講義前の空き時間にカフェテリアでブランチのラーメンをすすっていると「アオノ!」と彼女がやってきた。空が青い。緑が眩しい。五月の美しい陽気だった。
「映画観ませんか。選びませんか。何がいいですか」
「午後は講義つづきなんだ、さすがに出席しなきゃまずい」
「では夕方は、よいですか。どうしますか。それまで映画選びます」
「他に映画館に来る人はいないのか?」
妹は困ったように肩をすくめた。大きな瞳と困り眉にその大袈裟な動作、洋画のワンシーンみたいだった。
「そうです。兄、遊びに行って、お客さん探してる。アオノのほかには、来られません」
「きみはゲーム参加しないの?」
「だめなのです」と妹。「わたし勝ってしまうので、必ず。それはつまらないです」
「きみがディーラーなのか?」
「わたしルールしりません。ゲームはじめたのフォボスです。でもフォボスはわたしに勝てないので」
「俺とやったときはあいこだったよ」
「フォボスは、戦うときっと負けます。でも相手の手札を知りたいので、ゲームひらきました。それで映画も決めました。相手のフォーチュナを見て、相手の映画を選びます。しかしつまるところホラーを選ぼうとします。フォボスは、怖がる様子が好きなので」
彼女のほほえみは地中海風の面立ちがあった。はじめて会ってからさほど時は流れていないのだが、彼女の日本語が流暢になったことに感心した。
「アオノ、考え込みます。『ブラジル』で泣いてしまうなんて思わなかった」
「泣いてはなかったよ」
「泣いていましたよ」
われわれにはできないことです。彼女はそう言った。羨ましげにも、誇らしげにも見える。
講義室ではなく、図書館に着いた。
ギリシャ神話の解説書をいまいちど開いた。隣に天文図鑑も置く。
軍神アレースは美と愛の女神アプロディーテーとの間に三人の子供をもうけている。男きょうだいはフォボスとダイモス、女きょうだいにハルモニアーがいる。
フォボスは恐怖の神となっているが、もとの意味は「敗走」らしい。そこから戦闘の混乱、狼狽も意味づけされ、ダイモスと同じく恐怖を司どるようになったそうである。ハルモニアーは調和(harmony)を司る女神だ。
アレースは火星と同一視された。アプロディーテーは金星を表し、ローマ神話に翻訳すればヴィーナスになる。戦の神と美の女神から生まれたのがハーモニーというのは興味深い。
闘争と美が愛し合うとハーモニーが生まれる。例えばスポーツやレースの緊迫感や、それこそ音楽のセッションはまさにハーモニーであると思う。
あの兄妹がギリシャ神話の神々の子だと仮定すれば、兄は「敗走」を司るフォボスで、妹が「調和」のハルモニアーなのだろうか。フォボスとダイモスは火星の衛星に名付けられたが、ハルモニアーという星はまだ無い。
星々の名前を持った人が互いに引かれ合っている。火星の衛星を名乗る兄妹に、たまたま冥王星という名前のバンドを組んでいるから付き合う、そんな現状はかなりパラノイアがかかっている。レーベルの社長・木場太陽は自分が太陽だと言い張り、素性不明の外国人兄妹は火星の衛星を名乗っている。それを茶番と一蹴した方がマトモな人間なんだろうと青野は思う。
彼は茶番に付き合ってきた。だってその方が面白いから……という悪ふざけ心もないでもないが、もっと自然に気取らない気持ちで、こんなことを常に考えていた。
──ま、こんなもんだろ。
それに、友達ができるのは楽しいことだと信じている。
夕刻、ふたたび映画館を訪れると、兄妹そろって座席に座っていた。
「ハーデース、怖いのが嫌いと、妹が言います」
「アオノ音楽をやっていますね。兄が言いました」
「ハーデース、われわれはあなたの知ることを知りたい」
「アオノが思うような映画を選びました」
出されたコーヒーを受け取る。一口飲んで、他に誰もいない地下映画館を眺める。「お客さんは集まらないんだ」
「急ぎません」と兄が言う。「まずあなたと決めたんです。ハーデース。そしたら我々の参考にもなる」
「映画はひとりで観るものです」と妹も言う。「映画館はひとりになるための場所です。映画ははじめそうでした。映画は映写機の発明される前までは、箱のなかをひとりで覗き込むものだったのです」
「映画は独りで観るものです。独りで思う時間です。なので恐怖映画と言われているものとそうでないものを選びました」
「今日観なかったものは明日観ようと思います」
「感想を聞かせてください」
候補作は『ジェイコブス・ラダー』と『トゥルーマン・ショー』。前者のジャケットは、暗闇に慄く男の顔。後者はおだやかに眠る男の顔だが、彼の様子は彼が知らぬ間にライブ放送されていることが分かる。
「どっちもホラーなんじゃないのか」
「いいえ、片方はコメディです」
「でも結末は同じですね」
「はい、改善する物語です」
「どっちから観ればいい?」
「笑えるほうがいいかもしれません」
といったやりとりで『トゥルーマン・ショー』が上映された。
一人の人間の人生を本人に黙って「物語」に仕立て上げ、娯楽番組として放映する──コメディ作品とはいえあまり気持ちのよいコンセプトではない。主人公は生まれた時からセットの街に暮らしていて、人生の節目も妻や友人も自分が選んだものではなく、番組の筋書き通りに作られている。主人公は自分が「作品」であることを知らない。ある日セットのほころびを偶然に発見した主人公は、世界が作り物であると疑いはじめる。
この世界が本当に作り物ではないと言い切れるのだろうか。自分の出会う人々があらかじめ用意された俳優ではないと証明する方法なんてあるのだろうか。
「世界五分前仮説とかを思い出したよ」
人間は過去の経験をもとに世界を知覚している。たとえば彼は、物心のついた頃から「青野理史」と呼ばれてきた二十幾年間の記憶があるから、自分は青野理史であると認識している。十代の頃から練習してきたから楽器を演奏できる。しかしその記憶が二十幾年の蓄積ではなくつい5分前に植え付けられたものだとしたらどうだろうか。記憶どころか経験も、ただ情報としてインプットされただけなのかもしれない。己の記憶が植え付けられた虚偽であることは、誰にも証明できないし、反駁することもできない。
「『トータル・リコール』などあります。シミュレーテッドリアリティ」
「夢の中ですね」
「クリエーターの頭の中で作品がもがいているような映画だった」
主人公は外の世界を目指し、番組スタッフの追跡を巻いて船で外洋へ漕ぎ出した。番組制作者はセットの天候を操り、海上を大時化に変えて主人公の行く手を阻む。これは創造主に対する自由意志の戦いなのだ。
そして主人公は、世界の果てに辿り着く。この世界の空はセットを覆う巨大なドームの壁だった。青空が描かれた壁には外界へ通じるドアがあり、主人公は扉を出ていく。
「扉の前で一礼をするのは良くなかった」と青野は語る。「カメラに向かって礼をしたら、彼がまだエンターテイナーのままになってしまう。彼はもう作品じゃないんだから、誰の目も気にしちゃいけないのに」
「カメラへ向けての礼ではないかも」と妹。「お世話になった人への礼です」
「皮肉かもしれない」と兄。「これが最後のショーであるって」
創造主からの独立を描くこの物語は、作品が作者から自立するさまのようにも目に映った。
扉の外の現実世界は曇ったきたない世界かもしれない。でも、海の果ての青い虚空に、青空と同化した小さな扉が浮かんでいる光景は忘れられない。それだけは確かに美しい光景だった。