これは物語ではない

変人

 ジョキリ。
 鋏が確かに切り落とします。
 食卓の椅子で、鋏が空間を切ります。机に小さな鏡を置いて、椅子の周りにはビニールが敷かれています。そこで髪を切っている男の人を想像します。足元に切り落とした毛束が落ちるのを想像します。想像は穴埋め問題に似ています。慣れればとてもリズミカルに問題を解き続けることが出来ます。
 問題の人の向かいに座ります。わたしは、チョキで髪を切るジェスチャーをします。ああ、と返事があります。ジョキ。彼は恐らく前髪を切りました。
「……切り過ぎたかな」独り言が聴こえました。
 大丈夫ですよとわたしは笑いました。すぐに伸びるし、きっと『かわいい』ですよ。

「前は伸ばしてたんだけどねえ」

 空笑い とわたしは思いました。ときどき自嘲的になるのを知っています。

「ずいぶん前だよ」

 ずいぶんがいつなのか想像できませんでした。

「整えてたんだよ。二週に一回は通ってたし。もっと多かったかな。分かんない。ちゃんとやってたんだけど、でもこうなってからもうどうも出来ないし。枝毛だらけだよ。切る暇も金も無いし、切ってくれるところも無いし。
 でもまあ、いい加減邪魔だから」

 切る。

『どのぐらい?』

 わたしはメモを見せましたが、見せてから、彼の作業をさまたげていると気付き、引っ込めました。「いや、別にいいよ」と言ってくれるけれども、やっぱり悪いと思います。笑って、わたしは首を振ります。ジョキ、ジョキ。鋏は、不可逆的。
 短くなっていくさまを想像します。完璧に整えていた自分のデザインが、実用を前にして切り落とされて変わっていくのを想像します。さっきよりは難しいけど、きちんと想像できます。最初の髪型はさすがに分かりませんが、それでも、気持ちとか、見えない表情を考えます。

 どうして消えちゃったんだろう?

 ときどき考える疑問を、いまいちど思い返しました。どうして見えなくなってしまったんだろう? いつから? なんで? どうやって? その前は何をしていたの? どんなひとだったの、どんな顔で、どんなものが好きで、どんな名前だったの?
 想像がアンフェアになっていくのに気付いて、わたしは考えないことにしました。
 まずわたしからこたえなくてはなりません。さもないと訊いてはいけないのです。
 そして想像するよりも現実の方がきっとずっと上を行っていて、わたしの想像じゃあ届かないものが、実はあまりにも多いのです。
 かなしくなってしまったので机に伏して顔を隠すようにして、散髪のつづきを見ていました。鋏は休まず切り続けましたが、少しして手が止まりました。
「帆来くん」と呼びかけました。彼は、さっきからずっとソファで本を読んでいました。

「鏡、もうひとつない?」
「鏡?」彼は目を上げました。本は閉じません。
「手鏡とか、小さいの。後ろ切りたい」
「多分、無いと思います」
「じゃあ代わりに切って。自分じゃ見えないから」
「僕だって見えません」
「あてずっぽうでいいから」
「あてずっぽうならご自分で切ればいい」
「見えないんだよ」
「だから、僕だって」

 ザムザさんは、聞こえるようにため息をつき、「セレスタ、鏡ない?」とわたしに言いました。本当はわたしも切ってみたいのですが、誤って耳や肌を切ってしまいそうなので、素直に、ある、と頷き、持ち歩いている鏡を持ってきます。
 ん。ありがと。彼は笑ったようです。
 鏡を持ってわたしは椅子の後ろに立ちます。

「持っててくれるの?」

 笑顔で、頷きます。ちょっとオーバーリアクションかもしれません。場所を教えて貰いながらわたしは立ち、彼をはさんで合わせ鏡になりました。この角度からわたしの顔は見えませんでした。目の前で、まるで生きているみたいに、鋏が宙を切りつづけます。でもそこにひとがいるのです。

「セレスタはいいこだねえ」

 独り言なのか、わたしに言ったのか、帆来くんへの当てつけなのか分かりませんでした。わたしはごまかそうとわらいました。

「いいこにはおいしいものを作ってあげよう」

 わたしはまたわらいました。決めといてねと彼もわらいました。

「毎日おんなじ分け目にセットしてる悪いこはハゲちゃうよねえ」

 やっぱり、わらっていいのか分からなくて、ごまかすためにわらいました。

「だってそうだろ? 同じ生え際ばっか酷使してるとハゲるぜ。時々は変えた方が将来のためだよ。というか君はどこで切ってんだ」

 呆れ気味の口調に対し、やや間があって、帆来くんは、

「自分でですよ」
「嘘だろ?」
「何故嘘をつかなければならないのですか」
「七三専門理髪店があって、そこに足繁く通ってて、『いつもの。』ってだけ言えば完璧にキめてもらえる程度の常連で、客の中ではお前が一番若いからって他の客からも店主からも実は一目置かれてるとかそういうんじゃないの? 店内は品の良いジャズナンバーなんか流れるシックなレンガ造りで向かいの喫茶店のオムライスがべらぼうに美味くて新規の客は右分け左分けしか選ばせてくれないみたいな」
「行ってない」
「あんのかよ」
「ありません」

 読書を邪魔されて少し不機嫌なのかもしれません。ザムザさんはといえば再びため息。けれども聞こえるようにというよりも聞こえてしまっただけでした。わたしがすぐ後ろにいるから聞こえただけです。
 目の前ではらはらと落ちていく見えないものを想像します。見えない身体。……切り離しても見えないんだ。そう気付いて少し驚きました。
 チョキ、チョキと細かく切って調整し、最後に彼はわたしの手から鏡を取って、確認のために色々と傾けました。鋏を机に置きます。『できた?』

「ん……まあ」

 鏡を見つめる人を想像。「……だっせえ」明るく自嘲する声でした。「自分で切るとか、いつぶりだろう」
 立つよ、とわたしに宣告して、彼は椅子を立ちました。わたしは足元を指差しました。

「……欲しいの?」

 多分苦笑いの彼にわたしは大真面目に頷きます。『きねん』
「悪趣味」

 ソファの帆来くんに掛け合うと賛成してくれて(「標本」)一緒に書斎で瓶を探しました。薬を入れるようなちょうどいい小瓶があったので、それを使うことにして、ご本人に一束拾ってもらいました。ノートのはしに日付と『ザムザさんの髪の毛』と書いて、タグにして一緒に封入しました。
 出来あがった瓶には一見何も入っていません。

「新素材ですね」と瓶を透かし見る帆来くん。「さまざまな分野に応用出来そうです」
「ねえそれただの人毛だからね?」
『きねん』
「悪趣味どもめ」

 掃除をしている彼の方を向いて、しゃがんでもらって、わたしはそっと髪の毛に触れます。チクチクしているけどしなやかな感じがあります。言うこともなくて笑いかけます。笑ってくれたらいいなあと思います。
 不意に彼もわたしに触れて髪をなでました。わたしは目をつむってみます。視覚をやすめると彼は本当にただのふつうのひとでした。ただここにいるだけの、ひとのかたちのあるひとです。見えるに越したことはきっとありませんが。目を閉じたままわたしは笑います。

 シャワー浴びてくると言って彼は浴室に行きました。

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