帰路につきながら、次にネコマイゴに会うときにはジゾ君はいないかもしれないと気付いた。そんなジゾ君は俺が帰ってくるまでのあいだアパートの前の公園でひもじく待ちくたびれていた。児童公園でショッキングピンクの坊主頭がブランコに腰かけているのは、けっこうプログレでグッとくる。
テレパシーを身につけるか連絡手段を持ってくれと怒られて、こいつはいつまでここにいるつもりなのかと、ちょっと呆れた。
悪かった、飯買って帰ろうと呼び掛けたが、ジゾ君はブランコを降りない。どころか、漕ぎはじめた。
「俺はなー。迷ってるんだよ。それにビビってるし。逃げ出したいけど、逃げ出したら一生後悔すんだろ、でもこれから前に進んでも、まあほぼ、つらくなるって見えてんだ。やらない後悔よりやる後悔って言うだろ? でもどっちも、面と向かったらどっちも選びたくねえよ。
俺は、なんで、ここにいるんだ? なんだよ、わけわかんねえよ。ここどこだよ。東京ったってこの辺りの風景は特別都会でもないし、でも渋谷なんてめちゃくちゃ都会で、なんなんだ? カノジョこんなところに住んでんのか? カノジョはここで、アートを勉強して、それで海外に勉強しに行くって。どうして俺と文通するの? 男じゃなくて、弟か何かだと、思ってんの?」
待ちぼうけの末に自問自答の地獄の扉を開いてしまったんだなと察した。
「俺は言えると思ったことしか言わないよ」と、俺なりの前置きを置いて彼に答える。「俺にも言えることなんだけど」俺は俺に対して言うのだ。「そこまで行き着くと信じるしかないんだよな。そこで待っててくれてるって」
アドバイスでもないアドバイスに互いに閉口して佇んでいると、向かいの道を光が通り過ぎる。夜闇に沈む友達を見つめて、俺はまるで違うことをヒラメいていた。
ドライブ・トゥ・プルート。果てまで走る一途な男。破滅と愛に向かうやさしい男。逃げているのか、追っているのか、それは分からないけど、細かい意味は変わらない。いとしさを抱えて息苦しくなって、苦しくなるたびその眼差しは明瞭だ。そしてアクセルをベタ踏みし、ハイウェイから離陸し、夜空へダイヴする。
今なら書ける。炎が灯っている。
あの青黒いサウンドはきっと喜んでくれる。
「ねえ、正直言って公園で話し込んでても何にもなんねえよ。俺たちは動かないとたぶん何にもできない。だからとっとと飯買ってとっとと帰ろう。何食いたい」
「チャーシュー麺」
「買って帰れるものにしろ」
「イヤだ、俺知ってるからな、駅の反対側に中華屋あるの知ってるからな、チャーシュー麺と半チャーハンのセット、ゼッタイそれ」
帰りの遅れたことの詫びとして、おごってやったし、ギョーザを半分彼にやった。
小汚い店内は大学生がたむろしていた。
「俺ね、俺のペンネーム、ジゾなの。お前が言い出したあだ名。俺、気に入ってるんだよ」
麺をすする音に阻まれ途切れ途切れに彼は言った。
仮タイトル『Drive to Pluto』に俺はさっそく取り掛かった。
『角部屋の窓』に記したものは街のスケッチと内省だった。高校のときに書いた夜景スケッチと作り方はたいして変わらない。見た風景を見たとおりに書く、極端にマジメな書き方をしていた。
『Drive to Pluto』では、人物が生まれた。追いかけているのか逃げているのかわからない、意思をもった主人公。彼は俺であってジゾ君でもあり、どちらでもなく誰でもない。彼が走り抜ける風景も、俺の見ているこの街並みと似ているようでまったく異なる。
今まで俺の書くお話はことごとく無人だった。せいぜい、観測する俺がひとりで佇んでいるか、他人が遠くに見えるだけで、その人物の顔と人生は伺えない。今度ははじめてお話が誰かの人生に接近した。
彼がどう思うのか、どう動くのか。彼は俺の姿に重なったり、また遠ざかったり、波のように形を保とうとしない。
ていねいに何度も歌を聴くと、そのたびに新たな発見があって驚き、歌詞が書き換わり、主人公の旅路も違う意味を帯びる。
