『Solarfault, 空は晴れて』

水底の街について

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 夜遅い急行電車は混雑こそしていなかったがロングシートは満席で、月はドアの隣にもたれて立った。見つめる窓ガラスには自らの姿と街明かりが重なり合って映っている。光は進行方向から現れて後ろへと遠ざかる。流れる。電車は揺れ、轟音をあげて疾走し、幾度も駅を通過する。頭上の蛍光灯がちらついて月は顔を上げた。が、さして気にならず、視線は再び窓の外へ向かう。等間隔に訪れる振動が月を揺らす。自然と瞼が下りてくる。目的の駅はまだ遠い。

 

 森澤晴記は道中のコンビニでスプライトを買い足した。少し歩いては立ち止まり、思索をしては歩みを緩め、帰宅を惜しむような歩調だった。この夜道を永遠に歩いていたくても、彼はやがて自宅に辿り着く。アパートの鍵を開けて明かりを付け、スプライトを一気飲みすると、色々なことを思い返しながらその場に自然と倒れ伏した。

 

 月が目を開けたとき車内はもぬけのからだった。乗客は皆降りたのか、あるいは忽然と消えたように、誰の気配もしなかった。立ち上がってあたりを見回すと、隣の車両にも人はいない。そして自分が座席に座っていたことと、電車がまだ夜の街を走り続けていることを知る。月は手荷物を確かめる。鞄は無くなっていなかった。頭上の蛍光灯は事切れそうにちらついている。

 車庫行きだろうか。終点から折り返しているのか? 分からないが、どこかに停車するまでは何もできないのだと腹をくくる。夜の車窓は暗く速く、現在地を判別させない。

 やがて車両は大きな川を渡った。月は窓に顔を寄せて外の暗闇を凝視した。石炭袋のように真っ暗な川を渡す鉄橋の薄水色の梁が車内の明かりで伺える。河川に沿って立ち並ぶ街灯が水面に落ちて光線を描く。これは路線上のどの川だっけ? 覚えがあるような無いような手掛かりに月は思考を巡らせる。高架を走る電車はやがて減速し、駅の青白い明かりが見えてくる。川を渡るということは自宅の最寄駅を過ぎてしまっているようだし、反対方向に乗り換えるためにとにかく降りようと月は決意する。停車し、片側のドアが一斉に開き、月は無人のホームに降り立つ。駅名を知らせる車内アナウンスは何もなかった。

 ホームは森澤晴記の最寄り駅に印象が似ていた。高架の上の二面二線の対面ホームで、これといった特徴がなく、即ち風景の掴みどころがない。いつの間にか電車は去って、線路を伝って光の点が取り返しのつかない速度で遠ざかるのが見えた。あれが最終電車だという確信がふつふつと湧きあがった。根拠のない直感に過ぎないが、この夜遅くに月を滅入らせるには十分だった。

 月は途方に暮れ、とりあえずホームのベンチを目指した。場内は青いLEDに照らされて明るい。その意味を月は知っている。ホームはゆるやかなカーブを描き、さして広い駅舎ではなく、駅ビルらしきものも周りにはなく、どうやら乗り換え駅ではない。取り立てて特徴のない光景だった。

 一日分の疲労感を覚え、ベンチに深く座った。携帯をどうやら森澤家に置いてきたらしい。困った。朝一で取りに帰らなくては。暇を潰す道具もないから、とにかく夜明けを待つことに決め、座したまま目を閉じて眠ろうとした。だが何かが気に掛かり、月は俯いていた顔を上げた。こちらと向こうのホームの屋根同士の隙間から夜空が窺える、その無の空間を月は眺めていたが、異様さに気付いて途端に疑念を抱く。夜空は真夜中の闇色ではなく、夜明け前のように深い青を呈していた。

 気付くや否や、 カチッ あの音がする。

「電車来ないよ」

 声を聴いた。声と同時に頭上の蛍光灯が風にあおられたように揺らいだ。ホームには月の姿しかない。ぞっとしたが、やはりそうかとでもいうような諦観が満ちてきた。

 頭上に光る蛍光灯はロウソクの火に似た不規則なゆらぎを灯していた。まさしく風前の灯火といった頼りがいの無い光だったが、たとえ蛍光灯が相手でも話し相手がいるだけましな気がした。

「朝まで、電車来ませんか」

 光が揺らぐ。「来ない」

「終電ですよね」

「違う」「朝がない」

「朝が来ない?」

「朝も夜もかわらない」

 光の言葉は流暢でそこに悪意は感じられなかった。

「どうしたらわたしは帰れますか」

「電車がない。歩いて帰る」

「何キロぐらい?」

「単位は無い」

 無い?

