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作品の記号化・作品の継承

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この文章は、 山川夜高の作品の翻案(二次創作)ライセンス に対する附属として書かれました。作品に対する姿勢を書いているだけなので、ライセンスの話はもうありません。

要約: 私は「萌え」「属性」を直接的に描写できません。でも、読者は「萌え」「属性」に依拠した読解が自由にできます。私にはできないので、やりたい方はご自由にやってください。

 

私の作品は物語の筋よりも、登場人物の人間性(個性、あるいはキャラクター性)で作品を組み立てている。自分の作品に対して自覚していたり、また友人に指摘されたりすることだが、登場人物の設定はけっこう陰鬱だったり湿っぽい。そして、陰鬱な登場人物による陰鬱な出来事を、私はなるべく陰鬱そうに描かないようにしている。

陰鬱な作風というのはひとつの記号的表現である。こういった形容は、作品の内容を一般化して紹介するために、作風を記号的にデフォルメしたものである。web上の作品投稿サービスでは、よく「タグ」という名前で使用されている。

世の中には既に「死ネタ」「グロ」のような大雑把なタグをはじめ、「メリー・バッドエンド(メリバ)[1]」のような細分化されたタグも流布している。例えば、「メリー・バッドエンド」的特徴を好む読者は、「この作品はメリー・バッドエンドである」とすでにタグを貼られた作品を探せば、好みの作品にたどり着けるだろう。

しかし、作品の方から「この作品は○○的である」とタグを自己申告することに、私は異議を唱えたい。なぜなら作品をタグに落とし込むことは、作品の解像度を落とすデフォルメだからである。作品からある要素を切り取ってタグをつくることができるが、タグから作品の全容を再現することはできない。「○○的である」というタグによって紹介された作品は、そのタグ通りの読み方に読解が狭められてしまう。○○として紹介された作品は○○の類型から逃れられなくなる。

(例外はある。たとえば本当に陰惨な作品は「陰鬱さ」の記号を脱出している。あるいは、本当に陰惨な作品は、実はよく読むと「陰鬱さ」を表す記号的表現を周到に避けた書き方をしているように思う。)

「属性」に対する「萌え」は、記号性への嗜好やフェティシズムである。例として、特定の容姿に対する「金髪碧眼萌え」、特定の性格を表す「ツンデレ萌え」は類型への愛であると言い換えられる。
ある属性を好んでいる人に対して、私が作中のキャラクターを「○○属性」の持ち主であると紹介することはできる。しかしそれは本来複雑だったキャラクターの人物像を、記号的な○○属性へとデフォルメすることで、人物としてもっていた彼・彼女の固有性を排除することに繋がる。

私は作中で、個人が記号に陥らないような抵抗を試みている。なぜなら、属性のなかに落とし込まれた人物は、代替の効く○○属性の一員としてしか扱われなくなるからだ。属性からキャラクターを知っても、読者と登場人物の間に対等さは生まれない。読者は登場人物を、○○属性の集団のなかからたまたま選んだ誰でもいいひとりとして消費することしかできなくなる。
人はそのように消費されてはならないと、私は『Cipher』や『これは物語ではない』で書いた。だから私は作中で書いた倫理に違わないよう、作品を公開するときの倫理も自律しなければならない。これもまた作品の権利を守ることであると思う。私は作中に書かれた倫理を作品の外でも守る。

ただし、と話を続けるが、読者には、作品の倫理を守る義務はない。読者は、作者がいくら禁止を訴えていたことでも、読者は禁止を破ってよい。それは誰にも規制されない。「そう感じる」ことは誰でも自由なのだ。

例えばここで、マヨネーズを「属性」のひとつとする。この店で出すメニューはマヨネーズを使っていないし、店内の席にもマヨネーズは置いていない。でも、客であるあなたが自前のマヨネーズを持ち込んで料理にかけるのは自由である。

作品を読んだ上で、作品・キャラクターから「○○属性」を感じ取り、○○属性として愛でるのは読者の自由であり、私は読者の読解の自由を必ず尊重する。ただし、私は作品を「○○属性」であるという紹介の仕方をしない。それは読者から「○○属性」以外の読解の可能性を奪うからである。

