オトノヨキカナ *

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4.

 12月の太陽の光は低く、窓の外の渋谷は雲間から差す傾いた光で金色に染まっていた。街の稜線がはっきりと色づき、色彩はだんだんと桃色に転ぶだろう。青空と桃色が混ざり合って七色に染まる。聖はそのわずかな瞬間だけは美しいと思った。

「夕飯なにがいい」と聖は言った。モールスは、今日は食べてばかりだと思った。「なんでもがんばるよ」と聖。

「っていうか、聖さんがこんなにお料理じょうずとは知りませんでした」

「ほんと? じょうずって本当?」

「オレは家で料理なんてしたことないから、ちゃんと自炊続けてるのはエラいですよ」

「ま、青野クンも料理とかぜったいしないからね。でトクのうちにいるからトクいないときに、お夕飯とかやっとこっかなって始めたの」

 家を持たない聖が徳仁の世話になっている、いわゆるヒモであることは、青野経由でモールスも耳に挟んだことがある。幼馴染だとしても、ここまで密な関係が長く続くことは本当に珍しいと思う。変な人には変な人相当に変な事情があるのだろうとモールスは察した。

「年越しそば食べたいなあ」と何の気なしにモールスが言った。「温かいそばに天ぷらとか乗せて。力そばでもいいなあ」

「天ぷら売ってるかなあ。作るとめんどーだから」

「デパ地下は開いてんのかな」

「神泉のスーパーだったら開いてると思うー。じゃあ、いってきまーす」

 モールスが止める前に、聖はベランダをまたいで事務所に戻ろうとした。「こっち、こっち」とモールスがあわてて止める。さっき靴も上着もかばんも彼が太陽の家に持ってきた。12月の真冬に聖の上着はスカジャン1枚で寒そうだった。「使います?」とモールスが私物のネックウォーマーを貸し出した。

「あ、あったか、ありがとー。おっけーじゃあ行ってきまーす」

 今度は本当に止める間もなく、聖は夕方の街に飛び出した。

 曇りの日の夕方は、桃色にグレーが混ざって上手く言えない“終わり”の濁色をしている。

「変な人だな」とモールスがひとりごちる。と、松田くんがモールスの脛に頭突きした。

「なに、なんなんですか、なんなんだよ、もう……」

 長毛の背中をモールスが撫でさすると、いつもは数秒で勝手に満足して立ち去る松田くんが、今日は長く構われる気分だった。

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 夕方は“終わり”の色をしている。ピンク色のグレーがすみれ色のグレーにかわり、青いグレーになると、夜闇はすぐそこまで迫っている。

 その闇の色を見るたびに未だにむしょうに悲しくなる。すでに終わってしまったことよりも、これから終わりを迎えるという報せを避けられないことが苦しくて仕方ない。

 かつて、ここにいなかった頃、なにもできずに晴天の昼間でも暗い部屋の外に行く宛を見いだせなかった頃は、夕闇が訪れなければ徳仁に会えなかった。徳仁は学校に行って昼間の時刻の務めを果たし、一日の終わりに聖のいる暗い部屋を訪ねた。または日暮れのあとの時刻に外で落ち合って、スタジオやライヴハウスで大音量をぶつけ合った。一日の終わりを轟音で荒らすことで、この音が、暗い部屋にしか帰る宛のない自分を、ここではない別の明るい場所へ連れ去ってくれるわずかな奇跡に望みを託していた。

 あの暗い子供部屋よりも、いまここは遥かに風通しが良いが、望んでいた“明るい場所”とはちがうのではないかと思った。現状が不満ということはない。徳仁には感謝しきれない。なのになぜ、日差しの差す部屋で生活できる恐怖のないこの生活を“ちがう”と考えるのだろう。

 道玄坂で人々が笑う。空の端には夜が近づいている。

 聖は静寂を求めていた。静寂とは無音のことではなく無言だ。聖は意味が聴こえすぎることを嫌い、音楽の歌詞をいらないと思うことがままある。そこで言語を聞き取れない異国の楽曲を聴いても、音楽は人間が意味を込めて作ったものなので、歌唱のない楽曲にも広義の“歌詞”が含まれている。

 虫の声に意味はない。つがいを得るために求愛または威嚇するのみだ。風の音にはもっと意味がない。風が吹くとき理由はない。

 年末年始、楽器屋はシャッターを下ろしていた。店の壁面にディスプレイ用の巨大なフェンダー・テレキャスターがかかっている。もし自分にできることが画家だったら……とにかく音楽ではなかったら、望む静寂を手に入れられただろうか。

 その道を想像できないが、聖は首を振った。トクがいない。青野クンやモールスもいない。

 虫や風による意味のない歌は好きだった。でも、猫との会話も大好きだった。

 静寂な世界に愛するものをほんの少しだけ持ち込んで森のなかで暮らせたらいいなと、雑踏の発声を聞き取らないように妄想へ耽溺した。たまにセッションできたらいいな。小枝の折れる音、鳥が羽ばたく音、種子が割れて双葉が生まれる音、それらを決して遮らない静寂の音楽を、弾いてみたいな。マイクを通さなくても遠くの人と話ができたらいいな。

