1.
サンタクロースや七福神といった神様に縁遠い人生を送った。
たったひとつたしかに感じられたのは芸神だけだった。神は遠くはるかな遠くから光を差し伸べるだけなので、ケーキとか幸福とか恵みを与えられることは一度もなかった。
水色のストラトキャスターを背負っていた少年時代、日没の早い12月、夜の街に電飾が灯り、サンタクロースがケーキやチキンや鏡餅を売っているさまを見て、“そういうひともいるんだ”と静かに驚いた。自分とはまったく関係ないところでお祝いをする人々がいる。
秋山家ではサンタどころか、5年以上正月も訪れなかった。〈メリークリスマス〉も〈あけましておめでとう〉も家の中で唱えられなかった。
1997年3月に祝詞なき家を飛び出してから、聖にとって年末年始とは、なじみのない異郷の行事だった。だって2000年前の外国人の2000歳の誕生日を自分が祝う道理がないし、本当に2000歳なのか数え間違いが無いかもあやしいし、どうして12月25日生まれのひとを年月を数える基準にしたのに、暦を切り替える日は12月25日ではなく、1週間後の1月1日なの?
「昔だからね。いまみたいに電話とか無いから、皆に年が替わったことを伝えて回るのに1週間はかかったんだよ。それに世界中を上げての壮大な誕生日パーティーの片付けに1週間かかったわけで、みんな忙しくしてるんだ。師も走ると書いて師走だし、その頃はみんな駆け回っていた。だから本当のお誕生日と1年の切替日には1週間の猶予を設けていた、その名残なのさ」
聖の数少ない賢者である青野理史はそう言った。
「嘘だよ」
その場で田邊徳仁が即答した。聖は徳仁を信じた。だから答えは出なかった。
徳仁の家に聖が居着くようになってから、12月末には安売りされたケーキを買うようになった。クリスマスは安売りケーキを一緒に食べる日ということで決着がついたが、晦日と正月は徳仁も帰省した。親戚の集まりがあると言った。徳仁の実家は中央・青梅線沿線で、ふたりが住む三鷹のアパートから日帰りできる距離だったが、彼はかならず2・3泊した。
そんなに親戚ってだいじなの? と意地の悪いことを言ってみた。彼を困らせたいだけなのに、自分の感情にも小さなとげが刺さった。
「ごめんな」と徳仁が言う。ああ違う、謝らせてはいけない、と聖は首を振った。
「ばあちゃんが皆に会いたいって……いや、皆がばあちゃんに会いたがっていて、おれも行かなきゃいけないんだ。もう年だから、毎年、これが最後かもしれないって」
「ふうん」、じゃ、行きなよ。徳仁には聖が持っていない信仰や絆がある。一緒に住みはじめて4回目の大晦日も徳仁は留守にした。
孤独と待ち時間には慣れていたし、音楽を爪弾けば神が時を進めてくれたが、年末年始の空白期間だけはそれでもなお寒々しくて居心地が悪かった。まず第一に、誰も彼もが帰省だ旅行だと言ってここを立ち去ること。その二に、めでたくもないのにお祝いに満ちているころ。あとは神社や寺院といった聖の好きな森のある場所に人々があふれて、猫も生き物もいなくなってしまうこと。子供たちにとってお正月は冬のボーナス日だったが、聖には久しく恩恵がなかった。
20世紀最後の日に、21歳にもなって、お年玉を貰えるとは思わなかった。
2.