スピードの体験、俺のそれは原付で田舎道を突っ走った記憶だけど。あの危うい心を思い出そうとする。その心のまま、舞台を歌のなかの王国にスライドし、想像を巡らせる。
想像は停滞しがちだ。同じことをぐるぐる考えていても自分以外には誰も止めてくれない。その点、歌詞は、自分ひとりで考えるのではなく、歌が導いてくれるところもあるし、歌に脅迫されることもある。言葉が歌を引っ張ることもできる。ふたりが手をつないでランデブーするように、音楽と言葉が互いを軸にしあいながらおのずと回りはじめたらサイコーだ。
「なああああ、あさってだあああああ」
ジゾ君の悶絶も音楽にしか聞こえない。「サイコーだな」
「胃がひっくり返る」
「そんなマンガなかったっけ」
「んんん」
「身体の、皮がひっくり返って、裏返しになって死ぬ」
「どうしてそういうことを今の俺に言うかなあ」
「ひっくり返らないよ」
「あさってかあああああ」
「スピードでもする?」
「なんで?」
「そういやお前に勝てたこと、あんまりなかったから、今から勝てるかもなって」
時刻は深夜にさしかかり、眠気と疲労で俺たちの手はもつれ、子供のころに遊んだ以来のおぼつかない速度のスピードを交わし、互いの遅さにゲラゲラ笑った。
今のジゾ君がひっくり返ったらたぶん腹の内はショッキングピンクだ。高校までは例えるなら抹茶色な気がしていたけれど、あざやかになったジゾ君も見ていて実に誇らしい。俺の内側は何色だろう。あいつらは何色だろう。人々は平均的に何色だろう。
翌朝ネコマイゴをジゾ君に聴かせた。
「お前、ヘンなバンド見つけてくるなあ」
でもジゾ君だって雑誌のなかからカノジョを見つけてきたじゃないか。
ウォークマンを持って阿佐ヶ谷のデニーズに行き、コーヒーとクラブサンドを食べた。俺の曲でない以上俺の場所ではないところで作りたいという変なロマンシズムに駆られてだ。なお、別段はかどりはしなかった。
狭いテーブルにメモ帳を広げて、クラブサンドをつまみながらキーワードの精査をしていると、水のおかわりを勧めに来たのは先日のミドリちゃんだった。
「どうですか? 新メンバーとして」
「ぜんぜん、まだ何にもはじまってないですよ、俺が入るのかも分からないし」
「そうですかあ? わたし、初対面みたいなひとにこんなこと言うのは失礼だって分かってますけどお、でもなんだか相性いいんじゃないかなって感じ?」
ミドリちゃんはおしゃべりでよく笑い、会話が弾んだ。
「でも先行きは不安だな。特にギターの人とは。これからやっていくにしろ、今後が不安ですよ」
「そうやって自分から距離を置いてると、相手にも逃げられちゃいますよ? だいじょーぶ……」
そう言ってコーヒーのお代わりも勧めてきた。
「新メンバーにならこんなこと、教えてもいいかな?」
「言うと困るなら、言わなくていいよ」
ミドリちゃんはアハハと笑う。挙動が明るくて、いい人だ。
「ううん……、聖クンは、なんて言ったらいいんだろう。とっつきにくいでしょ? それはそうなの。でもぜんぜん、最初だけだから。イヤミを言いたくてイヤミを言っちゃうんじゃないのよ。アマノジャクって言うかあ、うーん……」
言葉に詰まっていると、向こうの席でウェイトレスが呼ばれた。結局、昼飯を食いに来ただけになってしまって、メモ帳をまとめて退店した。
レジはミドリちゃんが打ってくれた。
「明日には、いいコになってると思うよ」と突然切り出す。ネコマイゴの話の続きだった。
「さっき止めちゃった話。あのコもね、恋してんの!」
「へえ」
「わたしの予想だと、たぶん明日には叶うんじゃな~い? ……なんてね、実はわたしが取り持ってるの、ちょっとだけね!」
快活で、世話焼きで、ミドリちゃんは大変な人だ。
「そしたら俺への風当たりも良くなるかもですね」
「そ。やっぱ、愛よ、愛。愛は人を変えるの」
