オトノヨキカナ *

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3.

 12月31日日曜日。

「秋山さん、猫……松田くんを、こっちに来ないようにして」

 え?

 ヘッドホンを外し、聖は楽器庫から顔を出した。事務所の給湯室キッチンで松田くんは登ってはいけない調理台に興味津々、流しに立つモールスは松田くんの視線を引き剥がそうと苦戦していた。

 視線の先には見たことのないマシンがあった。炊飯器と小型発電機の間の子、と聖には見えた。

 松田くん、と聖が呼びかけても、猫はキッチンの異物に夢中。見れば完成品ではなく、組み立て中のようだった。聖の視線も加わると、モールスはやりづらい。

「なにそれ」

 猫の問を聖が代弁した。

「全自動もちつき機」説明書のタイトルをモールスがそのまま読み上げる。

「なにそれ」

「木場さんがオレに預けたんです。『これが冬休みの宿題だよ!』って」

「もち? もちつくの」

 聖は松田くんを抱きかかえ、ミキサーの羽がついたような炊飯釜を覗き込んだ。太陽によるメモが添付されている。

 

『全自動もちつき機があるのでかがみもちを作りましょう
 形は自由、芸術は爆発!
 みんなに配る切り餅も作りましょう。袋に入れて切り分けてネ
 必ず出来たてあつあつを食べるように!!! ☀』

 

 めんどくさ、というのがモールスの正直な感想。秋山聖に人手は期待していないが、作業を邪魔する猫の手を抑えていてくれるならまあありがたい。それに、ひとりでもちつきするなんていう孤独も少しは薄れるというもの。

「自動じゃないじゃん」聖は、もちを切り分けるのも全自動もちつき機の仕事だと思っていた。

「臼と杵でつくよりはマシでしょうね。オレたちじゃ無理っすよ。体力ないし、コツも知らない」

「おもちってさあ、なんか食べるの難しいよね。なんかずっともちもちで、噛んでも噛んでももちもちで」

 釜と器具を洗浄し、次はもち米の準備。その他の調理器具も事務所にはなく、太陽家に置いてあるらしい。

 木場社長邸宅は事務所の隣のマンションにあるが、7階ファイネッジレコーズ事務所から地上へ降りて隣家の7階にふたたび登るのが面倒らしく、太陽は7階の窓伝いにベランダを乗り越え地上20mをまたいで家を出入りするのが常だった。建物間の隙間には転落防止網が渡されているが、どうみてもその強度では人命を支えることはできず、せいぜいうっかり落とした財布をすくい上げる程度の力しかない。当然モールスはこの移動方法を嫌った。一方松田くんは慣れきった様子で、ひょいひょいと地上7階を渡り歩く。あまり身軽な見た目ではないが、それでも猫は猫だと舌を巻いていると、聖もさほどためらいなく窓を乗り越えてしまった。

「モールスって高所恐怖症?」向こう岸に渡った聖が尋ねる。

「いや、怖いんじゃなくて、怖いけど、危ないでしょ普通に」

 こういう移動をもっぱらするので、社長邸宅のベランダは鍵をかけない。聖と猫はさも当然のように社長宅に押し入る。

「すごーい、こっちこたつあるよ。ねーこっちでやろ。こたつ入ろうモールス。あっ、みかんある、みかん食べよ」

 自由かよ……

 モールスは二人分の荷物と靴を持って、地上に降り、玄関から太陽家に入った。

 木場太陽家の間取りはファイネッジレコーズの事務所とよく似ている。独身者が持て余す広さの2LDKは、スタッフや客人も出入りする事務所と異なり、太陽個人の混沌が煮詰まったような内装だった。壁一面を覆う巨大なオーディオ設備と飾られたギターやその他の楽器はともかくとして、ギターを吊るすハンガーと同じ高さに能の翁面や異国の木彫の仮面がかけられ住人を見下ろしていた。ガラス戸のディスプレイ棚には何らかの音楽賞の記念盾に加えて、小さな仏像、レコードのジャケット、どこか白壁の異国の海辺の街を背景にした猫のポストカード数点、アンティーク品と思われるティーセットと、金属のアクセサリー類に、レプリカか本物か不明の水晶髑髏が飾られていて、つまるところ雑多かつ異様な凄みがあった。こたつの布団が虎の剥製毛皮でも驚くまいとモールスは誓ったが、こたつもこたつを囲むソファも、そこだけはありふれた平成の独身男性の居住空間に準じていた。事務所の編集室とは違い、不衛生な点はない。