「聖くんお正月はヒマかい?」
事務所に置いた荷物の片付けに手こずる青野を眺めつつ、聖は事務所の飼い猫の松田くんの長毛をとかして遊んでいた。事務所の社長・木場太陽がいつの間にかソファの向かいの席に座っていた。真冬だろうとスーツの下は南国柄のアロハシャツ、室内だろうとサングラスを外さないおかしな風体のレーベルの社長を、聖は、まあそういうひともいるだろう、と、たいして気にしなかった。
「正月なんもないよ」
聖の膝の上に松田くんは行儀よく座っている。鼻先から額にかけて毛並みに沿ってなでてやると、彼女は目を細めた。とても美しくてやさしい生き物だ。「なんか仕事?」
「そのお正月休み中に、事務所に人がいなくなるから、松田くんのお世話を頼もうと思ったのさ。守衛さんには話をつけておくからできれば泊まりで相手してやってほしい」
松田くんがうつらうつらしているので、太陽の声も小さい。ん、いいよ、と聖も上の空で返事をした。松田くんと過ごせるなら暇な正月も幸せだ。
「ああよかった。大晦日から1月2日の朝まで2泊3日でいい? 三が日まではモールスにお願いしたんだけど……」
太陽が言いかけると、カクテルパーティー効果か偶然か、毛利信護本人がふたりのいる応接室の隣の編集室から顔を出した。青ざめているが半笑いだ。
「やばいっすよ太陽さん、先月しかけたゴキブリの罠、すっごいことになってる……」
モールスを遮って「20世紀の縮図だよ!」と青野は酔っ払ったように楽しげで、「バカ、持ち出すな、中を開けるな!」と徳仁がめずらしく声を荒げている。太陽が部屋に入る。
「わあ、20世紀の縮図だ! パンドラの甕でさえ中には希望が残ったってのに、ことに人間はせっかくのチャンスを3000年間、いやこの100年間ふいにしたってのかい?」と、笑っているのか起こっているのか分からない太陽が青野といっしょになって不快害虫への新しいレトリックを発明する一方、「いいから片付けるぞ!」と徳仁の悲鳴が聞こえた。
「うえ〜気持ち悪い……」腹をさすったモールスがトイレから戻ってくる。「ゲロしたの?」聖と膝の上の松田くんは無関心だ。
「松田くん……松田くんがいるのに……ゴキブリは獲らないんだなあ……」現場を思い出してモールスはえづいた。いまだ阿鼻叫喚の編集室からは、「モールス早く、これ撮って!」「こんなものを記録に残すな!」とリズム体の攻防が聞こえた。
「いや、バカだね、人類はバカだ! まさか粘着テープの上に曼荼羅図を見るとはね!」
編集室の扉を閉めて、太陽が応接室に戻ってくると、編集室内は会話が途切れ、ドタンバタンと物を動かす音だけが断続的に聞こえる。
「ああそれで……なんの話だっけ、そうだ正月のお仕事だ」
「松田くんと遊べばいいんだよね」
膝の上の美しい毛玉を聖はなでさすった。こんなにバカな人間が騒がしくしても猫は我関せず、呼吸のたびにふくらむ毛玉が愛らしい。
「期間はあす31日から3日まで、聖くんとモールスどちらかが居てくれればいい。この部屋でも僕の家にも止まっていいし、テレビも暖房も使っていい、冷蔵庫の中身も食べ放題、足りなくなったら領収書切って買い足せば良し」
「太陽さん、正月いないんですか」とモールス。
「ああ、正月は Hotel California で New Year’s Party さ! まったく『君がいないと今年も始まらない!』なあんて毎年言われちゃうんだからね、行きも帰りも一苦労さ」
ホテル・カリフォルニアってあるんだあ、と聖は素直に受け止めた。ラブホみたいな名前だなとモールスは考えた。話を聞いたのが徳仁だったらこれを長期バカンスの口実と受け止め、青野は椅子から転げ落ちただろうが、聖の態度は太陽を真に受けるほどの深刻さもなく、ジョークと一蹴するには素直すぎた。
「いままで正月は猫をどうしてたんですか?」猫を飛行機には乗せられないなと、モールスは現実的な質問をした。「毎年トモダチに預かって貰ってたんだけどねえ、今年は都合が悪いとかなんとかで」と太陽は言う。
ギャッ、と、するどい裏声が扉の向こうから聞こえた。徳仁の声にも青野の声にも似ていない。悲鳴と同時に松田くんが耳をぴんと立てて、目を見開き、聖の膝を飛び降りると、編集室のドアノブに飛びついて自力で中に押し入った。ふたたび沈黙が訪れる。
「猫ってドアノブ開けられるんだ」モールスが呟いた。
