりもはるかに安い。手紙を書くよりも安い。

「そっちは今日もあたたかそうだね」寒い部屋からぼくは呼びかける。

 彼女の背景はいつも凪いだ大西洋が広がっている。時にハイビスカスと彼女が呼ぶ赤い花々が咲いている。砂は日差しを反射して白い。

「とてもいい天気」

 ふたりの会話はわずかに一呼吸分のタイムラグを生じさせる。

「そっちはどう?」

 彼女はいつも海辺に端末を持参して戸外でぼくに電話をかける。

「とても寒いよ。北風が冷たい」

 フィリップ・K・ディックが作中に〝映話〟を用いたことを思い出した。ぼくの両親が生まれた少し後に書かれた小説で、現実にテレビ電話が発明されるよりも前に造語として映話という架空のマシンが導入された。

「信じられない。こっちは今日もいい天気」

 現実には発明された機能は映話とは呼ばれずに、カメラ付きインターフォンやSkypeに始まる各社開発のアプリケーションサービスがサービス独自の名前を名付けられた。携帯通信端末の大普及は誰にも予言できなかったのではないかと、ディックを読み返したときにふと思った。

「本当にきれいなところだね」

 ディックが幻視した「未来」には公衆映話が存在した。それには笑った。ひとりひとりがテレパスのように連絡手段を携行するのが当然で、肉声を重ねることよりも短文での文字伝達ばかりが優位になるこの現代を誰が予言できただろうか。

「あなたのところは夜?」

 もう前時代のようによそよそしい技術に感じられるが、かつてのひとびとに留守番電話がなした功績というものを、最近ときどき考える。

「もうすぐ日付が変わるよ」

 外出中、開封されない手紙。行き違い。伝言板。待ち合わせの失敗。齟齬の機会がひとつずつ丹念に潰えていく。どんな些細なメッセージにも開封を知らせるマークがつく。

「こっちはお昼過ぎ」

 伝えられなかった。会えなかった。伝達失敗の機会は通信技術の発展により今後ますます減っていくだろう。人間は全知でも全能でもないが、こと情報伝達に関してはその域へ至る糸口がおぼろげながら見えそうだった。

「昼は何を食べた?」

 呼びかければ誰もが応えてくれる。生きているうちに一度も孤独な瞬間に立ち会わない人間も、もしかして今この時代にいるのかもしれない。

「カキを頂いたの。ハルキは?」

 孤独の機会は潰え、窄まれ、孤独それ自体について語る機会は失われ、孤独はまるで病理のように治療の対象として扱われるか、辞書にしか書かれていないまぼろしであるかのようだった。ぼくは、

「いつも通り、焼鮭とカップのみそ汁」

 孤独だった。確信はあった。

「いいじゃない。こっちは醤油が恋しいよ。たまには白いご飯が食べたいな」

 数日に一度は映像を介して会話を交わしているが、大洋を挟んで隔てられた距離は揺るぎようがない。

「ぼくだって美味いカキが食べたいよ」

 フィジカルな願望は共有できないし、そもそもぼくたちは映像を通じて触れ合えないので、これ以上の伝達は叶わない。技術的に。あとは現地に赴くしかない。

「ふふふっ」と小さな声で彼女はわらう。明るい午後の光。「そろそろ遅いんじゃない?」

 時差もまた永久に無くなることはない。こればかりは分布を広げすぎた人間の落ち度だろう。

「ごめんね、気を使わせちゃって。ありがとう。もう寝ようと思う」

 ぼくの言葉が届くまでの間、彼女の映像はいつもひと呼吸だけ動きを止める。言葉が耳から大脳に波及するまで待ってくれているようである。

「じゃあわたしもベランダで昼寝しようかな」

 実際タイムラグの原因はぼくの端末が古いだけだが。

「こっちは実は日付が変わったんだよ」

 でもぼくのせいではない。

「そっちはもう明日なんだね」

 午後の太陽が今は彼女の国を照射している。

「昨日だよ」

 ぼくは今日の日没を思い出している。

「おやすみなさい。今日もおつかれさま」

 大西洋を臨む彼女はそこで美しい日没を見るのだろう。

「おやすみ」

 接続を切った。かたわらに置いていたコーヒーはもうぬるくなっていた。

 

