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このページでは映画『ミッドサマー』(監督・脚本:アリ・アスター, 2019)の感想をネタバレを含んで書いています。

映画をまだ観ていない方は、前のページにある「全く無知の状態で観るのは恐ろしいので、どの場面に身構えたらいいのか予め知りたいが、重大なネタバレは踏みたくない」方へ参考になりそうな感想(軽度ネタバレあり)だけを見ることをおすすめします。

私は映画評論家ではないし、この文章も文章としての質よりも鮮度を重視して書いています。これは私が友人に対して書いた「私の感想」に過ぎません。

映画の公式サイトにある「観た人限定完全解析ページ」の内容も参考にして書きました。
https://www.phantom-film.com/midsommar/mystery/index.html


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「映画を見た人」向け 作品全編のネタバレ(新鮮な感想)

※『へレディタリー』と比較して語る箇所もあり、『へレディタリー』のネタバレも含みます。

この項目は映画を観賞した当日に、帰宅してすぐに書き始めた「新鮮な」感想です。

観賞の2日後に「やっぱり思い直すと…」と反省した別の感想もこのページの下の方に掲載しています。

不安がつのる

本当に怖い。私は『コマンドー』の「見てこいカルロ」(ちゃっちい人体欠損シーン)も苦手なので所々目をそらしながら観たが、仮にグロ描写がなくてもこの映画は怖いと思う。なぜかというと「怖い」と思うことの原因である「不安」が作中で絶えず描かれ、不安が解消されないまま引き伸ばされているからだ。

例にもれずタブーを破った者から村人に消されていくのだが、「こいつ多分死ぬんだろうな〜」と察しても、死体の発見はけっこう先のシーンになるので「あの人は生きてるのか? やっぱり死んだのか?」という不安な状態が先延ばしにされ、居心地悪さを感じる時間がとても長い。次々に消える人々の件、全貌を教えてもらえないまま参加させられる祭、痴情のもつれ、時々画面に登場するヤバげなタペストリーや壁画など、不安のもとがどんどん積もっていくので、私は終始「はやく帰りてぇ〜…」と思いながら観賞していた。

(蛇足:『へレディタリー』における自動車事故のシーンの事故の瞬間→遺体発見までの「引き伸ばし」も本当に最悪の気分になった。最悪の気分になるけれど、あの反応は人としてリアルなんだよな……だから怖いんだよ……)

怖いシーンが始まるのは夏至祭の村に行ってからではない。この映画には怖さを盛り上げるための準備運動がない。冒頭の不穏な電話のコール音と、徐々にアップになる住宅地のなかの当該家屋の冒頭シーンが、めちゃくちゃ怖かった。私は電話のコール音が嫌いだが、電話のコール音の嫌な音をとても丁寧に描いていると思う。主人公ダニーの部屋の絵画も怖い(でもこれはもっとじっくりと図案を見たかった)。『へレディタリー』に続いて人間関係も冒頭から最悪である。不満が互いの心の内にくすぶるけれど面と向かって言うことができないという状態なので、喧嘩ばかりの人間関係よりも遥かに陰湿。

(蛇足:冒頭のタペストリーがふたつに割れるシーンは「物語の幕開け」の直喩として、『へレディタリー』のドールハウスから始まる冒頭部と同じロジックなのかなと思った。)

「ホラー」のコードに則らずに怖い

「ホラーなるもの」に共通する文法や約束事が「夜闇・死・荒廃・虫がむらがる死体(死体の凄惨さを補強するために登場する虫)」だとすると、『ミッドサマー』で描かれてるのはホラーのコードに対して全く真逆のものである。「夜の来ない白夜・光・再生・命をつなぎ子孫を残すこと」。作中の虫も「花や死体があるなら、そりゃあ虫もたかるよね」というように、生物として当然野山に生息している虫を描いているように感じられた。

(蛇足:バッドトリップ中の幻覚に大量の芋虫が現れるので、「キモい」というトーンで描かれていることには変わりないと思う。ただ、描かれていたのは蛆虫ではなく青虫だったので、作中の芋虫は「今は不快な存在だがいずれ美しい蝶へと羽化する」という作品の肯定的なメタファーとして捉えられる……かもしれない。これは気の所為だと思う)

