『Solarfault, 空は晴れて』

水底の街について

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 電話が途切れて久しい。向こうから、言い残したことがあるものだと信じて、床に伏せたままずっと着信を待っていたが、兆しは一向に見られなかった。

 ほんの拍子に、立てるということに気付く。立ち眩みはしたが台所へ歩き、水道で水をコップに汲む。顔を洗う。流れる水に頭ごと浸す。自分を伝い流れ落ちる水滴のことを考える。前髪や輪郭に滴るのを感じる。液体としての特性や、冷やかな温度や、濡れたことで生じる自身の変化を、ひとつひとつ受け止める。わざわざずぶ濡れになって放心しているみじめな背中を考える。背中からわき腹を伝って腹がある。その量感の中に骨や内臓や肉などの臓物を含んでいることを今一度考える。生き物としての量感がある。

 シャツの裾で顔をぬぐい、そのまま脱いでそれで髪を拭いた。濡れたシャツを洗濯かごへ放り込み、毛布にくるまって少し眠った。

 

 街の影が見える。巨大な工場と巨大な街のシルエットが夜明け前の薄暗がりにそびえ立っている。あまりにも巨大である。シルエットはあまりにも暗い。巨大な舞台背景めいている。

 ここは河口。街を突っ切って広い河川が海へ注ぐ汽水域。埋立地。河岸はコンクリートで固められ、真っ平らで何もない。街から隔てられたエリア。あるいは船の来ない船着き場。隔てられた土地。

 高波を被ったのか、あたり一面はうっすらと水の膜で覆われている。靴を濡らしながら岸辺に歩み寄る。誰かが桟橋の中央に立っている。この場には複数人がいる。低く、いずれの用途ももたないポールが一本だけ中央に立っている。土産屋らしいキオスクがシャッターを閉ざしている。

 岸辺から街を振り返り見ると、夜明けの白んだ薄明かりが空の端から漏れはじめ、空を薄青色と白と桃色に褪色させていた。白んだグラデーションを背景に街の高層建築や工場の巨大な機能は逆光に黒く塗り潰され、内部構造を失って密着し、影はひとつの巨大な塊を成した。真っ黒な城のかたちである。内部構造などもたないような巨大な量の塊である。

 ただ眺めている。会話はない。上流の、街から流れて来るらしい排水溝から、相当な勢いで水流が注がれる。

 その場にいた人々は敵でも味方でもない人々だった。ただ誰もが眺めていた。空がやけにきれいなのが、あまりにも白々しく感じられて、ますます疎外されている気を高めた。ここにいる人は敵でも味方でもないが、等しく外側の人間なのだ。

 

 森澤晴記が早朝目を覚ますと毛布の中には月もくるまっていて、昨夜の記憶をたぐり寄せるも、昨晩は確かに駅で別れたので過ちを犯す余地は絶対にないというただその一点に着地した。深く眠っていた月が起き出さないうちに森澤晴記は床を出た。覚えのない過ちと覚えている過ちとの間についてのどうしようもない考え事をしながらも、なるべく騒音を立てないようにこそこそとシャワーを浴びて服を着替えた。軽い朝食を取りながら、改めて月のことを見る。

 月は右半身を上にして眠っていた。歯車のピアスが右耳を貫通している。これは彼女が与えたものだった。月くん、彼女からぼくのストーリーを聞いたのか? きみはあのひとのためにぼくを訪ねたのか? またぼくはあなたとうまく喋れなかった。

 森澤晴記は鍵を掛けて家を出ようとしたが、少し考え、キーホルダーから家の鍵だけ外して机の上に置いた。そして施錠をせずに外に出て、そのまま最寄り駅まで歩いた。

 

 すれ違いに月が入ってくる。森澤家の扉は開いている。森澤晴記はここにはいない。雨に濡れた髪はすっかり乾いている。靴を脱いで上がり込むと、毛布を見つけて少し眠った。

 

 目が覚める。カーテンを開けると日差しが眩しい。暫くまどろんだのち身体を起こす。毛布。部屋の隅の携帯は借りた充電器につながっていた。ため息をつく。森澤晴記はここにはいない。