 眠りに就くまでの間、眠る姿勢が定まらず、シーツの中で何度も寝返りを打ち、自分に見合った身体を獲得しようとする。眠りへの強い希求は訪れないが再び目を開ける気にもなれず、目を開けたところで消灯した部屋の窓のカーテンの隙間から夜の赤みを帯びた薄暗い外光がぼんやりと壁に差す程度だった。その黄色のような茶色のような赤褐色の光のもやは、家々の蛍光灯や街灯の白色灯に尾灯やフォグランプや航空障害灯の明滅や信号機の赤色灯が混ざり合っているのだと思う。夜の地平は赤い。朱い。赤い夜の明滅が、眠っている人の静かな呼吸に、呼吸を導く心臓の拍動に結びついて、思考認識のなかの同じ引き出しに収められた。眠りに就こうとするぼくが想像する眠っている人は自分自身でもある。「眠っている人の集合」は「自分自身」を含む。眠りに就こうとするとき、意識が横たわる身体を手放しかけたその直前、意識は想像上の風景のなかを滑るように飛び回っている。鳥の飛行というよりも車や列車の走行のような速度となめらかさで、見覚えのあいまいな風景のなかを延々と走っていく。上手く走り続けられると快くなる。静かに眠りに就く身体を離れ、意識は飛び回る。どこへ? 外の世界へ、速度を求めながら、急カーブで脱落する自意識たち、を、まだ自認できる。風景はいつも戸外で、アウトバーンのように高速で、あらゆる事象は背後に流れる。思い出すに、意識は、身体を離れ、果てのない遠くへ行こうと願っているのだ。実在という枷を抜け出て自由を希求する自意識たち。目的地をこの自意識は知っている。安易なモチーフ。安直な夢。しかし身体は眠りの床のなかでどっしりと重力に身を横たえ瞼を開けようともしない。プールに沈んだ電極付き脳みその見てる夢よりも憐れかもしれない。言葉と思考を司る自意識が振り落とされた瞬間がぼくにとっての眠りのはじまりではないかと思う。そこから先のことは知れない……

 

水底の街について

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『水底の街について』 暦の上での夏が終わり、涼しい風に吹かれて最初に長袖を着た日の夕に、月は森澤晴記(もりさわはるき)の部屋を訪ねた。長らく顔を見合せなかった森澤晴記が昼過ぎに月に電話をかけ、あそびに来てよ月くんと言った。なぜ唐突にわたしを誘ったのかと月は自問したが、森澤の提案に承諾した。スプライトと三ツ矢サイダーとラムネ味の飴を持って行った。森澤が夕食を振る舞った。……

 暦の上での夏が終わり、涼しい風に吹かれて最初に長袖を着た日の夕に、月は森澤もりさわ晴記はるきの部屋を訪ねた。長らく顔を見合せなかった森澤晴記が昼過ぎに月に電話をかけ、あそびに来てよ月くんと言った。なぜ唐突にわたしを誘ったのかと月は自問したが、森澤の提案に承諾した。スプライトと三ツ矢サイダーとラムネ味の飴を持って行った。森澤が夕食を振る舞った。人を招くのが好きなのだと言った。そして今日は特に招きたかったのだと。

 畳に座してグラスに注いだサイダーに口を付けたとき、月は耳元に何かの音を聴く。

 カチッ

 すぐそばで時計の針が震えたような微かな機械音だった。月は右の耳たぶに手を添える。ピアスを一つ開けている。小さな歯車のモチーフ。金具の接触が悪いのかもしれない。耳元で鳴るものだから、嫌でも頭に入ってくる。月は、眠りに就く前に、部屋の時計の秒針チクタクが気に掛かって不眠に陥ることがある。月が手を添えた右耳に、森澤が少し驚く。

「ピアス開けたんだ、いつ?」

「六月に」

 穴はずっと開いていた。森澤晴記が気付かなかったまでだ。

「え、なんで開けたの」

「なんで不満そうなんですか」

「退廃的90年代ラウドパンクシューゲイザーの影響?」

「そんなことはないと思うし、それは退廃的90年代ラウドパンクシューゲイザーへの偏見もひどいです」

「なんか嫌だ」森澤晴記は言う。「月くんはピアス開けちゃ駄目だ」

 彼ひとり知らなかったまでだ。彼が時の流れに取り残されていただけだ。

 この夏、不在の間、「森澤さんは、何をしていたんですか」

「傷心旅行」と森澤は言う。傷心旅行?

