分棟の地下、倉庫同然の薄暗い小講義室にベースキャンプはあった。
大学キャンパス内の誰にも使われずに忘れ去られた部屋を勝手に占領しているようだった。青野の在籍する学科では、1・2年次と3・4年次で講義に使うキャンパスが変わる。よって進級したばかりの彼に施設内の土地勘はない。年季の入り方が他の校舎と異なる分棟に辿り着いた時は、よくもまあこんなところに陣を張れたものだと少なからず感動を覚えた。邪魔者は誰も来そうにない場所だった。
室内は50席ほどの座席が並び、前方にスクリーンがある。座席の背にはブランケットが無造作に積まれ、ペットボトル飲料が長机に並び、電熱線コンロで即席麺を茹でた痕がある。照明はすでに薄暗いオレンジ色に絞っている。
彼女の兄だという例の青年がプロジェクターの映像を調整していた。帰還した妹を見てニッコリ微笑む。今現在も妹は青野に手を絡めたままだ。
「おかえりなさい。どうですか妹」
どうもこうもない。「ここまでどうも」目を泳がせて答えると、妹は素直に嬉しそうにしてくれた。
「ハーデースやさしいから」と妹は答えた。
「地下で待ってる」兄は手を止め、青野と妹に向かった。神話のなかの冥府の王と一緒くたにされていることを指摘する暇はなさそうだった。
妹は青野を連れ立って、小講義室の前方に置いた電熱線コンロで、熱で炒るインスタントのポップコーンを作りはじめる。
「それ、ポップコーン、作れますか? コーヒー? オレンジ? ドリンクバーです」
「ここは映画館ってことか」
「映画はポップコーンなのです。そう読んだので。映画を見ます」
クーラーボックスに溜め込んだ飲料はたしかにファミレスのドリンクバーに似ていた。湯沸かし器もあったのでドリップコーヒーを淹れてもらった。アルミ容器のフィルムの中でバター味のポップコーンが爆ぜる。どうしたものかと青野は考えて、「お二人はいつからここに?」と、兄妹に質問。
「いつでしょう」と兄が言う。「すぐ近くでした。本当に。ゲーム楽しかったです。来てありがとう。お話したかった」
「兄は喜んでます」
「妹も嬉しい」
照明が落ちる。スクリーンを照らす青い光を頼りにして、青野は座席に移動する。兄妹は青野を挟んで、並ぶ座席の中央後ろ寄りに席を取った。
──映画ねえ……
映画は好きでも嫌いでもない。というかさほど観た覚えがない。劇場にも足を運んだ回数も、人付き合いのためにほんの数回といったところだった。
ただ、思いがけず招かれた地下映画館での上映は、これもひとつの経験と受け入れ付き合うことにした。
バンドを組んでから、妙なこと変なことばかり起きる気がする。自分たちの変な音楽性のせいなのか、東京という土地が椿事を呼ぶのか、まったくたまたまの偶然か思い過ごしかは分からない。しかし火星の衛星を名乗る兄妹に、冥王星の名を借りたバンドマンは少なくとも縁を感じていた。
兄妹の彫りの深い顔に影が落ちる。影の中で眼球が濡れて輝き、客人をしっかりと見つめる。
「お話したいんです、ハーデース、そしてあなたの思うことがどうなるかを」
映像はキリル文字のタイトルロールから始まり、暗闇に『Солярис(ソラリス)』の文字が浮かぶ。ヨハン・セバスチャン・バッハの電子音楽が流れたのち、たゆたう水の流れと鳥の鳴き声で映画は始まった。
そうして、絶海の孤島で物語は幕を閉じた。
寝てた。
覚えているものは、太陽光を透かして柔らかな薄青色の水面のゆらぎ、大きな瞳のせいで少年のような面影を残した男が苦い弁舌をし、彼を乗せた車がモノクロームフィルムの首都高三宅坂JCTを走る光景。宇宙基地で妙に鮮やかな青い服の少女が視野の隅を走り、あとはストーリーも光景も不確かに薄れる。ときどき海を見た。男女がいた。
眠った時間がどれほどなのか曖昧である。ほんの5分、長くても30分うとうとしていたと思っていたが、実際、5時間以上熟睡していたらしい。というのも気付いたときには映画も終わって夜遅く、目覚めたばかりの瞼の重みが、眠りの深さを暗に語っていた。
「いま何時?」
兄妹の妹がニッコリ。「1時です」
驚いて時刻を訊き返す青野に、「0時42分ですよ」と兄の方。
眠り続けた身体はまだ重い。「起こしてくれなかったんですか」
「とてもぐっすりとお眠りなのでして」
