夜。恐らくは終電で、ジゾ君は帰ってきた。
手違いで開封してしまった手紙を返した。ジゾ君ははにかんで、まだ何も言わない。「どうだったんだ」なんて、俺のことを聞く。
「あの、間違えられたひと、俺が言ってたバンドのメンバーなんだよ。たまたま三鷹に住んでて、たまたまピンクを着てたんだ。本当に偶然だった」
「ハハハッ」
「そのまま帰るつもりだったんだけどさ。なんでか成り行きで一緒にCD屋なんかに行ったよ。色々教えて貰ったりもして、また買っちゃって」
「そうだな」ショッキングピンクを脱いで、ハンガーに掛ける。なんとも静かで、おだやかだ。
「カノジョがさ。サンダルの紐が切れちゃってね」
とつとつと、彼は言う。
「走ったから。その拍子で壊れちゃったんだろうな。そのときに追いついて、だからサンダルの紐が切れなきゃ追いつけなかったんだけど、でもそのサンダル、一番のお気に入りだったみたいだから、悪いことしちゃったなあ。
だから一緒に、新しいサンダルを買いに行ったんだ。一番きれいなのを買って。白い貝殻の飾りのやつ。満場一致だったよ。俺たちきっと趣味が合うんだ。
うん。だから、とっても良かった。
言葉の端々がきれいでね。すごく達筆なんだけど、書道家みたいな達筆じゃあなくて、丸みがかってて、俺は読むたびに、花びらに似てるなって思うんだ。
それで、言葉でも、そんな喋り方をしてさあ。ぜんぜん手紙にウソは無かったんだって。びっくりするぐらいささいなところまで一緒なんだ。そう言ったらカノジョも、そう思ったって。俺のこと、手紙とそっくりだって。やっぱ、嬉しいな。
いいひとなんだ。ずうっと。いいひとだった。俺にはね」
眠たい時刻だ。彼はトートバッグを買っていた。この数週間で買った下着やTシャツの類をしまい込んでいく。
「カノジョの飛行機、明日の朝だから、一緒に空港まで行って、見送ってこようと思うよ。すげえ早く起きるから、そのまま寝ててくれよ」
「わかった」
「ありがとうな」
「俺はなんにもしてないんだよな」おだやかに笑みを返す。「そうだ、厚かましいんだけどひとつ、お願いがあってね……営業を、手伝ってほしいんだけど」
と、お願いごとをバラすと、彼は笑う。
「いいよ。そういうことなら、きっと、喜んでくれるんじゃねえかなあ」
そしてジゾ君経由で、カノジョの連絡先を教えてもらえた。
薄明かりのなか、やっぱり目覚めてしまうと、ちょうど彼が戸を開けて出て行くところだった。
「ジゾ」
呼んだ。扉が閉まる、ギリギリで、振り向いた。
「またな」
ヒラヒラと手を振ってさよならを送る彼の影が見えた。
誰も彼も旅立っていくのだ。
俺もそういえば、旅立ったほうだ。
まどろみながら次に見た夢は実家の俺の部屋の映像だった。
ベッドと窓の関係が、このアパートとおんなじだ。
というわけで、この頃に起こったラブストーリーはこういう風にして幕を降ろし、それからはしばらく物語にかまけていたために溜まったレポートをこなしたりして現実的な忙しさに流れていく、ある意味での休息が訪れた。土日を使ってそれらの生活雑務を淡々とこなして、そういえばその頃になって、ようやく、ピッチを買った。番号を教えるために方々に手紙を出して、こんなことをするなら結局手紙でも変わらないんじゃないかと考えた。
秋山の番号に掛けてみた。
「だれ?」
「青野だけど」
「あ、ねえ、アレ、どうなった?」
「急かすなよ、友達にはお願いしておいたからきっと伝えてくれたよ。向こうだってまだ雲の上かもしれないだろ」
「そんなに飛行機が飛ぶわけないだろ」
どこいくつもりだよ?
……宇宙?