「一旦リセットしてみようと思ったんだ。込み入った縁を切るために、更地に戻すために。色んなものを捨てたり売り払ったりした。彼女にも、ぼくは失礼なことをしてしまったし、謝って、すこしのあいだ会わないことにした。ぼくがそう決めた。彼女が別れを望むなら、それが彼女のためで、ぼくのためにもなるかもしれない。ぼくを白紙にするために、習慣づけていたものを止めて、誰とも連絡を取らないで、数日ふらふら過ごしていた。誰もいないような所にバスで行って。でも海には行きたいと思っていた。それで、しばらく海辺で過ごしてみた。見た目にも心にも断崖絶壁に近い数日だったと思うよ。潮風で全身ガサガサで。ホームレスみたいな有様だった」

 自殺者のようだと月は姿を思い浮かべた。独り海辺をふらふらしている男。目は虚ろ。手には酒瓶(に見えるスプライトの空瓶)。髭も剃らない。女の名前を呟いている。その女にも失礼だなと思って空想をオフにし、黙って森澤の話を聞く。

「海辺の岩場に日陰を見つけて、そこにずっと座っていた。何か思いついても何も書きとめないようにして、写真も撮らないと決めていた。意味を直視したくない気分だったし、メモも取らずに過ごせば証拠が残らないから、あとで自分がここにいたことを誰も知らない。そう考えるとなにか安らぎがあるような気がした。本当に。ひたすら波を眺めてた。本当は色んな事を考えたのだけど、言ったとおり、記録を一切取ってないからかなりの内容を忘れている。でもそれでいいんだと思う。考えたことの面影がほんの少しでも残ればそれで事足りる。

 ぼくはずっと岸辺にいた。そのうち、ここが陸の際なのだとはっきり自覚し始めた。大袈裟に言えば自分は世界の果てにいる。そうだろ? 陸の端っこだ。そういうことを黙々と考えていた。

 夏の終わりだから海水浴客はいないだろうけど……クラゲが出るからね、この海岸線を辿っていけばいつか誰かに出会えるんだろうかと、ここにいては見えない人の存在について考えていた。海鳥がときどき水面をつついた。何か魚がいたんだろう。おれは確かに独りだったけど、おれに構わず、どこかで誰かは釣りでもしていて、別の誰かは犬でも散歩させていて、魚だの海鳥だのは外洋に確かに生きているんだって、そういう、気配を感じていた。てんでばらばらに色んなものがそれぞれに存在している。その、すべてを含める時間そのものを、ずっと眺めていたら、やることをやりきった感じがして、なんというか、それしかないなって思って、おれも巣に帰って来た。本当はこの家も引っ越してしまいたかったけど、そんなことをわざわざする必要がないって思って、処分途中だったものも引き払うのを止めた。そんで髭も剃って髪を切って、処分はしないけれども家の掃除をした。それがおとといのこと。おれがあの海岸にいた時からまだ百時間も経っていない」

 どうでもいい話だと森澤は自嘲する。月は答えない。話を聞いている。森澤は続ける。気が済むまで聞こうと思う。

「で……旅行してすっきりリセットできたかと言えばそうでもないような気がしている。根本的に片付いていない感じがする。気持ちが地に足ついていないんだ。水底みなそこの街にでもいるみたいだ。見えるものが全部ゆらゆら屈折している。色鮮やかなのにはっきりしない。白昼夢的に。そのうち息が切れる」

 サイダーを注いで一息つく。コップの底から泡が立ち上り、水面を破って空気に触れる。

「ぼくがいなくてもあの海岸は存在している。いまも、波が寄せては返してを繰り返しているんだろう。釣り人は相変わらずそこにいて、海鳥は相変わらず水面を見つめて魚を狙っている。何の関わりもなく、同時にあらゆるものが……ぼくが見たもの全部が存在し続けている。でもその光景を完璧に思い出すことはできない。思い出せるのは、ぼくの憶測で補強した面影でしかない。鮮明な光景が目の前に立ちあがりそうで像を結ばなくて、でもそれはもうぼくが作った幻に過ぎない。誰かのことを思い出すにしたって――ぼくが結ぶイメージはそのひとではない、別人なんだ」

 それは月の責めるところではない。それよりもなぜ、わたしにこの物語を聞かせたのか? 彼が距離を置くそのひとこそ物語を語るにふさわしいのに。

「それができたら何も困んないよ」

 森澤は自嘲的にやわに笑う。

「幻から逃れられそうにないんだ。まだあのひとに対して頭がこんがらがっている。ディストーションのかかった日々を経てぼくもずいぶん戻れなくなってしまったらしい」

「どうしてわたしに語ったんですか」

「……どうしてだろう、少し遠くにいる人に語りたかった。近しい人に語るのはためらった。こういう直感に従うのは無駄ではないと思うけど。それに月くんは余計な話もしないし頭がいいと思うから」