 頭上に揺らめく光が語る。

「直線距離では測れない。ここはねじれの位置にある。距離も時間も理由も無い。ほんの拍子に境界を跨いで此方の中へ入ってしまった。重なりから隣へ入ってしまった。だから別の重なりを経由しなけれならない」

「どうすればいいですか」

「歩くんだよ」

 と言うや否や頭上のちらつきは収まり、蛍光灯は均一な光を取り戻す。しかしその二つ隣の蛍光灯がその代わりに瞬きはじめる。そうやって順々に移動する光の点滅を追っていくと、改札階に降りる階段につき、順番に導かれながら階段を下って地上に降りた。並んだ自動改札のうち一つだけが開き、手招きのように点滅した。これもあの光の仕業だろうと推察しながら、月は改札を抜けて街に降り立つ。

 

 携帯の着信音に森澤晴記は目を覚ます。全身に重い気だるさを感じ、目を開けているのが難しいが、目を閉じても眠れる気がしない。覚醒しない意識で携帯の画面を見る。発信者名は「YOUR FAULT」。

 夢なのか現実なのか分からない。何も分からない。

 画面を見つめているとコールは切れた。

 

 街はいつか見覚えのある気がしたがどこの街だか思い出せない。街は朝方のように静かに深い色に染まっていたが、その青はくすんだ陰の色ではなく、くっきりと色鮮やかに感じられた。フタロシアニンブルーの透明な青が浸透したような空気はしんとして澄んでいる。風景は明瞭に見渡せる。雲も星もない空はただ深く青いばかりで、路面はうっすらと湿っていた。風は無いが歩けば涼しかった。自分の靴音がいやに遠く聴こえたが、通りにはそれしか音はなかった。

 街に悪意は感じられない。邪悪なものや死の予感や、愚かな来訪者を騙すために取り繕った愛想笑いの気配もない。街は中立的だった。無感情と言ってよかった。

 点滅する街灯に導かれて月は通りを歩いていたが、じきに光は月の行く先に追従して自ら方向を示さなくなった。電灯がなくても通りは十分に明るく、月の視界は明瞭だったが、話し相手がいるのは悪い気がしなかった。

 声を掛ければ電灯は応じた。歩きながらの雑談だった。月は尋ねた。一体ここはどこなのか、あなたはどういうものなのか?

「ここが何なのかは言い難い。一応は守秘義務もあるし、それ以前にここが何なのか此方も大して把握していない。

 派遣社員が別部署で迷子を発見したと思ってほしい。本来此方の義務ではないし、管轄外の仕事は知る由もないし、余計な事には首突っ込みたくないし、機密保持契約だってある。あんたを送り届けるのは此方の受け持つ役割ではなかった」

「縦割りですね」

「どうしたって、巨大な仕組みはそうなるらしい」

 月が想像していたよりもずっと電灯は卑近な存在であるらしく、電灯自身も自らを「下請けの下請けの一番下請け」だと語った。

「もしもあなたに見つからなかったらわたしは自力で帰れましたか」

「分からない。ただとても難しい」

 疲れることの無い一定の歩調で月は黙々と通りを歩いた。明かりの灯った建物もあったが、誰かがいるようには見えなかった。道は左右に分かれたり、坂になったり、階段が現れた。無人の街並み。しかしゴーストタウンではない。生活の気配を保ったまま住人がふと消えてしまったような、あるいは今日に限って誰もが深い眠りに就いているのではないかというような、全く無味の静けさだった。

 電灯は一切の指図をしなかった。月は月の自由で道を選び、思いついた疑問を電灯に問い、電灯は答えられることだけを答えた。電灯の名を尋ねると、名はないと言いながら、月には聞き取れない何かを語った。

「聞き取れないはずだ」

 月は頷く。

「だから、光でいいよ」

「光。わたしは月」

「月?」

「よろしく」

 語りながら延々と歩いたが、どこまで行っても街は暮れることも明けることもなく永久に青色だった。光の言う通り、ここは朝も夜もないのだと悟った。延々と歩くことは苦ではなかったが、目標に近付く手ごたえは感じられない。ただ自分の足音と、かすかにうなる光の音を聴く。

 一行は大きな幹線道路の高架下に達した。黙々と歩く月はふと変化に気付いて立ち止まり、前方の地面を見つめた。察した電灯が調光し、足元をはっきりと照らし出した。

 水気を帯びた半乾きの青が足元にぶちまけられている。バケツに溶かした青い絵具をひっくり返したような有様だった。青色はアスファルトの上に滲みながら反射している。これが頭上の光のほかに、月が目撃した最初の作為的な事象だった。沈黙を貫く無人の街の中で、それは明らかに誰かの痕跡だった。光はじりじりと瞬くばかりで何も語ろうとはしない。

 前方を見ると、道に沿って点々と青が続いているらしい。乾き切っていないそれらの水滴が光に反射してかすかにつやめく。青ざめた風景の中でひときわ鮮やかな青色である。

「管轄外だよ」と光は言った。月は青色の続く方へ歩みを進める。

 

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『Solarfault, 空は晴れて』
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「Solarfault」

「空は晴れて」

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