「そうそう」太陽が席を立ち、懐から小さな封筒を取り出した。帆船の絵が印刷されている。モールスはそのぽち袋を浮足立った気持ちで受け取り、聖は遠慮なくその場で中身を覗き見た。中身は、モールスが期待するような“お年玉”ではなく……折り畳まれたただの紙。
開封しかけた聖を太陽が制する。
「開けちゃだめなの?」尋ねながらも、聖は素直に従った。
「だめだよ聖くん、日本のお守りは玉手箱タイプなんだ。でもこれは正月専用、モールスも年を越したら開けていい。
さぁて僕は夕方の便でキャリフォルニアへ飛ばなきゃだ。それじゃあ皆、〈良いお年を〉!」
そう言って太陽は編集室の窓を伝って、隣のビルディングにある彼の住居に帰った。
「太陽さんって生まれつき『ドッキリの仕掛け人』を生きてる感じがする」
モールスはふたりの封筒を見比べる。開封したい気持ちもそそられたが、パンドラの箱や玉手箱といった怖い話題が挙がったばかりなので気持ちをこらえた。彼は比喩表現を現実に受け入れられず、誇張か冗談として解釈するが、慎重な性格が幸いしている。村の迷信を信じはしないが、破ることもないタイプだった。
「モールス……きみはピューリッツァー賞を逃したよ」
猫の松田くんを抱えた青野と満杯のゴミ袋を両手に持った徳仁が現れた。
「絶対イヤです。あんなもの撮ったらフィルムが腐ります」
「それじゃない、その後だよ。もう……口じゃ言えない」
「……すごかった」と、徳仁さえ同調している。彼らの顔色は青いというより、感情を使い果たして乾いたやるせない微笑だった。徳仁がゴミを捨てに行こうとする手前、聖とモールスが持っている宝船のぽち袋に気がついた。「良いの貰ったな」とふたりに言う。
「なんだ、大人には無しか」と青野。
「お金じゃなかったよ」と聖。
「まだ開けちゃだめだよ」
「なんで?」
「お年玉だろ、それ」
聖は素直に頷いた。「あれ、青野クンも正月帰っちゃうの」
彼の茨城の実家には一度だけ遊びに行ったことがある。坂がなく平らな土地で夏暑く冬寒そうだった。
「今年はなあ、姉が初日の出を見たいって、車出してくれって頼まれててさ。去年、いや今年はやばかった。ロケハンせずに言ったらミレニアムの日の出を一目見ようと大混雑。ま、21世紀の初日の出は今年ほど混み合いはしないと思う。聖クンにおかれましても今年の日付変更は起きていたほうがいいと思うよ。20世紀の終わり、21世紀のはじまりはじまり、スキソイドマンが来るぞ……」
徳仁がゴミ出しのために事務所を出た。「なんか持とっか」と聖も着いて行った。袋をひとつ受け取って、エレベーターを待たずに非常階段で降りる。
「寒っ、早くしよ」聖はコートなしで出てきてしまった。今日は10℃を下回り、渋谷の街は20世紀最後の週末で賑わっていた。でも、20世紀だろうと21世紀だろうと何も変わらないだろう。寒い寒いと口にしながら、聖は先を行く徳仁を追いかける。20世紀だろうと21世紀だろうと彼の姿は変わらない。
なんでみんなは日付が変わることをあんなに気にするんだろう。ふだん日の出なんて見たがらないような人が、その日は早起きしたり、または日付変更まで夜更かししたりするんだろう。
雑居ビルの通用口側にあるゴミ捨て場は、すでに今年最後の回収を終えて空っぽになっていた。いつもがらんとしているコンクリート壁の殺風景な一室を、聖は好ましく思っていた。
「大掃除に間に合わなかったのはうちだけだな」
トクもけっこう縁起とか気にするところがあるなあ、と思う。
「トクはお正月すきなの?」
帰りのエレベーター内で不意に質問をぶつける。少し面食らった徳仁は、「好きでもきらいでもない」と答えた。そう答えると分かっていた。
「だよね」
聖がひとり呟くのと、エレベーターの到着は同時だった。
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良い人生ではなかったこと、自分には知らないものが多いということは、少しずつ分かってきた。それに、たとえ知ったからといって、すぐに理解や実践はできない。“知る”と“分かっている”は段階が違っていて、知っているのにできないことの数は減らなかった。
おせち料理というものを作ってみればいいのかなと、考えはするものの、本屋でレシピを立ち読みしても実感が湧かない。
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