「それでも」と言いかけた瞬間、なにかに気付いて月は静止する。

「わたしも、余計な話をしていいですか」

 コップに口を付けたまま森澤が月を見つめる。月は右の耳朶じだを指す。

「妙な音がするんです。時計の秒針みたいな機械的な音が。耳鳴りとも違います。規則性はないのですが、ときおり機を見計らったように、……つまりわたしが耳を澄ますような事態になると、耳元で何かがカチッと鳴ります。耳の中で時計を飼っている気分です。それぐらい耳元に近い」

 神妙に聞いていた森澤が、「ぼくからも余計なことを言っていい?」と語る。月から目を離さない。森澤は自らの左耳を指差す。

「動いた」

「動いた?」

「きみのピアスが回った」

「回ったって」

 森澤が月を覗き込む。「きみのその歯車が回った」

 ピアスは歯車のモチーフがポストの先端に付いているだけで、どこにも繋がっていないし動力もない。

「だから音が鳴った?」

「ごくわずかな音だから月くんにしか聴こえない」

「だとしたら」月は探る。「この歯車は何と噛み合っているんでしょう」

 互いのグラスにサイダーを注ぐ。月くん、と森澤が名前を呼ぶ。

「失くさないようにね」

 月はそっと頷く。もっともだと思った。

 少し黙り込んだ。知らない何かが作用している気がする。空気のように見えないものが月の歯車を回している。でも月にはまだこれを気のせいにするという選択肢も残っている。先輩の件にせよわたしのことにせよ、わたしが介入できるものではない。月は静かに思う。嫌な二人組だなと。夏が終わったその日に二人きりでサイダーを飲み明かし、互いに妙なものを抱え込んでいて、全く嫌な連中だ。悪びれもなく口にしたら森澤はとても嫌な笑い方をして応じた。

「しょうがないんだよ」と森澤は語る。月にはふざけているようにしか聞こえない。「しょうがないんだ」森澤は繰り返す。

「森澤さん、でも、向き合うべきじゃないですか」

「向き合う?」

「つらそうに見えました。わたしはあのひとではありませんので、わたしに言っても何もかわりません」……たとえ整理がつかなくても、今一度向き合わなければならないのではないか。「あのひとに会うべきです」

「いつかはね」……分かっている。逃げられないんだ。森澤の声を月はかすかに聞く。

 帰り際、駅まで送ろうかと森澤は言った。

「本当ですか?」

「なにが?」

「森澤さん、そんなに善い人でしたっけ」

「いいひとだよ、おれは」

 確かに善い人なのだろうけど、いつもどこか白々しい。

 夜風がずいぶん涼しくなった。その空気を吸い込んで確かめる。鈴虫が鳴いている。妙な沈黙が流れる。とても妙な感じがする。こうして歩いていること自体がかなり奇妙だ。大学の先輩と後輩とで、ふたりきりで夜道を歩くこと。自分の身体からほんの少し離れた感覚で、自身と森澤が並んで歩く背中を眺めるようなつもりで、月はぼんやり道を歩いた。森澤は改札の目前まで送ってくれた。

 軽い礼を述べて月は改札を通った。数歩歩いたのち、ふと振り返ると、森澤晴記は未だその場に立っていた。そして今し方送り届けた月からの目線には気付いていない。彼は誰の目線とも交差しない一点を見つめてそこに立ち尽くしていた。まるでここにいないはずの重大な誰かがそこに立っているとでもいうように。

 

solarfault

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『solarfault』本を借りた。装丁がきれいだったから借りた。作者は知らないが、フランス人だった。白い表紙のハードカバーで、本文紙は深い群青色の厚紙、印字は銀のインクという特殊装丁で、さわりをぱらぱらと開いてみただけでまだ読み始めてはいない。ぼくの前に借りた者もいないらしい。  部屋の扇風機が頼りない。部屋に充満する空気自体が……

作品は災厄としての祝祭であり、諦めを要求する。(ブランショ『書物の不在』)

@solarfault 12年8月15日

 

