Without Your Sound *

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 で、水曜日は、四時に青野氏とファイネッジで待ち合わせた。

「久しぶり。慣れた?」

「ズタボロです」

 猫の世話係をやっている話、でも僕がいると松田くんがベッドやその辺の隙間から出てこなくなる話、日本語が死んでる金髪ミュージシャンの話をした。

「レアキャラじゃん、やったな。あいつもバイトみたいなもんだよ。お金なくなると猫の世話しに行ってるみたいだ」

「なんなんすか、あの、失礼ですけど、色々と」

「あいつはギタリストっていうか、うちで飼ってる猫二匹目だよ。あ、でも、おまえのこと好きっていってたから大丈夫」

「どういうことっすか」

「まあ、せっかくだから仲良くしてあげて」

 平日の昼下がり、渋谷の街をはずれの方へ歩いていく。

「モールスって、好きな音楽とかないんでしょ」

 太陽さんから聞いたらしい。

「それで音楽事務所でバイトするのってどうなんすかね」

「僕はアリといえばアリだと思う。ファンが、仕事に携わるとさ、仕事じゃなくなっちゃうよな。でも知ってるに越したことはないよ。モールスはライブも行ったことないだろ? バイトだけどさ、たかだかバイトだってモールスが思ってたとしても、それでも居酒屋なんかよりもずっと有意義だと思うし、きみにとっていい経験になるように僕らも頑張る。ま、大丈夫、VIP席取っといてあるから」

「なんの?」

「聞いてないのか」

「知らないです」

「じゃあ言わない」

 雨垂れで汚れた白壁の小さなビルに、通行証を貰って裏口から入った。

「ここはホワイトリゾーツというハコです。僕が一番好きなライブハウスです」

 黒い壁面にステッカーが幾重にも貼って剥がされて白くこびりついている。ボロく擦れたその内部へ青野氏が僕を導く。扉を開けた先の小さな一室が楽屋で、ごちゃごちゃと手狭ななかで数名のミュージシャンが各自の楽器の調整を行なっていた。ソファに田邊氏と、金髪の例のギタリストが並んで座っていて、金髪の彼は真っピンクのパーカーを着ているので目に痛い。黄色いエレキギターを抱えたまま「モールスじゃん」と声を掛けた。

「お名前なんでしたっけ?」

「モールス?」

「いや、えっと、あなた」

 田邊氏が一言横槍を入れる。「秋山聖」お礼を言いながら僕の言葉は詰まる。彼のドライさにまだ慣れなかった。

「モールス、モールスきょういるの、やった、超見ててね、トク超かっこいーから」

 それから青野氏が同席したミュージシャンらに僕を軽く紹介し(「バイトのカメラマンだけど今日はお試しだから観るだけ」というようなこと)、次の扉を開ける。機材の隙間をくぐり抜け、スタッフやエンジニアが行き来するステージ上を経由し、ステージの上からざっとフロアを見渡した。パフォーマーでもないのに舞台に立つのは変な思いがした。ライブハウスは狭いといえば狭い空間だった。床面・手すり・壁に至るまで真っ黒で、消灯したスポットライトがおもちゃの大砲の銃口みたいに全てこちらを向いていた。注目を集めるための施設。眺めていると突然一斉に点灯し、眩しさに目がくらんだ。

 段差を降りてフロアに回った。柵を越えて、客席脇の上手側に用意された一段高いエリアに通された。関係者スペースだという。客席側の照明は薄暗く、ステージでは配線をチェックをしているようで、様々なスポットライトが明滅を繰り返し、しきりにマイクテストが行われる。

「そこなら見えるから、そこにいてよ」

 一段低い場所から青野氏が僕を見上げて言う。

 

 下手から田邊・秋山ふたりが出て来て、「青野」と呼びかける。彼はステージに向かい、舞台袖からエレキベースを持ち出して、肩から吊り下げて構えた。背後でドラムセットの組み立てを行なっている。

