『Solarfault, 空は晴れて』

水底の街について

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 屋内にも足跡は生々しく続いている。壁に手をついて歩いたらしい、かすれた手形も残っている。慎重に突き当たりまで進むと非常階段へ通じる扉がある。緑の人物が逃走するマーク。あの人物はこの先に向かったらしい。

 不意に頭上の蛍光灯が切れた。かと思えば少ししてまた明かりは点いた。「あれは最上階に行った」と光。一足早く様子を見て来たらしい。

「何をするつもりでしょうか」

「意味なんてないのかもしれない。あれがあんたの方に属しているのか此方側の存在なのかも定かではない。目的も理由も無く、ただ存在しているだけなのかもしれない。生きたり死んだりしない存在。そういう象徴なのかもしれない。どっちみち、まっとうな生き物のやることじゃない」

 月は重い金属扉を開ける。青白い光に照らされて、目に映るのは生々しい青い足跡。擦れた手すり。ときおり真っ青な水溜りもある。

「……声を潜めた方がいいでしょうか」

「あんたの沈黙も此方には聞こえる」

 続く足跡を茫然と見る。月はある仮説への確信を深める。

「この人は怪我を負っているのかも」

「するとこれは」

「出血」

 月は考える。「深い傷を負っていて、喀血しながら歩いてる。どういうわけか青色だけど」

 足跡を踏まないようにして月も非常階段を上る。七階は遠く、足跡の主が手負いだとしたらかなりの苦痛が想像できる。しかしなおも彼は歩かなければならないらしい。そしてわたしも歩かなければならない。

 歩くたび、階を上るたびに、カチ、カチとあの音がする。これが歯車だとしたら、一体どこの何のための機構に繋がり回転しているのだろうか? わたしの歩調を数えるように、音は等間隔に鳴り止まない。わたしは何か大きな仕掛けの一つの部品なのだろうか? 知らない間に役割を担ってこの場にいるのだろうか? わたしが歩いた動力はどこに繋がり何を回しているのか? わたしは利用されているのではないか?

「光」

「どうしたの」

「何を動力に光ってるの?」

「言えない」光は繰り返す。「そういう巨大な仕組みなんだ。我々には役割がある。役割がなければ生きていけない」

「光」

「……」

「ついて来てくれてありがとう」

「……そういう仕組みで役割だから」

 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。

 五階を過ぎるとわたしも光も押し黙った。息が切れてきたが立ち止まることはない。一歩一歩踏みしめて歩く。足の疲労と喉の渇きを覚える。光はかすかに瞬いている。六階。踊り場を満たす巨大な水溜りに息を呑む。わたしは迷わず青色を踏み抜く。染まる足。青い足跡。耳元に囁くあの音は今やわたしの歩調と完全に同期している。最後の段を上ると、七階の廊下を縦断する足跡が残されている。突き当たりを曲がるとRの表示。階段に続いた。夥しい青。

 息を呑む。立ち止まってはいけない。

 

「本当と虚偽のあいだに広がる谷をあなたはとても恐れている」

「きっとそう」

「自分にともなう虚実についてあなたはとても恐れている」

「そう」

「見たもの、触れたもの、感じたもの、書いたもの、全部幻想かもしれない。脳に焼きついた記憶だって所詮は電気信号に過ぎない。眼球を通じてみた世界は決して世界そのままの姿ではない。赤色だって信じ込めば緑の物も赤く見える。自分の身体を信じられない。自分の意識を信じられない。自分はそこにいなかったかもしれない。不在感がする。身体がからっぽ」

「きっとそう」、だから助けてよ。

 向こうから声がしない。

 

 扉を開ける。天頂は驚くほど深い青い青空、一方で地上は暗く、都市の夜景が輝いている。自らが立つこの屋上がとても七階の高さとは思えない。非現実的な摩天楼のような空を削りかねない高さ。非現実的に深すぎる地上の街の色。天も地も深海めいている。ここはどこだろう?