 猫の松田くんはともかくとして、聖は部屋に気圧されることもなく、いつもどおりのほほんとしている。気付いていないということはなく単にどうでもいいのだろう。

 松田くんはこたつ布団に長毛を撒き散らした後だった。“こたつの上のカゴに山盛り”という、どうぞ食べてくださいと言わんばかりのみかんも用意されている。聖はキッチンでもち米を探している……と思ったら、冷蔵庫の残り物をチェックしていた。「見て見てお酒ある」と缶ビールを取り出す。「昼間っから……」と口に出すモールスの独り言は届かない。

「あっチーズある。ハム。あーソーセージ。ねー食べていいって言ってたっけ」

 喋りつつ、聖は野菜室のサニーレタスをちぎって洗った。フライパンでなにか焼く音も聞こえる。缶詰を開ける音に松田くんが反応した。「松田くんさっき食べたでしょ」と聖。たしかに好きに使っていいと言ったが、こうも我が物顔で台所をあさる聖にモールスは閉口した。天才と○○は紙一重、聖のことは悪い意味で猫のようだと思っていた。が、またたく間に卓上に出される3品にモールスは舌を巻いた。サニーレタスとツナのサラダ、パリッと焼き上げたハーブ入りソーセージ、生ハムとカマンベールチーズとオリーブの和え物。

「食べよ〜」と、聖はすでに缶ビールを開けている。

 ビールは苦くて飲み慣れず、この先も好きになることはないだろうとモールスは思っていたが、太陽の冷蔵庫から出した謎のビール〈アステカの夜明け〉は、トマトジュースが如き濃い赤色の見た目に反してとても飲みやすく、熱々のソーセージが進んだ。意外に絶品だったのがサニーレタスとツナのサラダで、ごま油とラー油の香りが食欲をそそった。

 いつでも酔っ払っているのではないかと疑われる聖は全く顔色に出なかった。しらふでへらへら笑っている。

「モールス、ほっぺた赤いね~」

 言われて、頬を触ると火照っている。

「酒強くないから飲み会も苦手で、あんま飲んだことないんです。けど、これはすごく美味いっすね」

「うん、はじめて飲む」缶のラベルを眺める聖は、「あれ、え、お酒きらい?」と今更尋ねる。

「いや、や……嫌いじゃなくて、ほんとは飲みたいけどあんま飲めないんすよ」

 あわてて訂正すると聖は、あ、そうなの、と一瞬目を丸くした。ゆるやかに口角が上がった。「トクもなんだよ」

「田邊さん?」

「そー。お酒好きだけどすぐ赤くなって、眠くなるからだめって言ってる。ぜんぜん飲めないんだよ。だからうちじゃ飲まないの」

 驚いた、なんとなく酒豪ザルのイメージだったから。

「でも前ね、青野クンがくれたハチミツのお酒、なんだっけ、えーと外国のトモダチがくれたって言ってたやつ、それはおいしくって、ほんとにハチミツの味で甘くて、トクもおいしいって言ってたからモールスもおいしいと思うよ」

「青野さん、なんでも持ってるなあ」

「ねえ〜わけわかんないよね。おもしろ」

 いやいや“わけわかんない”はあなたがた全員ひっくるめての感想ですよ、とは言えずに、モールスはビールを飲み込む。つまみはまだ卓上にあるというのに、聖はみかんに手を伸ばし、皮をぼろぼろの細切れにしながら剥いた。下手だった。聖は目を伏せたまま、