映画の冒頭は、色彩のない冬の森林の映像が映った後、ダニーの妹と両親の死が知らされる。冬が辛く厳しい死の季節であると鑑賞者の心に深く刻まれたあと、物語は白夜の夏至祭に移る。作中で自殺・他殺合わせて9人もの人物が生贄として死ぬが、死者は生まれる前の子に命をつなぎ命は循環する、ということになっているので、やっぱりこの夏至祭は「生」のための儀式である。

(蛇足:姥捨て(物理)はその歳に達した老人が出る度にやっているのかな? 田舎の少子高齢化でヤバいことになりそうだけど、けっこう若い村民も多いっぽい)

ホラー的なコードと真逆の味付けで描いている『ミッドサマー』はおそらく「ホラー映画」ではない。ホラーの方法論を使っていないのに並の映画より怖いからすごい。

監督の前作『へレディタリー』は、悪魔ペイモン(パイモン)崇拝の祖母エレン・リーが娘アニー・グラハムの一家を生贄にして悪魔召喚の儀式をする物語だ。家族は全滅、儀式はしっかり成功し、エレンの孫のピーターとチャーリーを使って悪魔ペイモンが召喚されてしまう。ラストでは、えっ召喚成功しちゃうの!? 世界ヤバいのでは? と面食らった。

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」の映画批評コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」で、RHYMESTERの宇多丸氏は『へレディタリー』のエンディングを奇妙な祝祭感まで漂いだす。という表現で評価していた。(太字は原文ママ)
宇多丸、『ヘレディタリー/継承』を語る!【映画評書き起こし 2018.12.7放送】
https://www.tbsradio.jp/321738

この「祝祭感」は、ラストのペイモン召喚の戴冠式のシーンを指している。

儀式を完遂した「祝祭感」が更に洗練したのが『ミッドサマー』の夏至祭だろう。
主人公ダニーはその場に流されて祭りに参加し、名誉ある「メイ・クイーン(5月の女王)」に選ばれる。女王が最後の生贄で火炙りにされて全滅エンドかな〜と予想して見ていると、村の外部から来た人々のなかでは女王である彼女だけが生存した。それどころか女王は生贄として死ぬ者を選ぶ立場である。今まではヤバい祭りに巻き込まれる被害者側だった彼女は、終盤にして殺す相手を選ぶ殺人者側に回る。彼女は今まで不誠実だった自分の彼氏を生贄に選び、祭りは完遂される。

(蛇足:祭りの最後に女王が選ぶ生贄は、この祭りにおける悪しきもの全てを担い、罰として追放される役回りである。要するに他の生贄よりも扱いが悪い)
(分かる人には『Fate/stay night』のアンリマユ係といえば伝わると思う)
(悪魔の役は最後の最後に選ばれ、村の者から選ぶかよそ者から選ぶかは女王次第。非常に悪趣味だ)

トップページのバナーからジャンプできる「観た人限定完全解析ページ」には、製作時の背景や監督のインタビュー抜粋が掲載されている。一部を引用すると、

脚本執筆時に恋人との破局の真っ只中にあったアスターは、破局(ブレイクアップ)についての映画を作ろうと思い立つ。
「22.メロドラマ」

「(前略)…僕も『ミッドサマー』にカタルシスを感じて欲しかった。観客にエンディングで喜び、興奮してもらいたかった」とアスターは語る。
「20.アッテストゥパンのダイレクトな残酷シーン」

マジで言ってんの? この映画で一番怖いのはアリ・アスター監督の存在では?

本当に、たぶんこの映画は「ホラー映画」として作られておらず、カテゴリー的には(前作同様)家族映画とかなんじゃないか。監督はどこかで「ホラー・コメディである」と語っているらしいけど。

視界の端の幻覚

映像では、動くはずのないものが視界の端でぐにゃぐにゃと揺れる箇所がある。この描写も「見間違いか、それとも自分がおかしくなったのか?」と不安を煽る効果がある。「花、怖っ!」と思ったのはこれが初めてだった……そういえば花は植物にとっての性器だ。
安易なぐにゃぐにゃ表現は失敗するとギャグになりそうだが、「キマってる」感がとても上手く表現されていた。

「観た人限定完全解析ページ」を読むと、他にもサブリミナル的に怖いものが登場しているらしい。身を投げ打った(物理)老夫婦の顔も急にフラッシュバックして映るので怖い。

