ゲームのルールは麻雀かポーカーに似ている。カードの絵柄や数字を揃えて役を競うカードゲームだが、一般の一組52枚のトランプではなく、56枚組のカードを使う。ゲームの原産は南米らしいが、起源を遡るとかつてのスペイン占領時代の影響が見られるという主張もある。ゲームの前身になったルールではラテン製スートのトランプで行われるらしいが、ここではライダー版タロットカードの小アルカナ(「0・愚者」「I・魔術師」などの固有の絵札の22枚ではなく、杖・剣・杯・金貨の4つの絵柄に、1~10の数字と従者・騎士・女王・王の14枚をかけ合わせた、異なる絵柄の合計56枚)が用いられる。カードを同じスートの数字の連続か異なるスートの同じ数字で合計6枚揃えたものの勝ちである。それらの組の役の組み合わせによって追加の得点を得られる。
誰がこのゲームを大学のサークル棟に持ち込んだのか、誰が流行らせたのか、誰も覚えていない。ゲームの名前も知られていない。トランプゲームの大富豪のようにハウスルールが複雑化しているようだが、そもそも誰も標準ルールを知らないので、誰の記憶にも今は残っていない。ある時期、新入生歓迎会だとかのらんちき騒ぎの折に、誰かがゲームを持ち込んで、隣の部室に伝播して、一帯に浸透した。アガリ時の持ち点がそのまま各プレイヤーの得点に加算され、1点=1円の賭けルールは酔っ払い大学生の公序良俗を乱した。
対戦者の捨て札を覚えて推理できればこちらの勝率も安定するが、アガリへの最後のひと押しはカード運にゆだねられる。麻雀に似ているが役は独特で覚えづらく、しばらくゲームから遠ざかればすぐに忘れてしまいそうだった。ゲームの名前は誰も知らず、ただ「あれ」やろうぜ、と、アガリ手札を見せるジェスチャーで会話が通じた。
ここで言えるのはほんの一時だけ、馬鹿たちの間で知略と運を試す賭けが流行ったというだけだ。ゲームは誰が決めたわけでもなく、サークル棟の同じ一室で繰り広げられ、連日誰かが集っていた。面子には学生ではない者も混ざっていたが、些細な問題だった。とにかく馬鹿たちは毎夜卓を囲んで知略と運を試していた。
何かの縁で誘われた青野も、数日後には彼にルールを教えた友人をカモにして連勝を重ねていた。
「めちゃくちゃハマってた」と、負かされたゼミの同級生たちは、彼に負かされた悔しさをやんわりごまかすように軽口を叩いた。
「ヤバかった」と軽音部の後輩は噂していた。恐ろしくゲームの強い彼らの先輩は掛け金こそ請求しなかったが、負けると彼のバンドのチケット販売に付き合わされた。
「冴えていたんだ」と本人の談。「たまたま謎解きなんかにハマっていて、直感のスピードが早かったっていうか。カードの廻りも妙に良かった。本当にあの時だけだったと思う」
バンドメンバーはというと、青野の熱中を知らなかった。以前三人でやった七並べで青野が秋山聖を泣かせて以来、カードゲームの話題は禁じられていた。
卓を囲む面々は入れ替わり、誰も知らない人物がいても場に溶け込んで気づかれなかった。明らかに学生でなさそうな顔ぶれもあった。居たのはあいまいな存在ばかりだった。酒気や紫煙が満ちる遊戯室にいて、青野がシラフだったのが、本当の勝因らしかった。
何度か顔を見合わせるうちに親しくなった青年がいた。専攻も学年も知らない。明るい茶色の髪が印象的で、清楚で純朴そうな男だった。青年もシラフだったので、青野と会うたびに好戦を重ね、互いを気に入り、よく話をした。
「きみ音楽をやっているですね」
青年のことばは語順や文法に異国風のぶれがあった。
「バンドでベースを弾いてるよ」
弾く真似をしながら青野は答えた。互いの手札の読み合いも底知れず楽しかったし、会話も妙に心地よかった。
「ベースは、地下ですか?」
「低い音のギターだよ」
「低いなのですか、ふしぎですね」
