オトノヨキカナ

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 日付変更に興味はない。カウントダウンは必要ない。1年を振り返らなくていい。今夜はただの一夜で、明日はただの朝だ。

 青野は、20世紀が今日で終わり、明日から21世紀だと言っていた。

「2000年で21世紀なんじゃないの?」

「1901年1月1日から2000年12月31日までが20世紀っていう枠。2001年1月1日から2100年12月31日まで、21世紀という新しい枠」

 大げさな身振り手振りで、数日前の青野が虚空にふたつの四角を描いた。青野の悪癖は枠組や名前の縁起を担ぎすぎるところだと聖は考えた。

 9時までのあいだ、TVでは22世紀からやってきたロボットのアニメが放送されていた。2000から始まる西暦にもまだ感覚が慣れないのに、ロボットが作られるはずの未来のことはほら話を思い描くこともできない。『21世紀のスキッツォイド・マン』という歌がある。あの歌は大好きだが、歌詞の言葉のひとつひとつは知らない。難しい言葉の意味は難しい奴にまかせておけばいい。

 だから、20世紀の終わりなんて待たずに聖は眠ることにした。夕食のそばだけで満腹になったので、買ってきた天ぷらもケーキも明日(決して新年ではなくただの明日﹅﹅)に回し、太陽家で湯を沸かして風呂に入った。太陽のシャンプーは黒染め用だった。そして石けんからは花屋で飲んだトロピカルジュースのような濃密な熱帯植物の匂いが漂った。

 泊まる二人に対し、寝室は太陽の私室しかなかった。居間と寝室のほかもう一部屋はクローゼット兼倉庫になっている。

「しばらくテレビ見てるから、聖さんが寝ててくださいよ」とモールスはこたつで眠るつもりらしかった。

「かぜひくよ……?」と彼を気にかける聖も、寝具のスウェットがあきらかに体格に対して大きく、襟首が肩からずり落ちていた。毛布などの寝具は客用の備えがあったので、モールスは居間に布団を敷いて寝ることにした。

 太陽の私室は匂いが違った。生活臭とは異なる濃密な空気に満ち、聖は、松田くんを入れてはいけないとまず感じた。具体的に何が匂いを放っているのかわからない。もしかして、古い楽器ケースの中の匂いのように、部屋にしまわれたもの自体の古さが、抽象的な不可視の密度として感じられるのかもしれない。

 寝室は狭く、ベッドのほかにはクローゼットと書物机だけ。聖は家具の配置に子供部屋を思い出した──自分のいた場所、それから、かつて一度だけ訪ねた青野の実家。ただ、太陽の私室の内装はそれらの子供部屋とまったく似ていなかった。それに、異国の蒐集品を飾る古美術屋のような太陽家のリビングとも印象が大きく違っていた。

 部屋はカーテンも壁紙も黒色だった。天井とベッド下の間接照明から発される明かりは赤みを帯びて、部屋全体をあまねく照らすことはない。この部屋は休息のためだけにデザインされたようである。事実、聖は自然な眠気を感じた。居間のTVの音声もこの部屋にはまったく聞こえない。

 文机の上に書きかけの──書き損じの?──便箋があった。便箋には古めかしい帆船の絵が描かれていた。書かれた言葉はアルファベットに似た外国語だが、筆記体も相まって全く読めず、聖には模様の羅列にしか見えなかった。

 同じ机の上に小さな絵画が一枚、額にも入れられずに立てかけられていた。文庫本よりもひとまわり大きい程の長方形だった。ほとんど白一色で塗りつぶしたように思われたが、本当はごく淡い赤と緑の点描で描かれている。ずっと眺めていると、一本道に立って行き先を見つめているような奥行きが察せられた。聖はこの絵が「もや」を描いた絵なのだと納得した。

 もの珍しいが、見物は止めてもう寝よう、と、聖は部屋の内装と同じように黒いシーツの布団に潜り込んだ。見上げた天井には、ちょうど枕から真上の位置に同心円状のモビールが音もなく回転していた。橙色のガラスの球体を中心に、他の小さな球体が9つ吊り下がっている。球体の仲間にはひとつだけレコード盤のような薄い輪の付属物を持っているものがあり、あれは土星なので真ん中のガラス球は太陽だと分かった。だから同心円の一番外側の、ビー玉ほどの大きさしかない小さな惑星を目で追った。

 算数はわからなくなることが多かったけど、理科の授業は好きだったな。いろいろな動物がいてたくさんの草花がいて、夜空にさまざまな星が回った。むかしひとりで流れ星を見たんだ。橋の上で。夜の河って本当に闇が流れていて、聖はあれ以上に深い闇を見たことがない。