と言って、店内の笹を指差した。七夕まではまだ間がある。
会えない男女。夜空。いいじゃん、ちょっと笑んだ。都会の明るい夜空じゃあ、星である彼らの姿は見えない。
帰って、家でラブレターの最後の仕上げのために腐っていたジゾ君を外に連れ出した。観光だ。
「でも、俺、けっこう勝手に遊びに回ってたんだぜ」
「俺が連れて行きたいんだ」
車があったら乗せて行きたい。いざないたい。夏休みにでも免許を取ろう。今は何も持っていないから飯を食いに行くだけだけど。
ファミレスは嫌だと言うので別のラーメン屋に行く。夕方、これから飲みに繰り出す学生たちで駅前通りはやかましい。
「なんでこんなに人がいるのかって思わねえか」とジゾ君。「居すぎなんだよ」
「俺みたいのが上京してくるからな」
「もともと東京出身って奴も多いだろ?」
「新宿出身の友達がいる」
「俺さあ、あんまり、人が集中するの、ぜってえ良くねえなってホントは思ってて。色々見て回ったけど、どこ見てもこれは違うなって感じしかしなくて。おんなじ方向を向いてみんなが急いでるの、気持ち悪いよ。気付かないかもしれないけど。髪の毛の暗いおんなじような色がもぞもぞベルトコンベアを流れてるみたいでさあ。みんな似てるし、みんな、もっと速く行くことしか見てねえの。スタスタ歩いて脇目も振らさないで歩いて、電車やバスで全くおんなじ方向にむかって。気付いてないのかなあ、スピードに、呑まれてるって。ここには楽しいことは多いだろうし、こんなに速い世界があるって知っちまうと地元は退屈だよ。でも、やっぱ、これは俺はイヤなんだ。俺には間違ってるんだ。
おまえにはそうなってほしくない。ぜったい焦んなよ。言われるまでもないと思うけどさ。余計なお世話だよな。でも、染まりきらないでくれよ」
「なんか……それってさ、思いやりって、愛なの?」
「すげえ広い意味で、愛」
「愛ってなに? 猫がカワイイとかこの曲が好きとか、そういう愛は分かるし、友達のこと好きっていうのはあるよ。でもその次のステップが俺には無くて。ラブソングにさ、グッと来ることはあるよ。すごく良さそうだと思ったりもする。愛することがいいことなんだとは分かるんだけど、なんかどれもピンと来なくて」
「気にしてんの」
「けっこう、気にしてる」
「んん、でも俺は俺じゃん。おまえはおまえだろ。そんなんでいいんじゃねえの」
「俺もそうだとは思うけど、いや、聞きたかっただけなんだ。おまえ、すごいじゃん、会ったことない人に会うためにここまで来るって」
「そんなん、好きでやってるだけだよ」
と言いつつも、やはり誇らしげで、そういうことなのかもなと、言葉にならない結論に落ち着いてしまった。
「なあ、明日さあ」
とうとう明日だった。ジゾ君は言う。
「見ていてほしいんだよ。俺があのひとに会うところ。会えないかもしれないし、イヤなことも起きるかもしれない。けど俺がひとりで行ったら何が起こっても俺の思い過ごしか、夢にでもになっちゃいそうで。もう今更逃げらんない。だとしたら、誰かが覚えててくれないといけないんだ」
「その点は、問題ないよ」
俺は笑った。できることをやることにした。俺は見ている。覚えている。
「今書いてる歌、じゃっかん、お前のことだから」
「……なんだよ、それ、恥ずかしいなあ、やめろよ!」
「じゃっかんだから。マジで若干。でももし万が一いつかインタビューなんかされて、意味を聞かれたときにはバラす」
この歌がほんとうに実現するかも分からないし、俺が弾けるのかも分からない。
でも、やれることをやらないといけない。
若干友達の勇姿で、若干俺のまなざしで、生まれ変わったネコマイゴで、誰でもない『Drive to Pluto』。
「スピードには呑まれないよ。この歌は速度を振り切る。俺にとってはね。音速も、光速も眼中じゃない」
「次に来るときはライヴに行きてえな」
「次の帰省は凱旋ライヴかな」……嘘うそ、盆には帰る。正月も。