『Solarfault, 空は晴れて』

水底の街について

1 2 3 4 5

「――もしもし」

「もしもし?」

「……」

「会えなくても、電話ぐらい出てくれてもいいでしょ?」

「あなただとは、思わなかった」

「……」

「どこか遠くからかけているの? 声が遠く……水中みたいにくぐもっている」

「遠くにいるのはあなたの方だよ」

「でも、もう帰ってきたよ」

「分からない? 分からなくて大丈夫。あなたがすべてを受け止めるまで、わたしはあなたを覚えていて、あなたはすべてを思い出し続けるから。あなたは何からも逃げないし、あなたは何も忘れない」

 

 ぽつりぽつりと月の行方に青は点在した。微量な滲みのようなときもあれば、べったりと広がっていることもある。何かを引き摺ったような跡もある。一歩一歩追いかけていくと、青色は狭い路地に通じ、そこにはっきりと青い足音が残っていた。

「他に誰かいるのでしょうか」

「無いとは思うが」

「さ迷っているのでしょうか」

「うちの連中とも考え難い」

「迷子でもなく関係者でもない?」

「……不審者?」

 月はさっと光を見あげる。光は幾分かルクスを落とし、声も潜める。

「さすがに報告すべきなのだが、此方も実を言うと派遣の下請けの癖にサボりであたりをうろついていたところあんたを見つけたくちなんだ。あんたを送り届けたらさっさと証拠隠滅しないと此方の立場がかなり危うい。もしもあれが良からぬものだとしたらこっちの手には負えない、だから上に任せる。引き渡すときにあんたがいるとする、するとだ、恐らくあんたも消されるだろう。あんたもなかなか異分子なんだ」

 月は足跡を見つめ考え込む。

「あれは完全に無視すべきだ。しかしあんたの行先で鉢合わせないとも限らない。このまま足跡を追いかけたとして、出食わすとも限らない」

「この人が悪いものではないとしたら?」

「実はといえば悪いものよりも良くも悪くもないものが一番恐ろしい。怖いのは空っぽの存在だ。空っぽを伝達する粒子はない。空っぽには何もしてやれない」

「わたしはどうすればいい?」

「立ち止まらず歩き続ける」

 カチッ

 月は足跡を追って踏みだす。

「……マジかよ?」

 光が月を照らし、ともに薄暗い道に入る。

 青い足跡は一定の歩調を刻む。それは月の歩幅とよく似ていて、月は相手のリズムを掴み始める。足跡は単一の人物が残したものらしい。確かで黙々とした歩調であったが、ときおり足を引き摺った後や、はじめに見たような生乾きの巨大な滲みが点在した。未だにこの液体の正体が分からない。不安は拭えないがこうなれば行きつく所まで追いかけようと腹をくくって足跡を追った。足跡の主は大通りを避けて裏道ばかり選んでいるらしい。やはり月と同様に道に迷った人かもしれない。

「迷い子、あるいは風景の一環かもしれない。生き物ではなく、街のモニュメントのようにただ存在しているだけの存在。意味を持たないただの風景。足跡はあれど実体のないもの」

「だとしたら光が知らないのも頷けます」

「でもこんなのあったっけなあ」……「此方もさまざまな照明を照らしてるから、あまたの回数の記録にまぎれて見当がつかないだけかもしれない」

「光の本職ってなんなんですか?」

 訊くと光はちらつき口ごもる。他人に語れないらしい。逡巡ののち、ぽつりと「照らすこと」と呟いた。

「誰も歩かない夜道でもひとりで立って見守っていること。関与せずただ見届けること。光は演出を行わない。光は物語らない。だから本当はあんたと喋っちゃいけなかった。こっちはただ照らし続けるだけなんだ」

