ノート / コード

ノート

 金髪の少年には似合わない、ぼやけた、ピアノジャズが流れている。流れるだけで、意識を引き止める力に欠ける音楽である。レンガ風の内装と、煙草の小さな焦げ目が点在するテーブルと同じように、喫茶店の背景美術としてそこになる、JAZZの魂を失ったバック・グラウンド・ミュージック。荻窪から徒歩十分、閑静な立地のその店に、テーブルの数は十もない。

 この喫茶店の店主はひとりの老人で、店員はその息子らしき三〇そこそこの男だけだった。かわいいウェイトレスはいない。

「ケーキセットが美味しいんだよ。ベイクドチーズケーキか、オレンジを入れたシフォンケーキが好い」

 茫然と窓の外を見ていた少年を、向かいに座る、ハットを被ったオールドファッションな男が、ドリンクメニューで気を引かせる。少年の方は漫然とした対応である。一瞥して、「んー」気の抜けた唸り声を漏らし、「チーズケーキ」
 飲み物は?「あー……オレンジジュース」

 帽子の人物は微笑む。ここのオレンジジュースはきちんと店内で絞っている果汁100%の純正品だ。

「メロンソーダなんてあるけど? クリームソーダでもいい。僕のカネだから」

「あ……? あ、でも、オレンジジュース」

「オーケー」

 店員を呼びつけて、ケーキセット(オレンジジュース)、日替わりコーヒー単品を注文し、店に留まる準備が出来たところで、男はキャメルを咥えて火を灯す。煙が脳を洗っていく。吐息が独特の臭気を添える。マッチの着火から消灯まで、少年は見つめる。

「嫌いやった?」

「べつに」

 みんな吸ってるでしょ。ライブハウスで。それはいーの。でも、やっぱ嫌かも。わかんない。

 そう言う少年に男は同意を示したが、煙はもみ消さず、代わりに息を吐くときに顔をそむける。煙を吸うことでごく僅かに脳が麻痺していることについて、男は忘れないように努める。

 シャツの袖を伸ばす癖のある小柄な少年と、無精髭を生やして煙草をふかす彼の歳はひとつしか違わない。だから彼は少年ではないのだけど、小澤拓人の頭の中から少年の連想は解消されない。

 頭頂部に地毛の黒が残った詰めの甘い金髪と、真っピンクのパーカーの装いで、自分をネグレクトしたようにしか見えない痩せっぽちの「少年」。興味はあるが、深いことはまだ問えない。窓の外を眺めていたが、頼んでいたチーズケーキが来れば、目の前の甘いものに夢中である。ギタリスト・秋山聖のオフの営みを、小澤拓人は紫煙をふかして観察する。

 バンドから切り離して連れてきてみれば、電源の切れた彼はぼんやりとした焦点の不安な「少年」だったし、彼の類型──金髪も幼い容姿も痩せっぽちも、ロックンローラーのなかにごまんといた。しかし彼が深酒も煙草も他のものも決めたことのないクリーンであることに小澤は驚いている。

 ギターを持たせてシールドを繋いでダイアル回してスイッチを踏めば、電気を取り戻して彼は生き返る。皆が知っているのは音楽のためにステージに立っている電源ONの鮮烈なスターの姿である。
 足元に積み重ねた回路をシナプスで結んだ彼自身のVolumeを0にすれば、間延びした喋り方のこんな感じの人物が目の前にいる。

 自分については、と小澤は思う。歌う自分は歌わない時の自分の延長であると思うし、その逆も然りである。歌を作るときも歌うときも歌をうたわない日も逃れようもなく俺から生まれているのだと、小澤拓人は信じている。おのれの経路にいくつの抵抗とスイッチを設けているかは人それぞれ、と、この道を歩み出してから出会った同業者たちについて考察する。オンとオフの差は人それぞれ。二人の経路の相違を想像する。

「あ、えー、おざわくんさあ」と、ケーキを切り崩しながら少年が見つめている先は陶器の灰皿に縮こまった吸殻。「なんで今日、だっけ、えっと」

 ああ。「いや、あのね、聞いてみたいことがあってさ。フェスの楽屋じゃ互いに忙しかったし、都合もあったし、疲れてたし?」

「あの、『エミリー』よかったよ。あの、『ヨク』……『ヨクト』……」

「『ヨクナパトーファ』」

「なにそれ」

「町の名前だよ」

「わかんない」

 「ベンジー坊っちゃん」を思い出した小澤は連想を胸のうちに留める。

 白いフリルみたいな造形の皿の上、ベイクドチーズケーキのクッキー生地がフォークを入れる度に崩落する。秋山聖はときどき食事を立ち止まっては、手作り故にきめの荒いケーキの素朴さを認める。もたもたと食べる合間にもオレンジジュースの氷は溶けて色を失い、気付いた時には鮮やかな不透明色とかすかに白濁した上澄みが分解していて、彼は少し眺めてはストローでかき回し、また混ざったジュースのグラスを何か思うところがあるように見つめては、やがて飽きて口をつけ次の営みに移行する。見つめていること。この場には棘を抜かれたジャズが流れている。相手の脳裏には違う音楽が流れているのかも。