重ねて言うが、私の作品をあなたの尺度で類型化するのは自由であるし、それは卑近なことでもない。ただ、作者である私はそれを自分の作品ではやらないというだけである。

(私は作者という立場を離れた上で、趣味として、キャラクターをデフォルメして消費できる。でも、このサイトで一般公開されているページでは行わないだろう。イラストのページ http://libsy-illus.tumblr.com はかなり趣味に偏っているので、デフォルメしたギャグが多く掲載されている。)


ここで話を終えられれば良いのだが、作品の記号化に関して、もう一段階ふまえなければならない。ここまでは作品の記号化について語ってきたが、ここからは「記号の作品化」の話をする。長文に飽きた方はちょっと休むかページの閲覧をやめたほうがいい。

作品に固有のオリジナリティはないと私は考えている。なぜなら今ある全ての作品は、何らかの先駆作の後継だからである。

すべての作品は、既にある別のなにかに必ず影響されている。「何の先駆作にも影響されたことのない作品」は存在しない。

例えば、漫画に描かれた人物を想像してみてほしい。紙の白色と印刷の黒でページの平面上に描かれたキャラクターは、現実に存在する立体物としての人間の姿には似ても似つかないだろう。漫画は現実をデフォルメしている。しかし、その漫画のデフォルメは、現実から直接にデフォルメしたものではなく、作者が今まで読んできた先駆作を参考にして生み出されたものだろう。作者のデフォルメが上達すると、作者は先駆作の造形にも疑問を抱き、デフォルメされる前の現実に立ち返ってスケッチをはじめることもある。こうして作者が現実から直接のデフォルメをできるようになっても、いままで参考にしてきた先駆作の影響は残り続けるだろう。そのとき作者の作品は、現実と先駆作の両方を受け継いだキメラになる。

画風に限らず、物語の展開や言葉の言い回しなども、すべては先駆作をもとに学んではじめて書けるようになったものである。

このように、すべての創作物は先駆作を下敷きにしている。そもそもいま使っている言語でさえ、例文として誰かが書いた文章を使って習得したものなのだから、先駆作を抜きにして作品をつくることはできない。

よって作品に固有のオリジナリティはない。すべての作品は何らかの先駆作を引き継いでいる。すべての作品が先駆作の継承であるからには、作品は既につくられた類型の集積であるとも言い換えられるだろう。作品は類型的な記号に分解しえるが、それはそもそも作品が記号の集積でできているからだ。

では、作品が類型の集積であるなら、作品にはオリジナリティは無いのだろうか?

私は、作品のオリジナリティはそれが要する要素ではなく、多数の要素の「組み合わせ」に宿っていると考えている。

作者は、作品をつくるにあたり、何を参考にするか選択を行っている。それは作者がいままで触れてきたものの経緯でもあり、またこれからつくる作品の必要に応じて意識的に先駆作を読むこともある。無意識的であれ恣意的であれ、作者は自分の好みや信条によって、鑑賞する作品を選んでいる。先駆作の選択の集積としてあたらしい作品が生まれるのだから、作者の独自要素が入り込む余地は、先駆作を選択することのなかにある。


作品は先駆作を継承して作られる。その作品も、いつか新しい作品によって継承される。著作権法はおもに営利目的での作品利用について定めた法であるから、非営利目的である二次創作や参考作としての作品利用についての詳細な規定はない(特に前者については、そもそも想定されていないようである)。

私は、もし私の作品が誰かの役に立ったら嬉しい。私の作品は先駆作を引き継いで作られているので、それがまた次の作品に継承されるのであれば、こんなに嬉しいことはない。

Author : 山川 夜高

libsy 管理人。DTP・webデザインを中心とした文化的何でも屋。
このサイトでは自作品(小説・美術作品)の発表と成果物の紹介をしています。blogではDTP等のTIPSを中心に自由研究を掲載しています。
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