「それは孤独な仕事ですね」

「それは言えない」

「あなたの他にもあなたみたいな明かりは存在するんですか」

「それは言えないし分からない」

「本当はここではない場所があなたの管轄なんですね」

「言うことはできないがそれが正しい」

「今まで一番きれいだった場所は?」

「本当は何もかも伝えてはいけない。断言はできない、けどまあ言うよ。でもなんだって好きなんだ。照らした場所は全部好きだった。街の広告灯も宅地の公園の街灯もありふれていて、ありふれていたから愛着を抱いた。製鉄工場の常夜灯も最終電車の車内灯も好い。たったひとりでも零人でも、たしかに明かりを求める者がいた。崖っぷちの寂びれた白い灯台のフレネルレンズもすごく良かった。映写機やプラネタリウムは滅多に回ってこなかった。

 でも今までで一番美しかったのは水底みなそこの街だった」

「水底の街」

「すべて静かに水に沈んだ街。雲間から天の太陽が差し、水面を透して覗く青空は霞みなく、明度も陰影も屈折して何もかもがそれらの色のままに鮮やかだった。空気よりも透明な水面の膜が天高く揺らめいていた。水面に屈折して光の輪がいくつも生まれて街に落ちた。微風に揺れて歪む建造物の像。それもサボりの散歩途中で迷い込んで見た光景だ。あれ以来二度と見ることは叶わなかった」

「それって」、月が言いかけるのを、

 カチッ

「待て」張り詰めた声で光が制する。

 行く手のビルディングに何かが立ち入るのが窺える。遠くて姿はよく見えないが、あれが足跡の正体らしい。

「追いついた」囁く光に月は頷く。

「どうする月くん、行先を変えるならここが分かれ目だよ」

「見届けます」

「見届けることがあんたの役割なの?」

「わたしもあなたも乗り掛かった船です」

「転覆しかかった船かもしれない」

「それでも見届けたいんです」

 その建物は古いマンションなのか雑居ビルなのか、灰色の外観に蔦が這う七階建ての造りだった。

 月を光が照らし続ける。その声音は今までと変わって鋭い。

「奴の為に見届けようとしてるんじゃないか? あんたは義務を感じてないか?」

「義務?」

「導き手になろうとしてないかってこと」

 月の理解が追いつかず、言葉に詰まって黙る。光は言う。「つまり、あの足跡の主を正そうとしているんじゃないか?」

 月は言う。「義務感として?」

「そういうことがあってはいけない」

「それはわたしではなく光の義務だから?」

「此方の役割はただ光を照らすことだ。でもそんなことは生き物が義務にしていいことではない。生き物が別の存在の為に身を尽くすなんてあってはいけない。自分のために生きるんだ。他人の為にあんたを消費するのは絶対に駄目だ。誰かを導こうなんて思うな」

「そんな意図はない」月はただ行先を見つめる。「そういうことはしない」

「うん」

「ただ自分の行先を見届けたいだけです。ここまで来たんだから」

「いいよ、あんたが歩いた道だ。でも約束して。あんたには、何の、意味も役割もない。自分のために見届けるだけだ」……「そしてこれからも立ち止まらずに歩く」

「ありがとう」月は囁く。

 入口のガラス扉のノブにはあの青がべったりと滲みついていた。月は手に触れないように気をつけながら、ドアを押し開けて中に立ち入る。

 

「ねえ、あのこは君の差し金?」

「ディナーに呼んだのはあなたの方でしょ?」

「歯車は君が与えたんだろ」

「そう? きっと似合うから」

「ぼくのどんなことを話した?」

「あなたが善い人だって教えてあげたよ」

「……どこがだよ」

「善い人だよ。とても馬鹿正直。物事を厳密に考えすぎる。同じことをずっと繰り返し責め続けている」

「……」

「でも、わたしを征服したのはあなた」

「……」

「怒ってないよ。わたしは。あなたのこと全部受け止めている。あなたが思い出したくないこと全部わたしが覚えていてあげる。わたしはあなたの指先ひとつまで全部覚えていてあげる。何をしたかは問題ではないの。したことをひとりで後悔して忘れようとして、あのことだけでなくわたしからも目を逸らすあなたを決して許してあげないだけ」

「本当にあれが本当のことか分からなくても?」

 

1 2 3 4 5

シェア・感想を投稿

本作へのご感想をいただけるとたいへん励みになります。

『Solarfault, 空は晴れて』
目次

「Solarfault」

「空は晴れて」

  • fault

PAGE TOP