Fortuna Theatre

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 地下映画館を出たその足で例のゲームの遊技場へと向かう。フォボスはそこにいない。ぬるくけぶった暗い部屋で適当な卓に紛れ込む。杯・金貨の7、杖・剣・杯・金貨の8。ポーカーで言えばフルハウスのような役で、それが基礎点になり、さらにカードの「意味」が加算される。この加算の基準こそが、ゲームの参加者には明かされない占い結果ということになる。

 杯の7は雲の上の器から奇妙なイメージがあふれている。金貨の7は畑で金貨を栽培しているように見える。剣の8は束縛された人物。金貨の8は黙々と金貨を彫金する職人の様子。職人でもあるが、複製芸術を作っているようにも感じられた。杯の8は夜に旅に出る人の姿だろうか、後ろ姿が悲愴ひそうである。杖の8は枠外から杖がにょきにょきと生えているが、長さや幅に緩急があり、リズムを持っているように見える。

 カードが回収される前に、青野は出目をメモに残した。

 ここからストーリーを読み解くなら、杯の8の夜の旅立ちをはじまりにしたい。剣の8の束縛された人を旅人の心象風景として、これが空想世界であることを杯の7で示す。杖の8を杖にして、険しい道をリズミカルに乗り越えるだろう。彼は遍歴の末、金貨の8の職人に落ち着く。しかし金貨の7が余った。畑で金を増やせということか? ……株でもやれって?

 帰宅して適当に夕食を取り、再びカードについて考える。先のカードのなかで杯の8と金貨の8が深く印象に残った。夜の旅人と複製芸術家。星を描いた金貨はCDのようにも見えなくもない。

 夜は遅いがアパートの自室で今作っている曲のベースパートを練習した。細かなアレンジ箇所は除いて曲の大筋は固まったのだが、歌詞は依然手付かずで、そろそろメンバーにせっつかれていた。

 出たカードから歌詞を考えるのも悪くないかもしれない。それも運試しのひとつだ。円盤に複製されて作者の手元を旅立っていく夜の旅人は、Drive to Plutoと名付けた自分たちの音楽に重なる。悪くないのではないかと青野は思う。再解釈。過去から受け継がれるものと、引用されるもの、切り捨てられたものがある。引き継がれたとは気付かずに今も息づいているものもある。

 カードの写真を眺めていると、それらはいずれも一枚の静止した絵画というよりも、移り動く時間から切り取ったワンシーンのように見えた。描かれた動作はいずれも物語のなかの一場面なのだろう。特別印象的なワンシーンを切り取った写真のような存在で、物語のはじまりやエンディングはきっと別のところにある気がした。すると、カードは、映画のビデオジャケットみたいだと思った。カードとビデオジャケットの異なる点は、ビデオには実際に本編が録画されているところであり、カードに描かれた物語には記録された本編というものはない。

 物語があるのに本編がない点は、歌の歌詞にも通じると思えた。歌詞は恋の歌であれ自然をうたう歌であれなにかを物語っているけれども、詩はいつも出来事のある側面のみを──多くは印象的な心情の動きのみを──描いている。歌われた気持ちの抑揚は音楽の構成と結びついている。どんな歌われ方をするのかによって言葉の意味が変わる。つまり歌詞は音楽なくして自立できない。

 歌詞とは反対に、楽器は具体的な現象である。どんな楽器であれ人間の動作が起こす振動が、音というものである。早く弾くこと、苦しそうに弾くことといった、演奏のための動作や演奏者の感情もまた具体的な現象であると思う。

 歌う行為は声帯の振動を主とした現象だが、歌詞は現象ではない。歌詞それ自体が具体性をもってステージに立つことはありえない。歌詞はボーカリストの声から発せられるか、歌詞カードの上で文字に収められている。歌詞は存在しない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。いままで歌詞だと思っていたものは、歌い手の声の抑揚や音楽の盛り上がりや声音だったのだろう。歌詞に込められた意味については、発言された言葉がたまたま母国語だったりして聞き取れたから聞き取れたんだろう。意味を聞き取れない外国の歌でも、音楽という現象は楽しめるわけで。

 じゃあなんで歌詞なんて書いているんだというと、彼のバンドのボーカルを名乗るギタリストがなぜかボーカルのくせに歌いたがらず、しかし歌詞は書けと言うからであり、そもそも青野がメンバー入りしたのも歌詞を書けるベーシストだったからなのだが、それはまた別の話。

 歌詞は存在しない。存在するのは音楽のみ。しかし、それでも多くの人が、好きな歌を語るときのきっかけに歌詞の良さを挙げる。それは現象として音楽は具象・歌詞は抽象でありながら、音楽は言葉ではない活動だから語るということが出来ないからだろう。音楽を語る用語は存在し、音楽家は音楽用語で音楽の意見を出し合うが、音楽用語で論じられる音楽はいわば机上の空論であり、現象は伴っていない。つまり言葉での説明と音楽は常に異なる。そうなると音楽を語るとき、特に演奏技術ではなく感情のゆさぶりについて語るときには、歌詞に込められた感情を拠り所にするしか語れないのだろう。ある曲を聴いて「悲しい」と思う感情は、それぞれの楽器や声の調子によって生じたのだろうが、音楽の現象は言葉に表せないので、「このフレーズが良かった」と、自分がいちばん悲しく感じられたフレーズの歌詞を引用するのだろう。

 音楽は具体的に存在するが、触ることができない。歌詞は言葉だから手に取ることができるが、それは音楽を入れておく空箱である。

 そんな空箱を青野は作る。

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