『Solarfault, 空は晴れて』

水底の街について

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 暦の上での夏が終わり、涼しい風に吹かれて最初に長袖を着た日の夕に、月は森澤もりさわ晴記はるきの部屋を訪ねた。長らく顔を見合せなかった森澤晴記が昼過ぎに月に電話をかけ、あそびに来てよ月くんと言った。なぜ唐突にわたしを誘ったのかと月は自問したが、森澤の提案に承諾した。スプライトと三ツ矢サイダーとラムネ味の飴を持って行った。森澤が夕食を振る舞った。人を招くのが好きなのだと言った。そして今日は特に招きたかったのだと。

 畳に座してグラスに注いだサイダーに口を付けたとき、月は耳元に何かの音を聴く。

 カチッ

 すぐそばで時計の針が震えたような微かな機械音だった。月は右の耳たぶに手を添える。ピアスを一つ開けている。小さな歯車のモチーフ。金具の接触が悪いのかもしれない。耳元で鳴るものだから、嫌でも頭に入ってくる。月は、眠りに就く前に、部屋の時計の秒針チクタクが気に掛かって不眠に陥ることがある。月が手を添えた右耳に、森澤が少し驚く。

「ピアス開けたんだ、いつ?」

「六月に」

 穴はずっと開いていた。森澤晴記が気付かなかったまでだ。

「え、なんで開けたの」

「なんで不満そうなんですか」

「退廃的90年代ラウドパンクシューゲイザーの影響?」

「そんなことはないと思うし、それは退廃的90年代ラウドパンクシューゲイザーへの偏見もひどいです」

「なんか嫌だ」森澤晴記は言う。「月くんはピアス開けちゃ駄目だ」

 彼ひとり知らなかったまでだ。彼が時の流れに取り残されていただけだ。

 この夏、不在の間、「森澤さんは、何をしていたんですか」

「傷心旅行」と森澤は言う。傷心旅行?

「一旦リセットしてみようと思ったんだ。込み入った縁を切るために、更地に戻すために。色んなものを捨てたり売り払ったりした。彼女にも、ぼくは失礼なことをしてしまったし、謝って、すこしのあいだ会わないことにした。ぼくがそう決めた。彼女が別れを望むなら、それが彼女のためで、ぼくのためにもなるかもしれない。ぼくを白紙にするために、習慣づけていたものを止めて、誰とも連絡を取らないで、数日ふらふら過ごしていた。誰もいないような所にバスで行って。でも海には行きたいと思っていた。それで、しばらく海辺で過ごしてみた。見た目にも心にも断崖絶壁に近い数日だったと思うよ。潮風で全身ガサガサで。ホームレスみたいな有様だった」

 自殺者のようだと月は姿を思い浮かべた。独り海辺をふらふらしている男。目は虚ろ。手には酒瓶(に見えるスプライトの空瓶)。髭も剃らない。女の名前を呟いている。その女にも失礼だなと思って空想をオフにし、黙って森澤の話を聞く。

「海辺の岩場に日陰を見つけて、そこにずっと座っていた。何か思いついても何も書きとめないようにして、写真も撮らないと決めていた。意味を直視したくない気分だったし、メモも取らずに過ごせば証拠が残らないから、あとで自分がここにいたことを誰も知らない。そう考えるとなにか安らぎがあるような気がした。本当に。ひたすら波を眺めてた。本当は色んな事を考えたのだけど、言ったとおり、記録を一切取ってないからかなりの内容を忘れている。でもそれでいいんだと思う。考えたことの面影がほんの少しでも残ればそれで事足りる。

 ぼくはずっと岸辺にいた。そのうち、ここが陸の際なのだとはっきり自覚し始めた。大袈裟に言えば自分は世界の果てにいる。そうだろ? 陸の端っこだ。そういうことを黙々と考えていた。

 夏の終わりだから海水浴客はいないだろうけど……クラゲが出るからね、この海岸線を辿っていけばいつか誰かに出会えるんだろうかと、ここにいては見えない人の存在について考えていた。海鳥がときどき水面をつついた。何か魚がいたんだろう。おれは確かに独りだったけど、おれに構わず、どこかで誰かは釣りでもしていて、別の誰かは犬でも散歩させていて、魚だの海鳥だのは外洋に確かに生きているんだって、そういう、気配を感じていた。てんでばらばらに色んなものがそれぞれに存在している。その、すべてを含める時間そのものを、ずっと眺めていたら、やることをやりきった感じがして、なんというか、それしかないなって思って、おれも巣に帰って来た。本当はこの家も引っ越してしまいたかったけど、そんなことをわざわざする必要がないって思って、処分途中だったものも引き払うのを止めた。そんで髭も剃って髪を切って、処分はしないけれども家の掃除をした。それがおとといのこと。おれがあの海岸にいた時からまだ百時間も経っていない」

 どうでもいい話だと森澤は自嘲する。月は答えない。話を聞いている。森澤は続ける。気が済むまで聞こうと思う。

「で……旅行してすっきりリセットできたかと言えばそうでもないような気がしている。根本的に片付いていない感じがする。気持ちが地に足ついていないんだ。水底みなそこの街にでもいるみたいだ。見えるものが全部ゆらゆら屈折している。色鮮やかなのにはっきりしない。白昼夢的に。そのうち息が切れる」