あとセットの建物も怖い。なんで屋根に対して窓が傾いてるの? こわ…

コミュニティと黒幕の件

『へレディタリー』で家族を亡くしたアニーは、自分の気持ちを整理するために遺族のコミュニティに参加した。こういった自助グループ活動はアメリカで盛んだそうで、日本でもアルコール等の依存症の患者はアメリカのアルコール依存症自助グループが作ったカリキュラムをもとに活動している。自分の体験を同じ境遇の他者に語り、境遇を分かち合うことで回復を目指すのがコミュニティの目的だ。
ただ『へレディタリー』でアニーが参加した遺族コミュニティに、悪魔崇拝者が仕組んだ罠があったのはひどい話だ。(ホラー映画には主人公の回復なんてない。悪い方へ悪い方へ話が転ぶ)

『ミッドサマー』はコミュニティに潜入していく話だ。この村のコミュニティは、どうやら感情を同調させて自他境界をなくす教義(または傾向)があるようだ。
コミュニティ出身の同級生ペレはかつてこの村で両親を失ったが、感情を分かち合うコミュニティによって両親の死を乗り越えて立ち直ったと語っている。彼は子供の頃に両親を火事で失ったと告白した。
(黄色い三角小屋のお焚き上げは90年に1度の特別な儀式と思われる。ただ小規模な生贄の儀式はより頻繁に行われているのかもしれない。あるいは単なる火災事故か、他の村人による放火殺人もあり得る。そもそも作中に「客観的に出来事を記録する外部の存在」がいないので、90年に1度の祭りという触れ込みが真実かも不明だ)

このあとにも書くが、生贄の儀式を村人が心から祝福しているのか、それとも悲しみ悔やむ気持ちがあるのか、本当のところは分からない(私は後者なのではないかという感想を抱いている)。孤児であるペレはコミュニティで血の繋がりのない家族を得て、悲しみを乗り越えたように見える。

しかしペレはダニーたち学生にとっては、とんでもない祭りに自分たちを連れて行った黒幕である。
この「はじめから黒幕の手の内だった」流れは『へレディタリー』の冒頭の葬儀を思い出してしまう。棺に横たわる祖母エレンの胸には悪魔ペイモンの魔法陣を象ったペンダントが露骨に見える。またチャーリーの交通事故現場にもペイモンのマークが映っている(つまりあの事故は偶然ではなく、信者によって仕組まれていた)。

(追加の生贄がほしかったペレのせいで「男友達で旅行だったはずなのに最近疎ましく思っている彼女が着いてくる」という、ペレの意図とは異なる別の地獄がはじまる)

というわけで今作にもはじめから印が散りばめられているだろうと見ていたが、ルーン文字は詳しくないため作中でピンと思い至ることはできなかった。が、作中のルーン文字も「観た人限定完全解析ページ」で紹介されている。ルーンに注目してもう一回見てみよう! という気持ちにはならない。もう見たくない。

そして最多生贄持込賞という名誉を得たペレ自身は、生贄には立候補せずに生還している。本作1の勝ち組は彼だと思う。

私の感想:村人は正気だったのでは説

前評判で「画面からまともな人が消え、やばい奴しか残らない」と聞いていたので、ラストは、まあ、そうなっちゃうよね〜という思いで見守っていた。

ラストシーンで、生贄に自ら志願した男が最後の最後に恐怖の感情を見せるシーンは本当に印象的だ。この映画の味わいをより深くする重要なシーンだったと思う。そして姥捨て(物理)では涙を見せなかったのに、9人のお焚き上げでは号泣する生存者たち。あの号泣は何を意味しているのだろう。

あとから思い出し追記:

失敗して死に損ねた2人目に対し、村人は苦んでいるように見えた。あれは「一発で死なないと縁起悪いのかな?」と思って見ていたが、おじいさんの「死ぬほどつらい身体の痛み」に共感して泣いていると他の感想ブログで見かけて納得した。だからこの辺の読みはひっくり返ってしまうのだけど、「他人の感想を読まずに私が初見で感じたこと」として残しておく)

あとから思い出し追記:

生贄志願者たちには、痛みや恐れを感じない効果があるとされる薬(毒のある樹木から作られているので、毒とほぼ同義かも)が配布されている。それでも炎に包まれた生贄は苦しみ絶叫していたので、「結局は効かないじゃねーか!」という皮肉な笑いも同時に込められていると思う。

これは私の感想なので、製作者の意図は全く考えていない。本作で描かれた「ホラー」とは、なにかを失う悲しみ、失ったものがもう戻ってこないという絶望、迫る苦痛への恐怖といった、人生に訪れる普遍的な感情を題材にしているのではないか。