 自分の金髪と、生っ白く細い手指は、闇の中ではぼんやりと光っているようにも見える。聖はまくれた袖を伸ばして手のひらまで隠し、冷えた手で、顕になった首筋をなぞり、膝を曲げて丸まった。

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 アパートの外階段はぼろぼろだ。風にさらされ、日陰で錆びて、雪の日はいつまでも氷が融けず、大雨と晴天を繰り返しているうちに、階段はいまにも朽ち果てそう。タン、タン、と一歩一歩を踏みしめるこの足跡が、階段の断末魔の悲鳴に転ずる可能性もあった。

 光が風化させる。

 きっと万事うまくいったという自負で胸の奥が熱く震えている。ドアには鍵がかかっていなかった。ぼろぼろの木造アパートの2階、玄関から入るとすぐにキッチンと食堂があり、手洗い場と浴室に通じる扉があり、曇りガラスの引き戸の向こうが居間兼寝室兼スタジオだった。

 ただいま、とガラスの扉を開けた。

 ベランダの窓が開いている。

 部屋の隅には彼の練習用のドラムセットが叩きかけ﹅﹅﹅﹅のまま静止し、奏者は席を外していた。

 聖のフェンダー・テレキャスターは、どのフレットも押さえずにただ開放弦をかき鳴らすだけでFM9の和音が響くよう特別に調律されている。白に近いクリーム色の塗装のボディは聖の髪色と同じ色だ。

 急がなきゃ、と聖は思った。足りない機材は向こうにあるだろう。エフェクターもシールドもピックも置いて、ギターストラップを肩にかける。ベランダを出て、エノコログサの茂みをかき分けてけもの道を行く。道順に迷いはなかった。黒く湿った冷たい土はじきに乾いた白い砂に替わり、スニーカーをはいた足が砂に取られた。

 小山を登るとそこはビーチ。空の天頂は薄青色だが、薄紫色の雲がたなびいている。水平線の近くの低い空は桃色に霞んでいる。移ろいの時刻のまま空は暮れも明けもしない。

 砂に流木が打ち捨てられている。

 砂にストラトキャスターのネックが打ち捨てられている。引っこ抜くと弦もボディもない。

 砂浜はごみだらけだった。大潮時の海岸線に沿って、アシのような細かい枯れ枝や、ジュースの空き缶や、ギターの弦の空き箱や、くつひも、筆箱、切れた弦、日差しのにおい、さまざまなものが、海岸の果てまで永遠に曲線を描いて伸びている。死んだ貝殻とギターピックプラスチックごみはいずれも角が取れて色あせている。海辺だというのに、ここにあるものはすべてからからに乾いている感じがした。

 そのなかに一対のドラムスティックがあった。束ねる持ち主はなく、日差しと波に侵食されて、砂浜の砂へ同化する途中だった。

 より海へ近づく。

 波は等間隔に轟音の満ち引きを繰り返した。潮風があばれて聖の金髪を翻し、長髪で隠していた頬の痩けをあらわにした。舞い上がる波と砂が光を乱反射させ、聖は目を細める。

「船が行っちゃったよ」

 短髪の彼は髪の乱れこそないが、強風に目を細め、眉間にしわが寄っていた。彼は砂の上に直に座り、いつもどんな雑踏にいても誰よりも長くてしなやかな両手足を抱え、小学生のような三角座りをして水平線の彼方を見つめていた。

「間に合わなかったよ。乗りそびれた」

 彼の言葉には呆けたところ・疲れたところがあった。聖は彼の隣にぴったりはりついて腰を下ろした。

「だめじゃないよ。船が行ったってなんでもない」

 すると、彼は笑う。きわめて弱々しく、口角も上がらないので、彼の微笑は彼本人でもいま笑ったことに気付かなかった。

 むかしは、そういう回りくどい笑い方をする人ではなかった。

 聖はテレキャスターを構え「弾いていい?」と聞いた。答えを待たずに聖は爪弾いた。さっき──あるいは10年前に──考えたバラードだ。アルバムの最後にしまうのがふさわしい小品だ。ときどき、押さえた弦と違う音が鳴って聖はびっくりした。が、変わってしまったコードのほうが、頭の中で考えたフレーズよりも良い流れだった。