「歌の方はどうなったの」
「ほどほど。もうちょっとかな。いま首都高をぶっ飛ばしてるあたり。警察振り切ればもうすぐで着くよ」
「あっそ」
そんな電話を数度交わした。
「あ、ねえ、練習用のテープ、やるよ。でもおまえ練習するヒマあるの」
「歌詞書いてたら時間無いかも」
「ベース持って来てこっち来い」
「田邊さんち?」
「ハハッ『田邊さん』だって、聞いたトクジン?」
「いんのかよ」
次の日曜日に朝から訪問した。
「歌詞書けた?」
「なんでも急かすなよ」
でも『Drive to Pluto』は作ってきた。
「ふぅ~ん……」
歌詞を作曲者に差し出す緊張感は、漫画家が編集者に原稿を見せるときに似ている。それも漫画で知る限りの知識だけれど。知っていることのおおよそは伝聞か想像に過ぎない。俺はいつも想像を切り取って差し出している。
「小難しい」今度の総評はこうだ。「しかもどうやって歌うのさ」
「いや。このメロディに沿って。この、シンセのメロに、乗るよ」
「えぇ?」
「もしかして再現性ない?」
「ぜんっぜん無い」ぐったり天を仰いだ。「マジかよぉ……ねぇえ、トクジン、どう? これ」
田邊は黙ってたが、ちゃぶ台に麦茶を3杯並べて、「でも『角部屋』だって滅茶苦茶気に入ってたじゃねえか」とバラす。
マジかよ?
「ちっが、その、読むだけなら! あんま、歌う気、なかったしぃ、今までに比べたら、マシってだけで!」
「じゃあ書いた奴が歌えばいい」
「マジかよ」
「やだ。フロントマンはギター!」
マジかよ。
「スリーピースでフロントもクソもねえだろ」
「いいよ、歌は、それで」、と秋山が切り上げる。「曲のタイトル、これ、変えてほしいんだけど」
「……えっ、なんで」
「いいだろ、別に、来週までに変えて」
「どこが悪い? 俺は、気に入ってるし、問題もないと思うけどな」
「どうでもいいから。もっと、かんたんな奴にして」
「……分かった」
「それとさ。1週間貸して」
「ベースを?」
「おまえごと」
「いや、大学が」
「学校なんて多少休んでも何とかなるんでしょ?」と田邊を仰ぐ。
「どうにかなるけどこいつのせいで2回進級が危なかった」
「どうにかなるんじゃん」
「3年目は卒業が怪しかった」
「ギリギリセーフ」
「ほとんどアウトだよ」
「高校よりも大学の方がヌルいんでしょ? ミドリちゃん言ってたよ。大学生ってバカばっかりだって」
「否定しにくいな」
「ね。貸してよ」、にんまりと笑む。
人生を。
衝動を。
「……なにを?」
「1曲だけ覚えて。1週間で。それと七夕の夜を空けといて。予定なんかどうせないよね?
ね、スピッツやってたんでしょ? それよりカンタンに作ってあるからさ。
1曲だけ。1回だけ弾ければいい。
ね。
わかんなかったら聖クンが教えてあげる」
それだけ言われた誘惑に、まんまと乗り込み、ドアを閉めた。
「教えてくれ」
「いいよ。あのねえ、ガリ勉とインテリと委員長は、大っ嫌いなの。マジメなやつなんてつまんない。ねえ、楽しみだからね? 楽しみにしてるよ?」
そうして見事に1週間が溶けた。『Drive to Pluto』ただ1曲をひたすら体に叩き込んだ。
俺をここまで仕立て上げた秋山の辛抱強さには驚いた。互いに大見得を切り合っただけあり、また1日10時間を溶かせば極限状態でもどうにかなりうるのだと悟った。人生のなかでもっとも暑苦しい1週間だったが。
ジゾ君からの幾度の着信に気が付くのがこうして遅れた。
「なんで電話出ないんだよ」
「悪魔に、ベース弾かされてた」
「体にお経書いたか。耳に書き忘れたか?」
「どこにも書いてねえ。全部歌詞」
「おまえって俺よりバカ」
電話は、朗報だった。
イメージを膨らませたいから、歌詞かデモテープを送ってほしいということだった。
「近いうちに送るよ。ホントにありがと」
「俺はなんにもしてねえよ。
あ、そうだ。おまえらにとって1個だけ悲報。というかそっちのギターの人にかな。