9人の生贄のお焚き上げを見守る村人たちは号泣するが、彼らの号泣は儀式の成就を喜ぶ嬉し泣きには見えなかった。直前に失恋したダニーをなぐさめる女性たちが、号泣するダニーにつられて咽び泣くシーンと同じように、失った悲しみと絶望の涙であるように私には思えた。

「死者は命を循環する。命のサイクルを終えた老人は自殺するが、死は悲しいことではない」という教義を村人たちは理解(盲信)してはいながらも、いざ命を失う悲しみは振り払うことができないのではないか。特に「生贄は名誉なことである」と自負していた生贄本人が最後に見せた恐怖の感情が忘れられない。

(蛇足:少しファンタジックな想像だが、生贄が最後に抱いた恐怖が、小屋の外にいる村人に伝播したのではないか、とも、今思った)

あとから思い出し追記:

村人の号泣が「失うこと・もう戻ってこないことの恐れ」ではなく「いま痛みを感じている生贄への共感」だとすると、このへんの読みは無効になる。

で、よそ者たちを処分することに対してはたぶん痛みを感じていないのだろう。鳥小屋にあったフラワーアレンジメント(物理)とか、相手に共感していたらあんなことは出来ないはずだ。
(アレンジメントされた人物は村にとって重大なタブーを犯した罪人なので、凄惨な刑死もやむなしとは思う)

炎に包まれる小屋を見守る村人たちの号泣は、恋人をみずから生贄に差し出したダニーの感情の伝播かと思いきや、そうではないようだった。女王のダニーだけはあの場で笑っていた。

よそ者のダニーは半ば成り行きで5月の女王になってしまったが、恋人クリスチャンの不貞(物理)をきっかけに完全に吹っ切れる。不貞を目撃したダニーはショックで号泣し、他の若い女性たちがダニーを追いかける。彼女らはダニーを落ち着かせるように試み、ダニーも最初は彼女らに応じて落ち着いたように見えたが、じきにダニーの号泣が勝り、ダニーを中心にして彼女ら全員が泣き始めてしまう。ここで村人とダニーの強弱関係が逆転し、ダニーは完全に女王になったのだろう。

あとから思い出し追記:

「ダニーと村人の強弱関係が逆転することも村人の演技で計算のうちではないか」という感想を読んでこちらもなるほどと思った。

もしも、生き物が逃れることができない「死」を前にして恐怖し泣き叫ぶことが「正気」である証だとしたら、生贄への哀悼の念を抱いている村人たちは村人なりに実は「正気」で、最後の最後に笑うダニーだけが「狂気」に陥ったのではないかと私は思った。

二度見たら感想も変わるかもしれませんが、怖いのでもういやです。

妄想:女王の顛末

夏至(6月)の祭事を司る女王の名前が「メイ・クイーン」(5月の女王)なのが気にかかる。

集落には歴代の女王を写した写真が壁一面に飾られていた。メイ・クイーンの選定もどれぐらいの頻度で行われるのか(毎年なのか・90年に一度なのか)、正しいことは作中の情報ではわからない。

「見た人完全解析ページ」の「16.メイ・クイーン(5月の女王)」の項目には、「イングランド等の地域では、5月1日のお祭りの日に選ばれた若い女性が白い服を着て花飾りのついた冠をかぶる」という解説が書かれている。
引用:つまり映画では、スウェーデンのミッドサマーに、他国の祝祭とその要素を組み合わせたというわけだ。

私の悲観的な想像は、「メイ・クイーン」という名前はそれだけを意味せず、「この夏から来年の5月までの女王」という意味合いも示しているんじゃないかと睨んでいる。正月が終わったら正月飾りをお焚き上げするように、今年1年を無事に過ごすことができたら、前年のメイ・クイーンはお焚き上げするんじゃないかな〜……と。そうすると壁一面に飾られている女王の写真がすべて遺影ということになる。でも学園祭のミスコンみたいに単に毎年選び直しているだけかもしれない。あまりに頻繁に生贄を出していたら、村として生活を保てないし。

一旦おわり

面白かったです。面白かったけど、それはそうとして怖かったです。
『へレディタリー』は自宅で見たためかあまり怖くなかった(グロはきつかった)のですが、劇場で見た『ミッドサマー』は心の傷になりました。この作品は生真面目な態度で観賞した人の心をえぐるのがとても上手いです。「見入り過ぎない」ということを意識すれば、単なるホラー映画として気楽にスプラッタを楽しめば「楽しくて美しい作品」として見られるかもしれません。私はかなり深刻な態度で作品を見てしまったため、大切な観賞体験になりましたが、感想を書くために場面を思い出したらますます怖くなったのでもう見たくありません。おわり。