 本を借りた。装丁がきれいだったから借りた。作者は知らないが、フランス人だった。白い表紙のハードカバーで、本文紙は深い群青色の厚紙、印字は銀のインクという特殊装丁で、さわりをぱらぱらと開いてみただけでまだ読み始めてはいない。ぼくの前に借りた者もいないらしい。

 部屋の扇風機が頼りない。部屋に充満する空気自体が既に熱気に満ちているようだ。どうしてか、風通しが悪い。ぼくの隣のパソコンが起動中だからというのもあるかもしれない。

 本を借りてからけっこうな日数が経っている。図書館からではなく友人から借りた。あれは夏のはじまりだっただろうか。しかしその人だってぼくの『異邦人』を借りっぱなしで返却の目処は立っていない。貸し借りこれで相殺と言いたいのではなく、ぼくも彼女も「いつか返して貰えればいい」と、期日にはしがらみないたちなだけだった。

 本棚に本を収める癖がないぼくは部屋のサイドテーブルに高さ30センチの文庫本の塔を建立している。それと、彼女から借りたハードカバーを机の上に置いている。彼女彼女と言っているが、ここではエクリさんと記そう。ぼくは一年前に本を貸し、エクリさんから借りた本を読んでいる。

 記憶を辿ろう。ぼくは『見えない都市』を読んでいる途中で、これは借り物ではなく古本屋で買った私物で、今は彼女の本と同じく机の上に重ねている。買ったはいいが読む気になれない、そういう本が部屋にタワーを建てている。背表紙のタイトルを眺めても、まだだ、と思い手に取らない。まだ、これを開く時ではない。そうしてずっと読まないのだろう。

 コップの中で氷がぶつかり、その都度涼しい音を立てる。炭酸水でシロップを割って、杯交える相手もなく貧乏くさくなめている。今、コップは淡青色をすかしているが、シロップの原液は絵の具よろしく真っ青で飲み物ではない色をしている。それにシロップは小瓶で売買される。一度に飲み干すなどという贅沢な真似はできない。そもそも原液のまま口にしてはいけない。洋菓子作りに使うバニラエッセンスを想像してみてほしい、あれをそのままなめてはいけない。そういうことだ。水なり酒なりで割ってやる。ぼくは炭酸水で割る。薄味が好きだからなるだけ淡い青になるように注ぐ。秦野はそれで酔えるのかと馬鹿にしたが、ぼくから言わせればあいつが飲んでいるのは原液だ。よく飲めるよと感心する。

 秦野は酒もやるし極甘のシロップもやる。けれども全然悪酔いしない体質で、だから酒も気持ち良く飲める。ぼくは飲めないから知らないけれど。まあ、酒の話は止めよう。

 真昼、太陽は高く、まっすぐに地上に突き射した。夏の太陽は首筋の弱い皮膚を焼いた。影が灼きつき、氷は溶けた。ぼくはとても炎天下で活動できず、だから日が暮れるまでPCを開いて書き物をして時間を潰していた。あたりが暗くなってから財布だけ持って散歩に繰り出した。夕方になり少しは気温も冷めたが、それでも歩くと額に汗が滲み、外気の熱に気押されて、バニラアイスを食べたくなった。

 左右からの蝉の声に追い立てられて歩いた。どうして東京の蝉は夜間も絶えず鳴いているのか、砂嵐みたいで不快だ。蝉にも音階があれば楽しいのにと思う。一番近くのコンビニに入る。アイスの棚を見ていたが、だんだん喉も渇いてきて冷たい炭酸を飲みたくなった。メロンソーダとミルクバニラ味のカップアイスを買った。

 帰宅して、夕食が何もないことに気づいた。冷蔵庫に正月の残りの餅があったから、暑苦しくもそれを食べた。

 

 色々あった。ブルーハワイにチョコチップチョコにカフェオレにと変動したアイスの好みは、最近バニラやミルクに落ち着いた。めぐりめぐって初心に帰り、バニラアイスの汎用性に気づいた。カップアイスではなくバットで買ってコーヒーフロートやクリームソーダを作った。仮にブルーハワイアイスでコーヒーフロートは作りたくないと思い、そういえばコンビニにブルーハワイはなかったと思い出す。水色のソーダ味はあった。ブルーハワイの青には足りない。

