人の絵がある。
このとき、なぜ、手や胴体の造形、身体のひねり方や関節の可動域などの身体の現実的な正しさは要求されるというのに、首から上、特に顔面については、大きい目・細い鼻といったデフォルメされた顔が許容されているのか、私には分からない。
ときどき、ハイパーリアリズムのような物凄く緻密なイラストを描ける人を見かける(ハイパーリアリズムというのは美術批評の言葉のひとつで、大雑把に言えば「現実以上にリアルな絵」を指す)。画面では木々や波のような自然物も、服のシワの凹凸も、光の差し方・光と闇の対比・反射光などの光の理解も文句なく描けているのに、その顔だけは大きな目と細い鼻のデフォルメが施されている。
どうしてだろうと思う。作家は人物の顔以外、つまり現実にある自然物や現象を描けている。ということは、作家は、写真やスケッチを参考にして現実を観察して絵を描いたはずだ。観察したものを画面に表現できるということは、作家は現実を観察した結果、現実の美しいこと、表現に値することを、現実から発見したのだろう。
ならどうして、現実から美しいものを探し出すその眼差しが、ヒトの顔には向かわなかったのか、とても不思議でならない。
デフォルメされた顔は、現実に存在すれば、ヒトに似つかない奇形だろう。けれどその奇形化された顔が、現実のヒトそっくりの身体に乗って、現実そっくりの世界にいる絵は、考えればとても異質だと思う。
ヒト(の顔)をデフォルメしているのに、イヌやネコのようなヒト以外の生物は一切デフォルメなく正確に描けている、という例もある。これも本当に不思議なことだと思う。ヒトはデフォルメできるのに、ヒトをデフォルメするのと同じ眼差しをなぜ他の生物に向けられないのだろうか。[1]
なぜヒトの顔だけが特別な目で見られて、ヒトの身体や他の生物、建物などの造形物や岩石などの非生物には、現実の似姿であるような正しさを求められるのだろうか。
顔をデフォルメするのであれば、その顔が存在している環境……その顔がついている身体・その身体がいる周辺の存在も、同じ眼差しで見ないと不平等である。
しかし……
私はエレキギターが好きで、エレキギターはこの世で一番美しい機械であると信じている。私は、エレキギターをヒトの顔のようにデフォルメすることを、私の信条によってできない。エレキギターはその構造と奏者との関係性で音が鳴ることが美しいので、エレキギターを音が鳴らないように奇形化することはできない。[2]
私は顔のデフォルメに疑問を抱き、顔をデフォルメするのであれば他の存在もデフォルメすべきだと思うのに、エレキギターはデフォルメができない。一部の要素は画面の中でかならず特別になってしまう。エレキギターとは真逆に、顔をデフォルメせざるを得ない理由も、根底にあるのは特別視だろう。
どんなに現実そっくりに描いても、絵に描いたギターは鳴らない。私はここで、ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』をいつも思い出す。それはパイプを描いた下に「これはパイプではない (Ceci n'est pas une pipe)」と描かれた絵である。絵に描かれたものは、煙草を吸うというパイプの役割を果たせないので、これはすでにパイプではないという意味の絵だ。
絵に描いたものはあくまでも「絵に描いた餅」である。でも私は、絵の中でギターを持った人物は、絵の中の世界で音を鳴らしていると信じている。絵の中の人物が実はコッソリ動いているというメルヘンな話ではなく、あくまでも「鳴る構造になっている」ように描くことを努めている。
私の絵の中の人物は、動ける構造であるように描きたい。ネコなどの他の生物も、生き物として成立する構造にしたい。機械や建造物や自然物も、役割のあるものは役割をまっとうでき、そうでないものもそれぞれ固有の重さと体積をもった実体であるように描きたい。
私の絵はデフォルメされた姿が完成形なのではなく、現実を平面に投影した結果としてのデフォルメであるようにしたい。絵にしかるべき式を当てれば、画面を現実へ積分できるかのようなデフォルメを試みている。これが、今とりあえず自分の絵に対して設定している折り合いである。
この文章は、「ヒトをデフォルメしているのだからネコの描き方が下手でもいい」というような申し開きのために書かれたのではない。ヒトを描くのならそれと同等の熱量でネコを観察してデフォルメしなければならない。