Without Your Sound *

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 徒歩三分の道を行きビルディングに戻ると、事務所の扉前で何者かが壁に持たれて座り込んでいたため、急に決まりが悪くなった。相手は二十歳そこそこの精悍な感じの人物で、僕に対して何の反応も表さず、一目ちらっと確認しまた目を伏せた。関係者なんだろうが、一切挨拶のないところが怪しく感じる。飛躍した発想だが、強盗だったら嫌だなと思い、錠を開けるのをためらったが、こんなに堂々と待ち構える強盗などいないと考えなおし解錠する。しかしここの社長は窓から出入りする人物だから、玄関の方が手薄なのかもしれなかった。

 解錠音がやたらと辺りに響き、隣の人物が立ち上がり声を発した。明らかに不機嫌そうな、苛立ちのつのった口調で一言、「鍵」と言う。少し間を開けて意味の補足が付いて来る。

「預けて、下に」

「守衛室に」

「鍵かけて、出るときは」

「入れなくなるから」

 共用の鍵なので持ち歩くなということだと気づいた。

 新入りは平謝りしか出来ない。が、言われたままに動いている使いっ走りを叱るなんて不条理だ。

 今後雇われるかも分からない日雇いアルバイターの僕よりも、彼は遥かに事務所の勝手を知り尽くした様子で、部屋の明かりをつけて見渡した。

 その人物は僕よりも頭一つ以上背が高く、手足も長く、体格も引き締まっている方で、黒いライダーズジャケットの硬派な風貌によって愛想笑いのないハードな態度がいっそう強調される。また、語り始めるときに身振り手振りのような前触れがなく、かつ、僕の知らない事情を説明もなく取り上げる。

「俺のスティックとスコア知らない」

「スティック?」

「黒いケース。あとファイル」

 言われた物品の見当が全くつかないが、物を失くす可能性の高い場所として、

「あっちの部屋に無いんですか」

 と書類山積みで食べ飲み残しが散乱している例の部屋を指した。あったとしても僕は捜索対象を知らないので、本人が探った方が良いだろう。彼は隣室を覗き「なにこれ」と簡潔に軽蔑しきった感想を述べる。

「あ、これ、あとで片付けるって……」

「誰が」

「散らかした人」

 彼は答えない。

 気まずさから「社員の方ですか?」と声をかけた。藪から棒の問いだったとしても、答えは「は?」と素っ気なさを通り越して無愛想が過ぎ、日雇いアルバイターは萎縮するしかなくなる。

 

 直後青野氏が帰還し、手にサイフとコンビニ袋を提げて、「あれ、どうしたの」と親しげな半笑いで語ったときに、この人は軟派な楽天家なんだろうと僕は彼の印象を決定した。

「俺のスティックとスコア知らない」

 同じ質問を繰り返し、「スティック? 抜き身で?」と青野氏の返答は手慣れて早い。

「いや、ケース、長財布みたいな奴」

「家じゃねえのか」

「忘れてった、多分ここに、ソファに置いたのを覚えてる。出来れば明日使いたい」

 滞りのない会話を眺めて、全く初めから自分の出る幕ではなかったと虚しくなる。遺失物に関する会話が二、三続いたのち、「あれは」と、無愛想な男が僕を指した。

「ああ。バイトのモールス。今日がはじめて」

「モールス?」

「や、毛利です」

「モールスだよ」と青野氏は命名に満足げであり、もう一人を指して「こっちは田邊。紹介は、ミュージシャン?」

「たぶんそう。ドラマー」と自己申告され、どうりで強そうだなと僕が抱いた感想は身も蓋もない偏見で、彼らも彼らで「モールスは?」と尋ね、変なあだ名を取り消す隙がなかった。