 作曲は彼だったっけ。作詞は誰だっけ。なんで歌わないの? 問いかけは声帯のずっと手前4、5ブロック目あたりで踵を返して立ち消えていく。

 連想が遊びはじめたころ、ケーキを啄んでいた秋山がふと目を上げて、見開いたギョロ目で彼を見つめる。

「おざわくんさぁ、とらないの」

 一瞬の放心を経た小澤には声から意味を導けない。秋山は自分の頭を指差す。

「帽子」

 それもそうだ。椅子に深く身を預け、煙を深く吐息する。

「完敗だ」口をついて出る。

 金髪の相手は首をかしげてオレンジジュースのグラスを持ち上げる。小澤の口の端が笑いで歪む。


コード

「誰がベンジャミンコンプソンなんて? 苦情が入ったんですよ」

「苦情? 誰が?」

「木の匂いなんてしない」

 と言うも、少し考え込む。するかも。蝉時雨に没頭していた夏の記憶を手繰り寄せる。

「苦情は本人から。あとで聞かれましたよ、『ベンジーってなに』『怒りと響きって言えば分かるかもって言ってた』」

「『Sound and Fury』だよ、向きが逆だ」

「聖が言ったんです」

 キャメルの灰を弾き落とす。今日は予めハットを取っている。

「なんとなく不安な意味は察したんじゃないですかね。馬鹿じゃないんだから、侮辱のようなことをされたに近いのは、分かりますよ」

 と、青野理史はミルクコーヒーの最初の一口に注意深く口づける。

 苦情により、今度は小澤が同じ店に呼び出された次第。

 言いたいことが秋山にあるにしてもそれは苦情と呼ぶ程のものではないとは互いにそれぞれ分かっているところで、口実つけて落ち合いたかったに過ぎない。共に、対話は苦でないタイプだったし、似通ったところが多かった。読書を好み歌詞を書く。違うのは、詞を歌うのが本人か否かだった。

「僕は上巻2章の途中で挫折して以来読んでないんで、ギリギリでしたね、分かってよかった」

「べつに、自分さえ良ければよかったんだ、俺だけが分かってればいい身内ネタやったわけ。それで、意味は答えてあげたの?」

「アメリカの小説の登場人物って言っときました、SIGNALREDSの歌詞は全部アメリカ文学が元ネタだって」

「そんなことない、大江健三郎も触った」

「歌詞のことは興味なさそうでしたけどね」

「でも彼だってはじめはシンガーソングライターだったんだろ」

「16、7、8の年頃をそう呼べるなら」

 青野がバンドに入って、秋山は歌詞を書かなくなった。

 今日の茶請けはベリーソースを垂らしたレアチーズケーキ。フォークはなめらかに乳白色の断面に分け入る。

 キャメルを吐息する。思い出す。「青野くんタバコきらい?」

「いや……分かんないですね。親父は吸ってたし、友達にもいますけど」

「うちの親父とお袋は絶対に吸わなかった、和菓子屋だから」

 初耳。

「小さい店だしせいぜい200年しか続いてないけど……言ってなかったっけ、俺ら京都。そんで俺、和菓子屋の長男」

 出奔してきた豆大福一族の息子は米文好きの読書家で、向かいに座っているのは床屋の長男坊のベーシスト。

「ま、だからって」身をよじり座り直し「フォークナー論を書きたいわけじゃない。あくまでも触媒だ。目的じゃないが、結果として、謝辞として、タイトルなんかに名残を残してるだけ。あと青野くん、敬語じゃなくていいから」たかだかひとつしか違わないんだからさ。

 青野は足を組む。「大した意図はないんですけどね」灰皿から煙が一筋立ち上ったまま。「癖みたいなもんですよ」

「ま、じきに慣れる」

「そうしましょう」

 詞を書く文筆家が静かに笑む。

「というか小澤さん、マッチなんですか」

「あ? そう、暇な時は頭の体操も出来るし」

 鳥の絵を印刷したマッチ箱をスライドする。

「ほら、マッチは、残り本数があるだろ? 着火回数を整数で数えられるんやから、ライターよりも、デジタルだと思わない? ま、これ、みんなに言って回ってんだけど……」

「あんま相手にされないんですね」

「そ! 井上なんかね、もう、死んだ魚の目よ。なにあいつ……」

 確かにクソくだらねえけど、俺もそういうの好きですよと打ち明けるまで、時間はたっぷりある。

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