 サイダーを注いで一息つく。コップの底から泡が立ち上り、水面を破って空気に触れる。

「ぼくがいなくてもあの海岸は存在している。いまも、波が寄せては返してを繰り返しているんだろう。釣り人は相変わらずそこにいて、海鳥は相変わらず水面を見つめて魚を狙っている。何の関わりもなく、同時にあらゆるものが……ぼくが見たもの全部が存在し続けている。でもその光景を完璧に思い出すことはできない。思い出せるのは、ぼくの憶測で補強した面影でしかない。鮮明な光景が目の前に立ちあがりそうで像を結ばなくて、でもそれはもうぼくが作った幻に過ぎない。誰かのことを思い出すにしたって――ぼくが結ぶイメージはそのひとではない、別人なんだ」

 それは月の責めるところではない。それよりもなぜ、わたしにこの物語を聞かせたのか? 彼が距離を置くそのひとこそ物語を語るにふさわしいのに。

「それができたら何も困んないよ」

 森澤は自嘲的にやわに笑う。

「幻から逃れられそうにないんだ。まだあのひとに対して頭がこんがらがっている。ディストーションのかかった日々を経てぼくもずいぶん戻れなくなってしまったらしい」

「どうしてわたしに語ったんですか」

「……どうしてだろう、少し遠くにいる人に語りたかった。近しい人に語るのはためらった。こういう直感に従うのは無駄ではないと思うけど。それに月くんは余計な話もしないし頭がいいと思うから」

「それでも」と言いかけた瞬間、なにかに気付いて月は静止する。

「わたしも、余計な話をしていいですか」

 コップに口を付けたまま森澤が月を見つめる。月は右の耳朶じだを指す。

「妙な音がするんです。時計の秒針みたいな機械的な音が。耳鳴りとも違います。規則性はないのですが、ときおり機を見計らったように、……つまりわたしが耳を澄ますような事態になると、耳元で何かがカチッと鳴ります。耳の中で時計を飼っている気分です。それぐらい耳元に近い」

 神妙に聞いていた森澤が、「ぼくからも余計なことを言っていい?」と語る。月から目を離さない。森澤は自らの左耳を指差す。

「動いた」

「動いた?」

「きみのピアスが回った」

「回ったって」

 森澤が月を覗き込む。「きみのその歯車が回った」

 ピアスは歯車のモチーフがポストの先端に付いているだけで、どこにも繋がっていないし動力もない。

「だから音が鳴った?」

「ごくわずかな音だから月くんにしか聴こえない」

「だとしたら」月は探る。「この歯車は何と噛み合っているんでしょう」

 互いのグラスにサイダーを注ぐ。月くん、と森澤が名前を呼ぶ。

「失くさないようにね」

 月はそっと頷く。もっともだと思った。

 少し黙り込んだ。知らない何かが作用している気がする。空気のように見えないものが月の歯車を回している。でも月にはまだこれを気のせいにするという選択肢も残っている。先輩の件にせよわたしのことにせよ、わたしが介入できるものではない。月は静かに思う。嫌な二人組だなと。夏が終わったその日に二人きりでサイダーを飲み明かし、互いに妙なものを抱え込んでいて、全く嫌な連中だ。悪びれもなく口にしたら森澤はとても嫌な笑い方をして応じた。

「しょうがないんだよ」と森澤は語る。月にはふざけているようにしか聞こえない。「しょうがないんだ」森澤は繰り返す。

「森澤さん、でも、向き合うべきじゃないですか」

「向き合う?」

「つらそうに見えました。わたしはあのひとではありませんので、わたしに言っても何もかわりません」……たとえ整理がつかなくても、今一度向き合わなければならないのではないか。「あのひとに会うべきです」

「いつかはね」……分かっている。逃げられないんだ。森澤の声を月はかすかに聞く。

 帰り際、駅まで送ろうかと森澤は言った。

「本当ですか?」

「なにが?」

「森澤さん、そんなに善い人でしたっけ」

「いいひとだよ、おれは」

 確かに善い人なのだろうけど、いつもどこか白々しい。

 夜風がずいぶん涼しくなった。その空気を吸い込んで確かめる。鈴虫が鳴いている。妙な沈黙が流れる。とても妙な感じがする。こうして歩いていること自体がかなり奇妙だ。大学の先輩と後輩とで、ふたりきりで夜道を歩くこと。自分の身体からほんの少し離れた感覚で、自身と森澤が並んで歩く背中を眺めるようなつもりで、月はぼんやり道を歩いた。森澤は改札の目前まで送ってくれた。

 軽い礼を述べて月は改札を通った。数歩歩いたのち、ふと振り返ると、森澤晴記は未だその場に立っていた。そして今し方送り届けた月からの目線には気付いていない。彼は誰の目線とも交差しない一点を見つめてそこに立ち尽くしていた。まるでここにいないはずの重大な誰かがそこに立っているとでもいうように。

 

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『Solarfault, 空は晴れて』
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「空は晴れて」

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