 ブルーハワイを食べたいと思った。全くの思いつきで、皿に取ったバニラアイスにシロップをちょっと垂らしてみた。シロップのあの妙な甘みはブルーハワイに似ているかもとにらんだのだ。けれどもシロップのかかっていないアイスの方が美味しいというまことに不本意な結果に終わった。シロップを、薄く伸ばせば食べられなくもないが、原液はどうしても苦手だった。濃厚すぎる。どうしてもソーダ割りでなければ飲めないらしい。そこでまたしても思いつきで、コップに氷と炭酸水を入れ、アイスにかけたシロップを注ぎ、上に食べかけのアイスを浮かべた。これは、なかなかよかった。何よりもバニラアイスは美味かった。もっとしっかり作ればもっと美味くなると考えた。しかしシロップを飲むたびにアイスを入れるのは贅沢だ。フロートは特別暑い日だけのたのしみに決めた。

 結局「ブルーハワイ」とは何だったのか。ぼくはハワイには行ったことがないはずだ。

 

暑いのと、嫌な夢を見たので、夜中3回ぐらい目が覚めた。午前3時はさすがにセミも鳴いてなかった。

@solarfault 12年8月13日

触覚のある夢を見た。というより、夢の中で触っていた。なんだかわかんないけどむにむにして柔らかい白い物を触っていて、手でつまむ感触があった。実際の手は動かしてなかったけど。それでうとうとしながら本当に手を動かしてみたら、夢のむにむにの感覚は消えてしまった。

@solarfault 12年8月11日

 

 手の届く範囲にいつもコップはある。空であっても何か入っていても、机の上だとか、だいたいすぐに手が届く。今、麦茶を半分飲んだ。冷たいものが飲みたいので、製氷が追いつかなくなりそうだ。

 西日が射す。ぐだぐだと、パソコンを開き、目的もなく遊んでいる。

 そのうちにブラウザを開きながらエディタを開いた。何か、書こうと思った。800字位で詩みたいに心地良い文が書きたくなった。しかしテキストを書きたくなったが書き起こしたい題材がなかった。「小説を書こうとパソコンの前にねばっているが全然思い付かずに日が暮れる話」でも書こうか、しかしその逡巡は小説を書いたことのある人にしか分からないと思う。それではつまらないと思う。そのお話は本当だし、個人的すぎる。ぼくは嘘でも本当でもないお話が好きだ。

 何か、題材になるようなものはなかったか。

 前の週末、秦野に誘われて、河川敷でバーベキューしたことは書けるだろうか。本当は神原も来るつもりだった。少しして里田さんが合流した。秦野の私物のバーベキューセットで炭火でトウモロコシとか焼肉を焼き、里田さんは夕方の明るいうちからひたすら花火をしていた。秦野は、火をつけることを心得ていた。うちわで扇いで酸素を吹き込むと、炎は大きく赤くゆらいだ。いかにも炎らしいかたちの炎だった。真っ赤に燃えて、波打ち際のリズムのように、一定の不規則さでゆれていた。不規則を約束した自然科学の法則だ。そんな摂理をたやすく想像させる、あまりに炎じみた炎だったから、ぼくは炎よりも法則のことばかり考えて、まるで映像みたいだと思った。本物だからこそ嘘くさかった。できすぎていると思ったのだ。金網に乗せたトウモロコシはすぐに焦げ目がついたから、炎はやっぱり本物だったのだが。

 ぼくは炎の感想を秦野に告げた。あまりに炎らしい炎だから現実よりもCGみたいだ、数式で再現できそうだ、でも熱くて物が焼けるからやっぱり本物なのか、と。でも焼けたトウモロコシは美味いからやっぱり本物なのだろう、と。

 秦野は「食って体内に取り込むことは生命として確実じゃないか」そういう旨を答えたはずだ。ぼくはあの青を連想した。確実にぼくに浸透している……。

 ここで、コップの麦茶を飲み終えた。暑い。部屋に熱気が停滞していた。飲んでも飲んでも喉が渇いた。冷蔵庫から麦茶ではなく炭酸水とシロップを出した。シロップはほんの数滴でいい。いつもなら氷は三つ入れるが今回は二つに留めた。一口飲んだ。腹が冷える。青く広がる。浸透する。ほのかに、甘い。

 机に戻り、パソコンには向き合わずに読みかけの文庫本を開いた。図書館から借りた分やエクリさんの本や、読書ノルマは沢山ある。書けない時は読めばいいだろう。足を組んでページの栞をひらく。椅子に座っていたのがそのうち床に横になる。窓から風は入らず蝉はじりじりとうるさい。暑い。気持ちは溶けている。無為に過ごしているなあと思った。

 

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