 あれ? 青野さん弾くの? 専属のライターとばかり思っていた。

 目があった時にちょっと笑ってすぐに反らされたので、面白がって黙ってたんだろうと察した。別に黙ってなくてもいいじゃないか、音楽事務所なんだし……手すりに頬杖ついて準備の様子を眺めていると、バスドラムの音の一撃が重く体幹を突き、はっと驚く。左右の巨大アンプが発するギターの音で皮膚がビリビリ震える。鼓膜に限らず、身体全体で振動を受け止めて知覚する。いたずらにデカイ音は好きじゃない。彼らはスタッフの指示で音を出して、足元のスイッチを踏んで、ノイズを入れたり音を変えたり、試奏していた。

 フロアとステージでやりとりが続く。青野氏が言う。

「リハやります。二曲目」

 ドラムがシンバルでカウントを打つ。

 はじまった曲は、レコーディングされた音楽とは違う、生々しくて未整理で「バリ」のようなものにあふれていた。

 ドラムは物理的に重く腹の底に打ち付けられるのに、ザリザリにノイジーなギターのメロディーはどこか甘ったるくて、時々前面に聞こえる低音が気持ちの一番深いところをなぞった。二台のギターは演奏に酔っ払って前後不覚になったみたいに大げさに身体を揺らしていた。音は、ディープで鋭くて、甘く、たぶん、どうすると人の耳に気持ちいいのかを分かっている。しかしキメの荒い轟音を浴びて、五感をすり減らされる思いがした。

 歌っていたのは秋山氏だった。信じられないぐらい下手くそだった。ギターを弾くのは素人目にも上手いんだろうと分かるのに、歌はヤバかった。目をひん剥く勢いで絶叫してるのに音程も迫力もへろんへろんだった。原曲を知らなくても音痴だと察せられる。そもそも声のボリュームは極小で、他の楽器の音に呑まれかけていた。

 サビらしきところで青野氏・田邊氏がハモった。ハモリの方が歌よりも芯が通って聴こえた。歌詞は、サビで挿入されるハモリでしか伝わらなかった。それも、発音ははっきりしているが、同音異義語で意味がつかめない。音楽の音がパーツにバラける。バラバラだ。

 分からなかった。スゴイんだろうけど、どうすればいいのか。頭がグラグラするが、理性を失うというより、理性が反発している。考えすぎてしまうくせに、轟音のせいで頭が回らない。

 わざと引っ掻き回している。意味不明なりにギリギリに曲としての気持ちよさの体裁を保っていた。音の力強さには圧倒された。でも、混乱を誘った。大サビを音圧で畳み掛ける。ロックミュージック的なリズムが乱れ、果たして三名の合奏が合っているのか合っていないのか僕には分からないまま、急にノイズのスイッチが落ちた。ドラムが演奏から離れ、同じ音を鳴らし続けるベースをBGMに、繊細で曇りのないギターの高音がアウトロのメロディを奏で、ゆっくり減速し、曲が終わった。

 彼らは楽器を再調整して、僕は茫然と様子を見ていた。轟音で片耳がくぐもった。

 分からなかった。

「モールス」マイクを通じて語りかけられた。「顔」と、僕を笑う。口開けて観てたんだろうか。

「そういう顔好き」と秋山氏が言う。「あの、観てくれる顔だから、好き」

 言葉足らずでへらへら笑ってる姿は、つい数秒前の絶叫からはひどい落差だ。

 客席から舞台へ声を張り上げた。

「秋山さん」

「なーにー」

 分からなかった。言うことは思った本当のことと違っているようだった。けど、言う機会を逃したくなかった。

「めっちゃすごかった」

「ホント?」秋山氏が身体を揺らして喜ぶ。子供みたいで無邪気すぎた。「トクは? よかった?」

 本人はドラムセットに座ったまま顔を伏せている。

「めちゃめちゃヤバイ」

 返事の代わりにバスドラムの重いキックが入った。

「え、じゃあー、青野クン、青野クンは?」

「オレ、ベースの音、よく分かんない」

 青野氏は半笑いだった。「でも」と僕は続けた。「ときどき聴こえるのが、すげー良かった」

「そっか」と青野氏があっけらかんと語った。「よかった」

「よかったっす」そんなことしか言えない。本当に抱いた感想とは違っていたが、お世辞ではなく、よかったと伝えたかった。技術の良し悪しなんて何も全く分からなかったが、それはそのときに言わないと駄目な気持ちだった。

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