 むかしにくらべて、我々はひどく別々のかたちに進化した。むかしのふたりはとてもよく似ていた。同じ背丈で、同じ笑い方、同じ叫び方をして、同じ遊びをあそんだ。いまは背丈が30cmもかけはなれ、声域も遠くなり、ふたりの笑いはそれぞれ別々の意味を帯びている。これからもふたりのもつ意味はかけはなれる一方だろう。別々の潮の流れに乗った魚のように、地球を一周しない限りまた会うことはない。

 弦を爪弾く音が小さくなる。弾いても弾いても音が遠ざかり、耳に届かなくなる。

 聖は彼の肩に頭をもたれて身体を預けた。そうして触れ続けていないと彼も次の船で行ってしまうと直感した。

 互いの衣類がはためき、ふたりの間を通り抜ける強風に乗って低い汽笛が届いた。海上に霧が立ち込めはじめた。「行かないでよね」聖が呟いた。彼の服の端をつまんで離さず哀願した。

 海中で楽器たちが朽ちていく。死んだ楽器の堆積物が海底にしんしんと降り積もる。海が波に揺らぎ、大魚や船が通り過ぎるそのときだけ、楽器たちはかすれた吐息のごとき最期の単音をかろうじて発する。音のひとつひとつは人の耳に聞こえず、いずれの音階もなさず、拍子も満たさない。しかし大きな船が海底の砂をまきあげて進むとき、死んだ音楽たちの最期の音が束なって聞こえるハーモニーは、あきらかにひとつの音楽を形成した。死んだ音楽たちの最期の合奏にして、この浜辺で生まれ続ける最新の音楽は、海にあたらしい死者が加わるたびに更新される。この世のすべての音楽の積分から生まれるこの世すべての音楽への追悼歌は、つねに生まれて死に続ける自分自身も弔い続ける。

 生きているものにレクイエムは聴こえないけれど。

 

 聖は波打際に子供の姿を見た。波は高く、白濁した泡をまきあげて海岸に打ちつける。

 

 彼の鼓動はいつのまにか弱っている。万が一にも消えてしまわぬよう、強く握りしめたせいで、手のなかの動物はいまにも弱って死にそうだった。そうしたのは自分だ。この手で彼を握りしめて弱らせたんだった。

 なのにこの手を離したら彼はきっといなくなるだろう。生気をなくした最期の鼓動があの音楽の束に加わり、たった一度だけ叩かれて、海の底、もう会えないだろう。

 聖が救えるのはふたりにひとつだった。聖はますます強く彼の腕を握る。握りしめた手のなかで、握りしめるほど彼の命は弱る。

 あの子はいまにも波にのまれるだろう。あの子が誰でどんな顔をしているか、聖は嫌というほどよく知っている。聖のほかにあの子を救える者はいない。音楽を打ち消す大波が何度も迫る。あの子が次は助からないと聖は知っている。憎悪を込めて聖は切に願う。いらない。そのまま死んでしまえ。いらない。どれだけ時間をかけておまえを切り離したか。

 いっそう高い大波が打ち寄せた。

 子供をかばって、抱きしめて、聖は子供の顔を決して見ずに目を開いたまま波を浴びた。濁流のなかにさまざまなものが見えた。さまざまな永遠だった瞬間のダイジェストが移り変わった。日向を走る猫が見えた。河原で黒曜石の塊を見つけて叩き割ったときの輝きを思い出した。事務所へ続く近道を探そうと渋谷の路地裏を探検したことを、雪が降る八王子のライブハウスで貰った紙コップの温かい麦茶のことを、割れたピックのことを、割れたシンバルのことを、事務所の外階段を下ってふたりでゴミ捨てに行った日のことをまざまざと見た。永遠だった時間のすべてが、この大波によってさらわれたことを理解した。

 子供もまた目を開けたまま、直前の恐怖を忘れられずに顔を歪めていた。

 聖は背後を振り返れない。彼を手放して波間の子供を救うことを選んだ瞬間に、彼が消えたことは、分かりきっていた。その事実を認められなかった。

 彼はとっくのむかしに訣別を済ませていたのだろう。彼ははるかむかしに同じ救出の二択に直面し、彼は聖だけを選び、彼の子供を見殺しにする儀式を終えていた。聖は、聖を選んで子供を見殺しにした彼の選択に報いを返せなかった。

 聖は子供を抱いて嗚咽した。謝罪でもなく後悔でもない、絶対に意味を編まない叫びを叫び続けた。

 ふたりの食卓にコップを置くあの生活音のように、瞬きの音よりもかすかに、でも毎日重ねてきたように、ハイハットシンバルが最期の一撃を震わせ、永遠に静止した。

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