 一人きりの室内を見て月は少し考え込む。森澤の寛大さを信じ、まずシャワーを借りて洗濯物をバスケットへ放り込んだ。替えの服を探して箪笥を漁り、しばらくは着ていないだろうバンドTシャツの中から一番無難なデザインに見えた水色のSwimmersのものを着た。台所にあった食パンをトーストして食べた。麦茶も飲んだ。食器は洗った。身支度を終えた月は毛布を畳んで押し入れに仕舞った。ついでにゴミをまとめて縛った。森澤晴記が置いて行った鍵で施錠して駅へと歩く。

 昨日と打って変わってこの日は真夏のような日差しだった。死に絶えたと思っていた蝉がどこからか現れてまたしぶとく鳴いていた。鳴いたとしてもメスには出会えるのだろうか? とても長袖は着ていられない暑さだ。死に際の夏の最後の逆襲のような陽気だった。駅前のコンビニで冷たい三ツ矢サイダーを買った。電車は正常に運行し、うとうとしているうちに大学に着いた。講義には顔を出さずに、森澤がほっつき歩いていそうな奥まった裏道を探す。

 その一団は学生棟の脇に陣を張っていた。ほとんど人目に触れない場所だ。秋に迫った学園祭のための仕込みが進められている。一帯は構内でも特にうらぶれたスラム街のごとき有様で、いくら汚しても仕方がないし、いくら汚れても仕方がないというのが学生の共通の認識だった。サークルの一団はベニヤ板を切り出して塗装作業の最中だった。当然地面へのマスキングはされず、ペンキは鈍色のアスファルトを直に染めた。前年の色、前々年の色と、数えきれない程重なっている。誰かが掃除をしようと思い立った痕跡さえない。

 ペンキや刷毛やその他の工具が散らかった合間を月は歩いた。あたりは木立で日陰になっているため、作業空間は多少過ごし良かった。森澤の友人を見つけて呼びかけると、ちょうど向こうから本人が現れた。

 靴を見て月は密かに驚いた。白いスニーカーの靴底が真っ青に染まっている。

「ひどいよね?」

 靴を見せて森澤が言う。

「ペンキ。さっき思いっきり踏み抜いちゃって。これもう落ちないよ? どっかの神原って人が不用意なところに缶を置いてさ……」

「それ嫌み?」月が呼びかけた人物が言い返す。

「事実だね」

「俺だって汚れましたよ」

 確かに、煙草を咥えた神原先輩の方がよほど程度が酷い。衣服や顔にも青色が飛び散っている。

「というか月くん、そこ居たら汚れるよ」

「えっ」

 月の靴底も既に青かった。ため息づくしかできなかった。もう帰ろうと脱力しながら、月は目的を思い出す。

「森澤さん、鍵」

「……ああ、ありがとう」

「シャワーとタオル使わせて頂きました。洗濯物も置いてきたので後日取りに向かいます。パンと麦茶を頂きました。食器はちゃんと溜めこんでいた分も全部洗っておきました。布団も畳んで押し入れに仕舞いましたしペットボトルも潰して玄関先にまとめました。あとご覧の通りTシャツをお借りしています」

 神原と呼ばれた彼が言う。

「お前移り気早いんじゃねえの」

「……はあ?」

「泊めたの」

「事故的だ」と森澤晴記。「ぼくは善いひとなんだ、泊めたから何だ。泊まるだけだ」

「そうですよ」と月。「森澤さんはあれでいてご自身が思うよりも一途なので、泊めたぐらいで簡単に気移りすることはありません」

「月くん、それ嫌み? いやがらせ? 公開処刑?」

「事実です。ただの真実です」

 神原は森澤を茶化し、月は右耳に触れる。歯車はちゃんとそこに貫通している。

 森澤晴記の携帯がバイブする。画面を少し見つめ、電話に出た。

「もしもし」呼びかける声が震えている。

 二言三言言葉を交わして、その声音に安堵して、彼ははにかんで笑う。友達や後輩には見せない笑い方をする。電話越しに頷く。夕方5時、と彼は呟く。とても大切そうに反芻する。

「うん……話したいことがあるんだ」

 電話を繋げたまま青い靴底で、森澤晴記は去っていった。

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