「三人でやってる……ドラム、高い音のギター、低い音のギターの三人。僕が歌詞を書いている」
名前をDrive to Plutoだと教えると、彼は嬉しそうに驚いた。
「地下の国ハーデースの星です。ハーデースはアレースと、一緒ですから。ラジオ、火星人襲撃ですね。覚えてます?」
「火星なんだ、君」
ギリシャ神話の冥府の神ハデスがローマ神話に取り入れられプルートと呼ばれた。アレスはローマ神話の軍神マルスにつながり、火星と同一視される。バンドの名付け親として、青野はひととおり由来の周辺の神話・伝承を読み込んでいた。
前にもこんなことがあったと青野は覚えている。彼らのバンドDrive to Plutoを「僕は太陽、君は冥王星」という、それだけの理由で自陣に招き入れたと語った、所属レーベルの社長・木場太陽。星の巡り合わせのごとき計らいでDrive to Plutoは活動できるという縁があるため、「火星」を名乗るこの青年を、青野は邪険にできなかった。
卓を囲んでの雑談だったが、四人の遊技者のうち、彼らを除く二人は何も語らなかった。顔も覚えていない。その日、まるで無言のディーラーに過ぎないかのように、残る二人の存在感は消え去ってしまっていた。
「火星、本当は火星じゃないんです。僕フォボスで、妹にお会いさせましょう」
「妹さんの名前はダイモス?」
フォボスとダイモスは火星の周囲を回るふたつの衛星の名前である。軍神マルスの息子であり、ともに「恐怖」を司る神である。うちフォボスはphobia(恐怖症)の語源になった。
青年は手札を卓に広げた。杖の567、剣の従者・騎士・女王が揃っていた。
「全部ソードでしたら、とても高いのですが」
と言って席を立ち、椅子に掛けていた上着を羽織る。
「これは占いと運試しが間あいだで面白いですね」
そんなことを言って部屋を出ていった。
「なんで男のコたちタロットなんて持ち歩いてんの?」と、同ゼミの女の子が言うので、56枚制のカードゲームが流行っていることを青野はマメに解説してしまった。
「それ、変な宗教かと思ってた」と彼女の感想。確かになあと青野は思う。というか、何であろうと、常に遊びのためのカードを持ち歩いている学生はよろしくない。
「大貧民とかなあ、高校のときはよくやったけど」
「青野くん遊び人っぽいよね」
日頃バンドの練習や作詞作曲にかまけてろくに講義に顔を出さず、久しぶりに大学に来たら、あまり会話をしたことのない同級生にまで気質を見破られていた。今日は終日予定がないので図書館にでも行こうかと、途中までその同級生と歩いていたところ、少し離れたところからこちらに手を振る人物がいた。
二十歳そこそこの女の子だった。どこかで見たことがあるようなないような、明るい髪色の長髪で異国風の彫りの深いはっきりとした顔立ちだが、人種はよく分からない。間違いかと思って対応に困っていると、女の子の方から話しかけてきて、青野の手を取った。
「兄がお世話なってます」
その不思議な語法で、あの青年の妹だと気付いた。そう見れば目元や肌の色がよく似ている。
「ああ……どうも」
異国風の彼女は、兄の知り合いに過ぎない男への距離の取り方も独特だった。不意にまったく悪意なく、青野の両肩に手を回し、キャンパスの廊下のど真ん中で抱きついて青野の瞳を覗き込んだ。女性にしては背が高く、青野とほとんど身長差がない。
「探しました。ずっと。来ます。フォボス待ってる」
瞳には緑色と橙色が差し、異国風と呼べる以上にむしろ異世界風に思えた。違う星から来たかのような……そんな想念は一瞬で過ぎ去り、衆目の指すなか女の子に抱きつかれているという状況の改善がいまは最優先。
「ハーデース、フォボスいます。映画観ます」なんて、彼女はお話を進めてしまう。
「ハーデース?」
「あなたです、来ますね、プルートー!」
そうして彼女に手を取られたまま、青野は地下世界に連れ去られた。