「モールスってさ、トクのこと苦手でしょ」とズバリ言う。

 目が泳いだ。苦手であるというよりも親しくなれないでいた。が、親しくなれない理由は苦手に思っているからだろう。なぜ苦手かと考えると、音楽事務所というこの環境で、誰も彼もがパッパラパーであり、自分もパッパラパーの基質があるのに内向的なために表出しないモールスに対して、田邊徳仁はバンドマンなのにパッパラパーの因子さえ無い。聖が「トク」「トクジン」と呼ぶ彼の名前の文字「徳仁」を知って、禅僧みたいな人物だとつくづく思った。彼はわれわれパッパラパーをお堂に一列に正座させて、心の乱れを竹刀ではたく側だった(とモールスは信じている)。イメージ上の竹刀はだいたい青野に振るわれているが、いつ自分にも向けられるか分からないと、モールスは杞憂していた。

「そんなに露骨に見えたんですか……?」モールスはやるせなく苦笑して尋ねる。噂の本人がこの場にいなくて良かった。いや、この場でいますぐ謝罪と釈明をしたほうが良かった?

 聖はようやくみかんの皮を剥き終えたが、今度は白い筋を剥がすのに苦戦していた。「え〜バレるよ~」と笑いながら、薄皮を剥いで果肉をつぶしてビールのグラスのなかに落とした。えっそれ美味しいの? と突っ込みたい気持ちを抑えた。

「聖さんは田邊さんと仲良いですよね」

 聖はみかんビールを一気に飲む。

「んーそうかもね」

 即答ではなく“かも”だったのが意外だった。というよりも、わずかに違和感を生んだ。

「長い付き合いだったんですか?」

「そうかも」

 ビールに入れたみかんとは別に、聖は果肉のみかんをカマンベールチーズと一緒に頬張った。モールスは意味もなく何度か頷いた。果肉が散らかった聖の皿を眺めて、「いつから一緒にいたんですか?」と問う。

「小3、んー、で、バンド組んだのが14で、まー……14って曲作るとかなんかそういうのじゃなかったけど、それでもやって、なんか、約束だったんだよね」

「約束?」

「いっしょにちゃんと続けてこうねって。聖がギターやって俺がドラムやるから、ふたりでもちゃんとやってこうねって。トクが、約束してくれて、でー、えーと15から18まで曲作ってね、ライヴハウス出させてもらって、それで色々、ホワイトリゾーツとかでしばらくやらせてもらうようになったの」

 聖と徳仁は仲が良い。が、彼らは真逆の属性だ。徳仁は聖に甘いように見えたが、そういう事情があったのかとひとまず納得した。「幼馴染で、ずっと一緒にいるんですね」

「小3からするとね。あのね、小3んときは聖クンのがトクより背ぇ高かったんだよ。いまもう30cm違うけどさあ」

「前からおふたりとも軽音部なんかに入ってたんですか?」

「トクは小学校のときからずっと吹部だったよ」

「聖さんは?」

「えー……あのー……なんだっけ……、料理部……とか」

 なんだそりゃ。

「ギターはどうやって始めたんですか? 習い事?」

「んー……。弾きたくて、弾いただけ」

 天才は早熟だとモールスは思った。

 聖は、みかんの最後の一房だけは、創作料理に加えずにそのまま頬張った。

「トクはずっと吹奏楽でパーカッションでね、トクはね、すごいんだよ。ずーっとやってて、ずーっとすごいの」

「でも、聖さんだってすごいですよ。ずっと音楽やって、学生のときから歌つくって」

「ちがうよ」聖は笑うが、見たことのない笑みだった。夢から醒めた酔っぱらいのような気弱な微笑。「音楽しかできなかっただけ。自分の好きなものがこれしかほんとになくて、わかんなくて、やってたの」

