田邊氏は喜びというよりむしろ放心したように、「これ」と呟き、ページをパラパラと開いて仕事道具の無事を確かめた。
「どこにあった」
「キーボードの下っす」
状況を報告した。思い出したと青野氏が語りはじめる。
「最初そっちのファイルのなかに紛れてたんだよ。で、あぶねえなと思って俺が俺の机に移したわけ」
「なんでキーボードの下に置いといた」
「場所がなかったから。いや本当。決してキーボード台になんか使ってない」
松田くんが田邊氏に擦り寄ってニャーニャー鳴き、田邊氏はあのハードな風貌でいて猫に話しかけるタイプであり、猫を抱き抱えて二三小言を漏らした。猫は多くを喋った。主張があるようだった。
「松田くんに餌やったのか?」
「太陽さん忘れてんのかな」
応接間を挟んで反対の部屋は倉庫・楽器庫・仮眠室を兼ねていたが、松田くんも頻繁に出入りしていた。楽器庫ではあるがここに置いておくと大概の場合爪を研がれてしまい、太陽氏のギターも一本ダメになったそうなので、ここでは社長よりも猫の方が格上のようだった。
キッチンで田邊氏が餌の猫缶を用意している間、松田くんがその足元にまとわりついていたが、餌をやった途端に黙り込んで脇目もふらさず飯をかき込み、田邊氏は様子を眺めていた。
「猫好きなんすか」と青野氏に問いかけたのが田邊氏本人に聞こえて、「まあ」と答えがあった。
「前のバンドの名前、ネコマイゴっていうの」と青野氏。
「なんかカワイイ系っすね」
「でもバキバキの轟音だった」
掃除のついでに猫のトイレ砂を替え、仮眠室の松田くんの猫用ベッドも軽く掃除しようと、仮眠室の電気をつけた田邊氏と青野氏は揃って「あー」と気の抜けた声を発した。猫用ベッドにスティックケースが連れ込まれていた。
「クソ」と田邊氏が漏らす。「あってよかった」それは本心なんだろうけど、表面は毛羽立ってボロボロに傷ついている。
中のドラムスティックを回収し、寄ってきた松田くんを青野氏が抱え上げ、「トクに何か言うことない?」と説教を試みるも、猫なのでだんまりだった。
「特にないってさ。トクにはないって」
田邊氏がケースをちらつかせると猫は手を伸ばしてじゃれついた。そのまま、ケースをくれてやってしまった。床に下ろされた松田くんはケースを咥えてベッドに持ち込み、上に乗っかって爪を立てた。
「抜き身で持って帰んの?」青野氏がコンビニのビニール袋を手渡した。ドラムスティックは買い物袋からはみ出す長ネギに似て余計貧相に思えた。
先程帰ってくる前に青野氏がコンビニで買ったプリンを分け与えられた。僕ら三人で小休止し、ゴミ袋をまとめて今夜はお開きになった。
「猫はほっといていいんすか?」
「いつも一人だよ、徹夜スタッフがいる日はさみしくないし、一人でも楽しめるタイプなんだ」
戸締りはしておくけど、太陽さんが入ってこれるように窓の鍵は開けておく。
時刻は21時08分。「来たのは17時16分」青野氏がメモに残す。名前と連絡先を添える。「連絡があるはずだし、一向に連絡がなければきみの方から急かした方がいい。なんなら俺の方に知らせて」
それでようやく僕は取引に少し安心して、渋谷駅に揃って向かった。
「そうだモールス、再来週の水曜の夜開けといてよ。楽しいもの見せてあげる」
事務能力の高い楽天家というのは、能力面でも人付き合いでも人望を集められる得な性質なのだろうと思う。井の頭線で途中下車する青野氏を見送って、僕と田邊氏は中央線まで同行する……
「で、そのあと、マジで無言でしたね」
後日報告の席で青野氏はゲラゲラ笑って聞いていた。
「オレ高円寺が実家で、田邊さんはどこですか? って聞いたら『…………三鷹……』って。だから青野さん降りてから最後までずーっと一緒だったのに、一切無言。マジ無言。肝が潰れるかと思いました」
「彼なりに気を使ってたんじゃないかな。あいつもそんなに日本語上手くないからな」
「え、外人なんすか」
「いや、口下手ってこと。もっと日本語ズタボロな奴もいるから覚悟した方がいい」
初回の清掃はお試しキャンペーンとして相当額を支払われたが、その後は週三四回の事務バイトとしては妥当な賃金で雇われた。電話番と掃除と買い出し要員として僕は誰からもモールスと呼ばれた。
ある日松田くんのトイレ清掃のため楽器庫に入ると、既にトイレは替えられていたし、軽薄そうな明るい金髪の男が寝そべって松田くんとじゃれあっていた。男だと思ったが、違うのかもしれない。性別の見分けのつかないヒヨコみたいにギタリストの外見は特徴に欠けた。ドラムスティックのケースはあれからずっと松田くんのものだった。金髪の彼は寝転んだままケースをおもちゃにして遊んでいた。
「モールスでしょ」僕をちらっと見上げて言った。ギョロ目で痩せっぽちだった。「知ってるよ。言ってたの。そんで、あれ、トクのやつ。青野クンがごめんねって言って。そんでトクがありがとって」
松田くんが「ナーン」とコメント。傍にギターケースが転がっていたので、彼も所属ミュージシャンらしい。向こうが寝そべっていて僕は立っており、向こうは僕と話しながらも猫に夢中なので、話すのにとても都合が悪い。
「あの、ケースはいいんですか」
「松田くんはトクのこと好きなんだけど、でもトクはあの聖クンのだし、でもトクも青野クンだからみんなのこと好きだからいいよ。松田くんはトクのこと好きなんだよね」
「ナナーン」
「それで青野クンがモールスが行ってくれるっていうから、あの、秋山聖っていうんだけど、モールスはトク好き? トクも好きだって。ね、松田くんも好きだよね。モールスは写真見してね。見せるから。
モールスは猫好き?」
最後の質問だけ辛うじて聞き取れた。
「まあまあ……でも猫は僕のことそんなに好きじゃないと思う」
「どうして気持ちがわかるの?」
語の緩急にもその意味にも答えられなかったし、取り繕おうとしていた物事が急にブザマに思えてくる。
相手が僕を見上げる。
「モールスはなにするひと?」
バイト、と僕は言った。かれは二三度目を瞬いて松田くんを抱き寄せた。
「よかったね」
屈託のない言い方を受けて、自分の空疎さを目の当たりにする。