 スーパーマーケットの天ぷら・惣菜類は売り切れていた。会話や笑い声や靴音の高音がひどく耳に障った。聖はイヤホンをつけ自作のノイズミュージックを再生した。ブラウンノイズを基調にしてテンポのない無限にループするメロディを重ね、騒音から意識を遠ざけるために作曲したきわめて私用の楽曲だった。

 夕方のデパート地下の食料品店は大変に混雑していた。四方からの呼び込みの声を、あれは無価値な意味だから聞くまいと、プレイヤーの音量を上げることで対抗した。食費は太陽持ちなので、値段を気にせずに目の前にあった有頭えび天と、自分が食べたかったかぼちゃの天ぷらをふたつずつ買った。

 これ以上気分が悪くなる前にとっとと逃げようとショーウィンドウと客の合間をなかば強引に縫って歩くと、「おかあさん、つかれたぁ、早く帰ろう」という幼子の声を聞き取って立ちすくんだ。ケーキ売り場の前だった。

「お正月限定のスペシャルケーキはいかがですかー?」と、店員はマニュアルどおりに、立ち止まった聖に声を掛ける。

 苺の赤色とクリームの白が紅白の縁起を担いでいた。松葉や金箔で飾られて、デコレーションのホワイトチョコの上に漢字の『宝』が印字されている。聖はケーキをふたつ買った。甘いものを食べたら幸せになれるだろうかと考えたが、ケーキなんて身の丈にあまり、苺ひとつで事足りる気がした。

 天ぷらとケーキを抱えて聖はなかば小走りでデパートを出た。スカジャン1枚羽織っただけの腕が冷えた。全身から冷気が染み込んでくる。曇り空なので夕焼けは見えず、空は単純に暗くなるだけだった。

 かえろう。でも、どこに?

 両手に抱えたごちそうを今アスファルトの上に叩きつけて、えびと苺の肉片がただの街の汚れになる、吐瀉物と排泄物にまみれて区別のつかない行き倒れの死者になる──そういう選択肢も、手にとろうとすれば実現できるすぐそばにあった。決してそういうことを今しないのは、聖ひとりが内心で「そうしない」と決めたからで、決意なんて絶対に信頼できるものではないと聖は知っている。

 聖は借りたネックウォーマーを鼻先まで引き上げる。決意とは、破局を先延ばしにするだけだ。

 でも、そうやってだましだまし生きてこれたんだった。

5.

 モールスはTVのチャンネルをザッピングした。歌謡番組、NGシーン集、アニメ、芸人たちの番組、どれでもよかった。どれにも秀でた魅力はなかった。

「みんな混んでたよ」帰ってきた聖の言葉のなかにモールスは蔑みを聞き取った。外気との寒暖差で聖の頬は赤く、もともと不健康な色白の肌がいっそう目立った。

「まだごはんしなくていいよね」荷物を置いて、聖はイヤホンを耳にかけ、音楽プレイヤーのレパートリーを漁る。しばらく自分の世界に引きこもるつもりだった。没入の直前に、「モールスの写真もほしいな」と言った。なぜとモールスは驚いた。

「モールスばっかり撮るじゃない。だから、こっちだってモールスほしいなって思ったの」

「オレ、撮られるのは恥ずかしくて嫌いなんで……」

「そういえば本当の名前なんていうの」

 覚えてもらえてなかったのか。さまざまな気持ちを通り越して苦笑してしまう。「毛利ですよ」

「下は?」

「信護」

「信号?」

「シンゴーじゃなくてシンゴ。信じると、ごんべんの護る」

 ふーん、と聖は分かっているのか、分かっていないのか。「モールスさ、聖って呼ぶじゃない」

「あっ……嫌いでしたか、名前で呼ばれるの」

「ううん。あの、言おうと思ってたんだけど、名前で呼ばれんの好きだから好きなの」

 機嫌を損ねなかったことにモールスが安堵すると、「信護」とふいに名を呼ばれ驚いた。聖はプレイヤーを操作していたが、口角がゆるんでいた。

「たまに名前で呼んでいい?」

 なんだか落ち着かない。けれど決して不快ではない。いいっすよ、好きに、というモールスの返事はそっけなく聞こえた。

「よかった。
 あのね、たまに青野クンのことも理史って呼んであげるとおもしろいよ。青野クンはしゃべってないときのほうがおもしろいからね」

 さすがにあの人のことはそこまで気さくに名を呼べない。というか秋山聖の青野理史評はひどいなあと返答に迷っているうちに、聖は再生する楽曲を決めて、珍品に溢れるこの部屋の中でどこでもないただ一点の虚空を眺めた。指先でこたつの机上をカウントしている。あの奇妙な音楽を吐き出すために、どんな曲を聴いているのだろう。

 信じて護る。名前の文字なんて、ただの名札だ。

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