「写真の、専門学校で、四月から、二年っす」

「えーと、カメラマン?」

「違うと思います……まあ、今日は……あの部屋の掃除のバイト」

「まあ、まあ」とはぐらかす青野氏。

「でも掃除しなきゃ何か約束を撤回するとかって社長が」

 僕の告げ口に田邊氏が舌打ち混じりに「何を」と食いついた。「ただの脅しだよ」そう言う青野氏も一応の危機感は抱いているらしい。

「探してるスコアって何の?」

「仕事の方」

「ヤバいじゃん」

「そうだよ」

 仲の良さから一周回って邪険に扱い合う間柄らしい。

「トクはスコアとスティックを探す。俺は、まあ、原稿は全部送ったはずなんだけど、漏れがないかメモを探しつつゴミを捨てる。だからモールスは……弁当の類を」

「一番汚いところじゃないですか」思わず本音が漏れた。怒られそうだと思い「手袋とか、ゴミ袋はどこですか?」と、意欲的に聞こえる言葉でごまかした。

「あんの」と田邊氏。「さあ」と青野氏。軍手の捜索から始まったため部屋は若干ながら余計に散らかり、結局台所に掛かっていたゴム手袋を拝借した。

 

 遡ること48時間前、溜まりに溜まったCDレビュー・エッセイ・書評の記事計10点を徹夜で一掃した青野氏はそのまま事務所で夕方近くまで寝落ちし、目覚めて我に返り呆然と過ごしていたところ、僕が現れ、今に至る。

 俺は絶対にこんな量の弁当を食ってないと当人は語る。プラスチックパックは十食分近く積み重なっていて、集中していて人の出入りも何も覚えていないという作業中36時間に食した量としては確かに多いが、先程の肉塊ラーメンを平らげた様子を見ると、無自覚の大食いなのではないかとも思う。

 楽譜を綴じた黒い表紙のA4バインダーをドラマーの田邊氏は探していた。Jポップの女性歌手の新曲レコーディングの伴奏用で、別に有名歌手でもないしさほど趣味でもないのだが、仕事上譜面を失くすなんていう失態があれば信用に関わることは想像にたやすい。ドラムスティックとそのケースも言うに及ばず、欠かせない仕事道具だった。

 着手してしまえば実は食い物の片付けが一番楽だったと気付いた。無差別にゴミ袋に放り込み、ペットボトルを潰す単純作業である。頭脳労働二人の方がストレスフルだった。崩しても崩しても書類は山と積み重なる。

「鍵、置いてかなかったの、お前か」

「ごめんって。待ってたの、どれぐらい待ってた?」

「二三十分」

「ちょうど行き違いだったのかも。俺モールス連れて飯行ってたんだよ」

 という会話を彼らは交わしながら、メモのひとつひとつに目を通していた。

「全部お前んだ」と田邊氏は紙束をひとまとめに青野氏に寄越した。「授業の資料だろ」

「ほんとだ」青野氏には深刻さがない。

「授業?」思わず尋ねた。

「倫理学、書評で引用したんだ。言ってなかったっけ、僕はまだ大学生」

「次で四年」と田邊氏。

「俺らは歳一緒なんだよ」と二人。

「じゃ、バイトってことっすか」

「いや。歩合給っていうの?」と青野氏。「僕なんて作業場としてここのパソコン借りてるだけだから」

 ゴミと書類を退けていくとそこそこの量の酒瓶酒缶も見つかり、青野氏は詰問されたが、俺だけじゃないと言い訳し何人かの別の名前を挙げた。この職場大丈夫かよというのがますますの感想だった。

 

 人員が三人もいれば片付けは容易だった。紙束を縛ってまとめ、燃えるゴミの収集も翌朝に間に合うだろう。

 いくらかマシになったとはいえ物の多い机上を眺めていたら、青野氏のパソコンのキーボードの下に、バインダーを置いて傾斜を作ってキーを打ちやすくしている工夫が見えた。

「ねえあいつは?」「クラブでDJの練習だって」「なんだよそれ」二人は相変わらずの雑談を交えながら作業に向かっている。キーボードを持ち上げて、傾斜に使われているバインダーのページを開いた。五線譜と音符を見てあっと思った。太鼓の譜面などサッパリ読めないが、一ページ目から赤ペンで几帳面にメモが添えられている。

「あの、これっすか」

 と二人に見せた。

 ニャーニャー鳴きながら松田くんが部屋に分け入った。

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