「命がけでしたか」知らず、モールスは一歩踏み込んだ。

「ん」、言葉の意味を聖は考える。できなかったことの数、できるようになったことの数、できたことと引き換えに悲しませた数をかぞえる。数は増え続ける。

「命がけっていうかあ、命がけになったら死んじゃうから。死んじゃわないように音楽があったの」

 死なないようにギターを弾いたの。傷ついたり傷つけられたりするかわりにこの指が楽器になればいい。手首に印を引くよりも、指先が楽器のために固くいびつに歪むことを、聖は人生をかけて選んだ。

「トクはやさしいんだよ。ずーっといたし、トクがいなきゃできないし、トクがやさしくてよかった。だからべつにモールスにもやさしいよ」

 皿の上にあまったチーズを聖は手づかみで口に放り込んだ。「あ、でも」と言いかけ、声に出さない。チーズの味にかき消されたけど、その直前まで口の中にはどす黒い猛毒の甘い味が広がっていた。

 なんでもかんでも言うもんじゃないと聖は思った。モールスまで困らせはしない。

 徳仁は聖のものではない。聖のものは、たぶん、無い。

 モールスは返事しかねて、泡の消えたビールに口をつけた。聖は皿を片付けて松田くんを探した。松田くんは部屋の隅のカホンのなかに潜り込んでいた。木箱の打楽器の穴の向こうから銅色に輝く透明な眼が聖を覗き返した。

「また困らせちゃった」

 松田くんに告解する。

「悪いことは悪いってわかってるのに、どうして悪いことしてみたくなるんだろう。悪いんだよ。ほんとうに。トクが悲しんでくれると嬉しかったけど、それは嬉しいのに悲しかったの……」

「なうん」

 松田くんも聖にしか聞こえない声でささやき返した。体格の割に彼女の声はかぼそい。松田くんのほかに頼りになる身近なお姉さんはいない。

−・・・−

 毒はすごい。傷つけると、胸の奥の奥が甘くしびれる。傷つけるのは自分の身体に対してでも、他の人の気持ちに対してでもいい。やってやったぞ、命綱なしで飛び降りてやったぞという、足を踏み外した蛮勇の達成感がある。

 胸は熱いのに頭のなかでは言葉がとげになって凍りつく。やってしまった。間違えた。悪いものが身体の中に沈殿する。

 毒を切り離すことはできなかった。音楽にも毒は込められている。わざと難しい譜面を弾かせたり、正攻法をとらずに骨折した進行の曲を作って、奏者もリスナーも自分自身のことも困らせた。

 本当にこの毒はしびれが回る。胸騒ぎが頭の先からギターを弾く指の末梢にまで伝達する。自分が毒に侵されればいい。この指、この体が、音楽に成ってしまえばいい。

“神がかっているよね”と、ライヴの楽屋で誰かが言っていた。なにかの雑誌のライターだったかな……貰った名刺は青野が受け取ったはずだ。

“狂気にとりつかれているようだ”
“神を降ろしているようだ”

 そんな文面が書かれたことをあとで青野に教えてもらった。聖自身は、自分の記事を読んでいない。

「これでライターか」と青野が一笑した。「聖は自分の漢字書ける?」

「耳に口で王さま」

「それは神さまの言葉を耳できいて、口でみんなに伝えるえらい人って意味だったんだ。聖なる人とは、神のお告げをする人。でもそんなのはただの意味」

 貰った雑誌を青野はゴミ箱に落とした。

「神がかっているとか、何でもかんでもそうやってたとえ話にするものじゃない。“神がかっている”っていうのは、神に弾かされているようだってことだろ。ちがうよ。聖は自分で弾いている……」

 そうなのかな、と聖は考えた。

「え、ない?」と自然と口をついて、否定する。

「レコは、あの、自分がやって選んでる感じあるけど、ライヴは、ない? 自分じゃない感じっていうか、向こうからやってきて、飛んでる気分……」

 そのとき青野はどんな顔をしたっけ。

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