 広がる足跡の一番向こうに彼がたった一人で立っている。屋上を挟んで縁と縁に二人は立つ。彼は片手を手すりにつき、もう一方の手を胸に添えている。より注意深く見つめていると、彼のディティールは突然ぼやける。画面のノイズの向こう側にいるように、ダイヤルを回しても一向にピントが合わない顕微鏡のように、見定めようとすると彼の姿は途端に像を結ばない。測り知れない理由で二人は隔てられている。特に首から上にかけてゆらぎが甚だしく、人相も表情も窺えない。胸のあたりから青いものが滲んで足まで滴っている。左胸である。顔のない彼は月を前に動かない。ただ互いの有様を見つめている。

「森澤さん?」

 不意に月は尋ねる。顔の無い彼はうずくまり、足元にえずく。生々しい青色が光を反射してぶちまけられる。地上の夜景のすべての明かりがゆっくりと明滅する。誰かが主電源を操作している。

 月には特別な確信はなかった。名前を呼んだのは自分だったが、彼が森澤晴記とは信じていなかった。ただ、近しくはないけれど、彼とはどこかで出会った気がした。ノイズを通じて、彼ではない誰かの面影を見た気がした。それがゆらぎに阻まれている。彼はこの世界のノイズなのだろうか? 思い出せないということはノイズに等しいのだろうか? わたしの存在もやはり、彼にとってはノイズなのだろうか?

 わたしは一歩前に踏みだす。彼は頭をもたげて物言わずわたしを見る。一面に足跡が広がる。彼はわたしが現れるまでここで何をして/待っていたのか?

 彼は背筋を伸ばし、胸を押さえていた手を下ろす。途端に色が湧きあがり、彼の身体を伝って流れる。彼から溢れた大きな水溜りが屋上を浅いプールのように満たす。わたしは足を踏み入れる。枯れることなく青色が広がり、白い物も黒い物も一様に染め上げる。何もかもがひとつの色に回帰していく。歩くたび靴が水面にさざ波を立てる。そうしてわたしは彼のすぐ目前に立った。彼はとても静かだった。とくとくと胸から色が溢れるのを一切押さえようとしない。階段を昇りつめて、何かを諦めたのかもしれない。彼の背後には明滅する街の風景が広がる。彼は投身しようとしていたのではないか?

 理由は知れないが、わたしは彼に同情している。違う。同情ではなかった。わたしは彼を慰めようとも救おうともしていない。寄り添うこともしない。してやれることなんてひとつもない。わたしは彼を見届けようとしている。どこかで終わりの訪れを予感している。

 ゆらぎ続ける彼の姿は直立しているのかよろけているのか、それさえもあいまいに両方映る。深いブルーが泉のように彼の内側から湧き出でて滴る。

 さざ波に似たざわめきが四方から聴こえ始めるのを自覚する。溢れる色と同じようにざわめきが無音だった場を満たす。どこからか、というよりも、頭の中で鳴っているように思える。わたしの中でざわめいている。彼が俯く。今まで聞いた環境音の全てが混ざり合って同時に静かに響いているみたいだ。個を判別させないたくさんの音響。

「大丈夫ですか」わたしは問う。

「枯れてしまいませんか」

 答えない。

「止まらないんですか」

 答えない。

「わたしは別に、答えを聞きたいわけではないようです」

 ぐっしょりと色に濡れた彼の足もとを見つめる。未だ彼の水溜りは屋上を浸蝕して広がり続ける。足跡はどれもすっかり浸ってしまった。問答を重ねてざわめきは最高潮に達する。

「苦しいですか」

 そっと、彼の手が襟元を緩めた。冷えはじめる空気。予感。

 冷たいものが一滴落ちる。

 真っ青な空から雨粒が落ちる。にわかに本降りとなり、屋上に立つ二人は雨に打たれる。屋上に湛えられたブルーの水面を色の無い雨がまだらにぼかし、排水溝は雨水ごと色彩を呑み込む。薄まり水位を増した色水は屋上から溢れて街に流れた。彼から流れる色も際限なく流れた。彼は、茫然と、流れるままの光景を見ていた。胸元を撫で、色のついた指先をじっと眺めた。この街に降り注ぐ雨が、ここで失われたものを充填していくように思えた。ざわめきは雨が降る音だったのかもしれない。初めから予感されていたのだ。

 雨に打たれて彼の輪郭がはっきりと浮かび上がった。大粒の雨が叩く。血も汗も流される。

 彼は振り返り数歩歩く。足跡は依然青いままだが、雨に濡れて滲み、踏みしめたそばから色は溶け失せる。手すりに手をかけ、街を上から見つめている。雨が降り続ける。月は右耳に手を添える。歯車はきちんと耳朶に貫通している。上空は霧のような降雨に遮られ、街明かりはボケて輪郭を失い、大きな明滅のリズムが地上を満たした。雨が降っている。止めようのないことだ。

 折り返し地点に達したことを悟る。

「帰ろう」と自らに告げる。

 

 あなたは次の行を追う。

 

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『Solarfault, 空は晴れて』
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