「鍵も門も閉じてしまいました」
守衛は来ないのか、終電過ぎたんだけど、朝までどうするのか、色々と切り出したいことはあったが、座したまま昏々と眠り続けていた疲れと、長すぎた午睡による目の冴えで、椅子に座ったまま立てなかった。
今の映像は何だったんだろう。何が夢で何が映画だったのか、あいまいな記憶が重なり合う。海の情景は気になった。気に入ったというよりも、気がかりを覚えて記憶に残った。何かごく身近な場所の見覚えがあるような気がしてならない。しかしそれも、いつか見た夢のなかのワンシーンと映画を混同しているせいかもしれない。
呆然としている様子を見てか、兄が語りかける。
「何の映画でしたか?」
「え?」間抜けな声で訊き返す。兄は笑う。安楽椅子に座って質問をされるのは、自分が診断されているようだ。
「何が見えましたか?」
その問いかけは映画の感想を聞く目的より、占い師とのやりとりを思い出させた。
「海……。水の映像と、首都高と、宇宙ステーション?」
「そうです、惑星ソラリスの海は意味があり、海がハリーという死んだ妻の贋者を作り上げます。クリス・ケルヴィン、心理学者、が架空のハリーに接します。架空のハリーは己がハリーではないこと知っていて、自殺しますが、架空のハリーなので生き返ります。クリスは地球に帰還せず、海が練り上げた架空のハリーを選びます。クリスは地球に生きるより、幻想見せるソラリスを選びます。すべて海に覆われた架空の地です。決意であり失うことです」
そう聞くと、最後に夢うつつに眺めていた、海に取り残される光景が思い出された。
そうして疑問を思い出す。「それで、なんでこの映画を?」
「フォボスもっと怖いの良いと思いましたが、ハーデースは分からないので」
「そうでした」笑みを浮かべながら彼が広げたビデオは『オーメン』『エクソシスト』『ペット・セメタリー』『シャイニング』。全て恐怖映画ということは分かる。パッケージを読み比べて、「怖いのは嫌だな」と愛想笑いで返す。
「『ペット・セメタリー』、猫です。愛らしい」
墓地に猫がいるジャケットだ。「猫はちょっとなあ」
「猫が嫌いですか?」
「好きだからダメなんだよ」
「そうです、フォボス、フォボスの映画見せてるだけ。ハーデースごめんなさい、フォボスは怖い映画を見ます」
深夜1時を指す時計を見て、眠気に代わって空腹が意識を占め、食べ物の有無を尋ねた。差し出された日清カップヌードルには箸ではなくフォークが添えられていて、なにか異国情緒に近いものを感じた。
兄妹の隠れ家の地下映画館は、客席の隅にタオルやブランケットを干していたり、シーツで二人が眠ったであろう痕跡とともに、椅子の上や教卓にはビデオのジャケットが――先に見せられたような、所謂「娯楽作品」ではないものばかり――並んでいた。いったいどこで入手したのだろう。問おうにも、真意不明な微笑でもってごまかされて終わってしまった。
「フォボスとわたし、映画観たかったんです。映画みんなに観てほしいのですが、ここ人がいません。ハーデースはじめての観客さん。『惑星ソラリス』疲れてお眠りでしたが、もっとハーデース好きなの選びます。映画観ましょうハーデース。今日はあと二作観れるでしょう」
妹は教卓から2本を選び、青野に示した。
「フォボス怖い映画ばかり。ハーデース、サイファイのほうが好きでしょう」
そうして妹が持ってきた候補作『プラン9・フロム・アウタースペース』と『未来世紀ブラジル』を見比べる。タイトルといいアートワークといい、どっちもどっちな気がしてならない。うーん、と迷うふりをしつつ、青野は「ハーデースじゃないんだ」と兄妹に切り出す。「まあ、名前で呼んでほしい。青野っていうんだけど」
兄妹は顔を見合わせる。
「呼びにくいですね」と兄。
「アオノ?」と妹。
自己紹介をしたのは兄妹の本名を聞きたかったからでもあったが、彼らが名乗る気配はない。「とにかく、青野って呼ばれた方が俺はいいな」それで半ばむりやり話を飲ませる。
「ハーデース、こだわることではないのでしょう」
「アオノ、映画、どちら観ます? ほかもあります。夜が明けるまでまだ観られる」
どっちもどっちのようでいて実は全く質の異なる2作から、青野が先に選んだのは悪名高きハズレ映画だった。