そういえば1973年版の『ウィッカーマン』をずっと見たかったので、ちょっと間をおいて探してみようと思いました。手元にある積み映画がホラーor精神的に辛いのしか残っていないので困っています。


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数日後改めて感想と、作品を茶化さないでほしいという旨の愚痴

上記の感想は、2/23(日)の昼に映画を見た後、夜に帰宅してから深夜1:00頃まで書いた。
これ書いている間、PC画面の指紋汚れが人間の顔に見えて怖くなり、布団に入ってもなかなか寝付けず、未発表の自分の作品に登場する宗教者のキャラクターに「タスケテ…」と念を送った(いつもはすらすらと登場人物の言いそうなセリフを想像できるが、その夜はキャラクターも苦笑いして押し黙っていた)。思っていたよりも作品によるダメージを受けて参っていた。

「怖さ」は、悲惨な物語や映像といった作中で実際に起きる出来事ではなく、これから起こる悲劇を予想することにあると思う。怖い出来事よりも、怖いものを想像してしまうことのほうがより怖い。

自分の感想を読み返すと、私はカルトの村にかなり感情を寄り添って観賞していた。彼らにも彼らの歴史による秩序があるだろう、すべての悲劇は文化の違いによるもので村に悪意はない、という見方をしていた。

カルトの定義は難しいが、私は「価値判断の選択肢を剥奪される」ような閉鎖した集団はカルトであると思う。この映画でペレやダニーの悲しみに共感して寄り添うコミュニティのあり方は、集団で薬物茶をキメて輪を描いて踊り、老人を担いで崖の上に登って投身自殺を見守る同調圧力と表裏一体である。
ただ村の命のサイクルには、若者の間に「村の外部に出る」期間があるようだ。ペレがアメリカの大学という自由の気風ある場所で過ごして、故郷とは異なる価値観の存在を学んだにも関わらず(専門は文化人類学だったっけ)、故郷の村に帰ってきたことは興味深い。彼にとっては大切な故郷だったとも言えるし、誰にも目を覚まさせることができないぐらい洗脳が進んでいたとも言える。

 

「この村は我々キリスト教を元にした近代の人権主義をもとに生きている者(作中のアメリカ人・イギリス人だけでなく、日本人も含む)とは異なる思想で生きているので、よそ者が干渉すべきではない」とか「事情を知らないよそ者を生贄用に調達してきているから、犠牲になる可能性のある我々は、この潜在的驚異となる村を制圧していい/したい」とか「ホルガ村は歴史ある村に見せかけた新興宗教説」とかぼちぼち色々な感想が出回ってきて、私は真面目に書かれた感想文を興味深く読み、他人の感想を楽しんだ。

この作品は見る人によって、作中のどの立場に寄り添って鑑賞するか・どこまでシリアスな態度で見るかで感想が変わると思う。作中男性に寄り添えば、グロは全然平気だったがグロよりも「男友達の旅行に彼女が着いてくるのが最悪で怖かった」という感想になるだろうし、田舎やカルトの描写に対して個人的に割り切れない感想を持つ人もいるだろうし、ダニーに寄り添えば「頼りない彼氏を始末して幸せ」と感じるだろう。

登場人物や村の悪意・思惑が本当はどれほどのものだったのか、本作がモノローグのない映像描写だったから真相がわからないというのも面白い。私は初見で村の意思をかなり好意的に感じ取っていたが、「あれは新興宗教では」「あれは悪意の塊だ」と判断する人もいる。

また、この作品がどれほど真面目なトーンで制作されたのか、監督はじめ制作陣のインタビューはあるけれど、鑑賞者は基本的には作者の内面すべてを知ることはできない。(インタビュー記事を読むことができなかったという理由や、そもそも作者自身が嘘をついている可能性もあるということで)どこかのインタビューでアスター監督は本作を「ホラー・コメディ」と語ったそうだが、コメディだからといって気楽に作ったとは限らない。

一部の作家は、個人的な人間関係や社会一般に対する、怒り・憎悪・悲しみなどの暗い感情から作品を制作する。監督は本作をホラー・コメディとして作ったが、それはそうとして監督が「本気で世界を呪って、自分の安寧を犠牲にして、シリアスに」ホラー・コメディを作ったという可能性も感じている。(っていうかこれは完全に私の偏見だけど、現代において「世界、大好き! 人間、大好き! 毎日幸せ!!!」っていうような人が作品を作るか?)