あのね、あの節は間違えちゃってホントにごめんねってことだけど、顔も髪型も、プリンな金髪よりも俺の方がサワヤカで好みだってさ! ハハハ悪いなあ~! じゃあな!」
「ノロケか!」
叫んだのがネコマイゴに聞こえた。
「デモテープか歌詞をくれってさ」
「両方送る」
「あれ、やってもらえるんだな」
「あ、でも、何入れるの?」
「『角部屋』は入れるよ」
「ウソだろ?」
「聴く? できたよ? 青野クンまだ聴いてないんだね?」
と、アコギを持ってきて、意外にももったいぶることもなく、その変則バラードを弾きはじめた。
ギターを手に取る秋山は高みにいる。大胆不敵で繊細で、19にしては鋭敏すぎる。声はかすれて小さいけれど、この曲にはこれぐらいで良いのかもしれない。本当はささやかな気持ちで書いた曲だったから。時間の流れに置いていかれた白いアパートの歌は、爪弾くギターの音に彩られて、朝露みたいな幸福とさびしさを言葉にまとわせ胸にせまった。
自然と拍手を贈ると「いいでしょ」と笑みを浮かべる。
「EPのはアコースティックにする。ライヴじゃもっとリバーヴ効かせるけどね」
その呟きはいつか野良猫に喋りかけていた時のおだやかさとほとんど一緒だった。
週のうちどうしても出なくてはならない講義だけはなんとか出て、ほかはマツヨ君らにいろいろ手を回したりしてどうにかして、狡猾で、バカで、慌ただしかった。
時間が合えばスタジオに入った。いろいろあったがネコマイゴのライヴ演奏を聴くのはこれでまだ2度目だった。
「あれでいてあいつもおまえを気に入ってんだよ」と、秋山のいないときに田邊が打ち明ける。「意外だったけど。入れ込んでる」
最初のカリキュラムのほとんどが田邊とのマンツーマンだった。ベースはリズムとコード進行を担い、例えばギターが弾かない低音を支持する。メロディに隠れて聴こえづらくても俺たちが楽曲を保証しているところがある。ベース不在のツーピースは言わば保険のない音楽だ。そんなギリギリのバランスで既に成り立っている建造物に新たな柱を加える危うさは、互いにとっくに承知しあっていた。田邊は言う。
「俺と合わせろ。俺に、じゃなくて。あいつは俺と合ってるから、俺と合わせたら、そしたらできるだろ、俺たちは」
秋山がカリスマによる天才だとしたら、田邊はストイックさにおいて彼と双璧をなしていた。生い立ちやきっかけを尋ねると、田邊は吹奏楽部でパーカッションをやっていた。
「吹部とあいつの掛け持ちだよ、正直よくやったよ」
「気疲れもひどそうだな」
「地元のチャリティコンサートをやった夜にライヴがあったこともあってさ」と遠い目で言う。
「なんでドラムに?」
「中学で、〝いちばん背の高い奴がドラムセット〟っていう暗黙のルールがあってな」
「へえ」
「というのもデカけりゃ体力あるだろってことで、楽器運ぶのに使われて」
「ああ……」
「まあ」
そこまで語って、水を一気飲みした。
「よかったんじゃないかなあ。これで」
なら、間違いないのだと思った。
驚異的な集中力を見せているのは秋山だった。1曲しか弾かない俺はともかく、田邊でさえときどき息を入れているというのに、皆が休んでいる時はアコギ1本の曲をえんえんと試奏している。
田邊がそっと後ろに回って秋山の首筋にお茶の缶を当てた。「ぎゃっ」
「そろそろ録らないと時間なくなるぞ」
「あ……そっか」
冷たいお茶を一瞬で空にして、水色のストラトに持ち替える。リストバンドで口元をぬぐう。
「スリーピースだよ、ねぇ。早くほかのも弾けるようになれよ」
「もっと余裕のあるスケジュールがいいな」
「でも、できちゃったじゃん、できるんじゃん?」
そうしてスリーピースの『Drive to Pluto』を録音したのが日曜の晩。目論見通り疾走に乗って格好良くハマったことに驚いた。「ベース入るとやっぱ違うね」と秋山は心底満足げにしている。特訓最後の夜だった。