私は「優れた作品とは何か」と考えるとき、条件のひとつに「多角的な観賞ができる」という点を挙げている。作中の要素から、劇中の出来事に対して受け取った感想や、作者の真意について想像を巡らせたり、あるいは自分の知っていた常識の埒外にある世界観にただただ慄いたり、さまざまな感想が出てくる『ミッドサマー』は優れた作品なんじゃないかと思う。

 

(※ここから本格的に愚痴)

 

……

私は(作中の出来事から一歩引いて俯瞰した態度ではなく、)作中描かれた世界に深く入り込む態度で作品を鑑賞し、作品の強烈な描写に圧倒され、(私は怖くて2回目を見たくはないが)この作品を尊重したいと思った。

例えば死者を大勢出した村に対して、中世の非キリスト教圏で見られる古い価値観であると村のあり方を尊重する鑑賞者も、あれは欺瞞に満ちた悪質なコミュニティであると洞察を働かせた鑑賞者もいて、いずれの感想もその鑑賞者なりに作品に向き合って得たものなので、誤った感想は存在しないと思う。

ただ、

「あれは全部コメディだった」という感想を抱いたとしても、そのことを自分の感想として抱き自分の本心から笑った鑑賞者と、たとえば知っているほかのTV番組の型にあてはめてパロディ化して笑うのは、態度として異なると思う。

「型に当てはめる」というのは「理解の及ばない対象を自分が理解できるように矮小化する」ことで、作品のもつ可能性を否定する行為だと私は思う。劇場公開から数日経ってTwitterに溢れた『TRICK』と『世界の果てまで行ってQ!』のパロディは、私がパロディ元の作品を好きかどうかに関わらず本当に嫌気が差した。『ミッドサマー』を見た上で自分が見た作品を題材にパロディを描く鑑賞者本人なら、そういう感想を抱くことも本人の感性の自由さとしてあり得る。しかし作品を見ずこれから見る予定もないくせにパロディに言及する(RTしたり話題に出す)連中が本当に……なぜ自分で確かめずに対象を矮小化するのか?
(パロディ自体というより、一面的で単純な見方がネットミームとして「溢れかえっている」ことを軽蔑している)

矮小化といえば、劇場で上映終了後同伴者に対し「意味分からん」とすぐに言い放った観客がいた。考えたけど意味が分からなかったならまだしも、考えようともせずに、自分の理解の埒外を「意味分からん」と一蹴するのは馬鹿にも劣る。叶わない望みだが、劇場内は上映終了後も私語厳禁にしてほしい。と思った。

みなさんもぜひ劇場で見て自分の感想を抱いてください。


2020/02/29追記

こちらの感想が面白く、またこの感想を書く時に影響も受けているはずなのでリンクします。
いずれも直接的なネタバレを含む記事です。

 

1.

https://fusetter.com/tw/lLodO9qL#all

『ミッドサマー』のネタバレあり、私個人の解釈と感想。
ようは主人公ダニーが○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○までの物語なんですが、(以下続く)

登場人物や村の「悪意」に注目している感想。たしかに、ダニーが傷つくと分かっていながらダニーが小屋を覗くことを強く制止しなかった娘さんたちの態度には妙なものを感じた。
指摘の通り、クリスチャンの我のない剽窃ムーブは本当にひどいと思う。

 

2.

ミッドサマー/ホルガ村は「ヤバい」のか|ヤミジリ #note

美術史的な立場から作品のモチーフを読みつつ、作品観賞がエスノセントリズム的な消費をされていることに警鐘を鳴らす、誠実な感想。
「クリスチャン」という名前は露骨だな〜と思っていたが、言われてみれば男性キャラ全員の名前がキリスト教(近代人権主義の基礎となった価値観)に由来するものだった。
「終わりに:オススメの本 ※2/28:超まとめ」の段落にあるイラストが明快で、とてもオススメ。

1 2

Author : 山川 夜高

山川 夜高

libsy 管理人。DTP・webデザインを中心とした文化的何でも屋。
このサイトでは自作品(小説・美術作品)の発表と成果物の紹介をしています。blogではDTP等のTIPSを中心に自由研究を掲載しています。
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