オトノヨキカナ

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6.

「……、ひじりさん……!」

 モールスにすがりついて聖は号泣していた。何を言っても聖には届かない。

 写真の専門学校の品評会で、講師に作品のあらを散々指摘されて、反論もできず無言のうちに泣き出した同級生がいた。モールスにもその人ともっと親しい同級生にも、なぐさめることができなかった。どんな涙も個人の問題だ。

 聖の涙は悲鳴同然だった。命を振り絞って泣き叫ばなければならないという間違えた使命感に囚われていた。

 モールスは名を呼びかけながら、同級生の振る舞いを思い出しつつ、何度か頭や背をなでさすった。その動作ひとつひとつをモールスは内心あざ笑った。親切心や正義感なんて柄でもない。しかし目の前で狂う人を見捨てることもできなかった。悪は実行するだけだが、正義とはなにかの意思に脅迫されることによってしか実行できないのではないかと、頭の片隅に歪んだアイディアの欠片を宿しながら、答えのない相手が疲れて泣き止むまで「聖さん……!」と名前を呼びかけ続けた。

「…………いまの……初夢……?」

 嗚咽をこらえて身体をふるわせる聖を毛布でつつみ、居間の薄明かりの差す場所まで引っ張り出した。

「ちがう。1月1日の夜寝るときに見るのが初夢ですよ。今日はちがいます」

 涙が枯れた聖の顔が明るみに出ると、聖が少年のまま老いてやせ細った髑髏のように見え、モールスは息を呑んだ。このひとの手はこんなにも枯れ枝同然に細かったっけ。目を背けられずに、ずいぶんと長い間、モールスは弱った聖を見つめていた。

「松田くんも起きてますよ。抱いたら落ち着くんじゃないですか」

 モールスは意図せずそんなことを口にし、聖は頷いた。

 未明、寝室から叫びを聞いてモールスは飛び起きた。猫の松田くんが耳を澄まして沈黙している。押し入った寝室の中は暗黒だった。一切の明かりが差さず、何が起きたのか理解しがたい。号泣する声を頼りに暗闇に分け入って、幼児のように泣き叫ぶ聖を手探りで発見した。この暗闇は良くないとモールスは直感した。

 聖は居間のこたつに入った。身体はまだ震えていたが、寝起きに比べたらはるかに落ち着いた。モールスは聖に、温かい湯を飲むように勧めた。

「初夢、きょうじゃ、ないんだよね」

 途切れ途切れに聖がつぶやく。

「そうですよ」モールスは繰り返す。「1月1日の夜に見るのが初夢です。いまじゃありません。いまのは、ちがいます」

 時刻は6時を少し回ったところ。外はまだ暗いが、モールスの眠気は醒めてしまった。

「薬のみわすれたの」と聖が小さく打ち明けた。「のまなきゃいけなかったんだけど……」

「もういいっすよ。ただの夢なんだから」

「夢じゃないんだよ」

 ふたりは黙りこくった。松田くんも口を挟まず丸まっている。にわかに聖が沈黙を破った。

「ごめんね」

 モールスは黙っている。最善の方法をモールスは知らない。モールスは、聖にとっての最善を叶えてやる義理﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅がないと思っているし、モールスや人々に不足しているのは、行動力ではなく、耐えて沈黙する力だった。

 何かを口にすべきか、このまま黙っているべきかと、モールスが判断に苦しんでいると、ふいと聖は立ち上がって着替えた。

「初日の出って終わっちゃったかなあ」

 聖はベランダのカーテンを開け、戸を全開にして外に出た。1月の薄明の冷気が部屋に吹き込み、松田くんはこたつへ逃げ隠れた。隣の事務所のビルをはじめ、建物に遮られてここから見える空は狭い。夜が終わろうとし、闇が西へじょじょに引いていくが、東の空の様子は分からない。

「屋上行きますか」急いで着替えてカメラを抱えたモールスが尋ねる。

「行けんの?」

「事務所の上なら、たまに洗濯物を干しに使ってるんです」

 泣きはらして赤い目の聖にようやく希望が見えた。あ、良い顔かもしれないと直感して、モールスはカメラを抱えなかったことをほんの少しだけ後悔した。だが、このように記録に残らなかった顔・姿・笑いはこの世にあまたあるだろう。目の輝きは魅力的だったが、痩けた頬に気がつくと髑髏を連想してしまうので、撮らなくてよかったとモールスは自分を納得させた。

 ふたりはベランダからではなく、地上に降りて、隣のビルの屋上を目指した。街はけっして無人ではなく、夜勤明けだろう人々、これから出勤するであろう人々、朝まで飲み明かした人々、帰る家のない人々が、いつもどおり、まばらに、夜明け前の街を歩いていた。

 エレベーターと階段で屋上へ行く。吐く息は白く、火照った頬に冷気は刺すようだ。息をととのえて早朝の渋谷を見晴らす。「だいじょうぶ、まだ昇ってない」東の方角は建設途中の高層ビルが巨大なシルエットとして空を塞いでいる。

 地平線にも灰色の雲が帯になって広がっている。が、その向こうの空は闇が遠のいて、黒が青に変わり、桃色が混ざり、白い光に染まる、夕焼けとは逆順のグラデーションがはじまった。

「夕焼けはあんまり好きじゃないの。終わっちゃうから。なんで日が昇るのも沈むのもおんなじことなのに、夕焼けだけ悲しいのかなあ」

 聖は少年時代に作った夕焼けの歌を思い出した。夜も昼もなくなってしまえと本気で呪って作曲した。渋谷から西の方角を振り返ると、まだ青黒い夜の闇が一帯を覆っていた。あの方角のどこかにいるはずの徳仁を聖は想う。まだ眠っているのかな。東の空の明かりに視線を戻し、どこかで同じ空を見てあくびしている青野のことを考えた。お姉さんの尋子ちゃんと一緒に、きっと海辺にいるんだろうな。

「聖さん、そろそろ」とモールスが声を上げる。

 雲の帯の向こう、オレンジ色の光が一点に集まる。堰を切って、わずか一瞬、狂ったダイヤモンドが東京中に輝いた。

 シャッターを切る音に聖は振り返る。モールスは構わず振り返らないでくれとジェスチャーしたが、聖は前髪をなでつけてそのままピースサインを続けた。

 何枚か写真を撮ったあと、モールスは上着のポケットから36枚撮り使い捨てレンズ付きフィルムを取り出した。「それいる?」と聖が尋ねる。「そっちのカメラいっこでよくない?」

「聖さんだってギターいっぱい持ってるでしょう」

「えーいま2本しかつかってないよ」

「じゃあオレもです。これとこれだけ。あと、こっちは日付が入るんで、現像したら楽しいっすよ」

 逆光がいまは美しく作用した。けっして無人ではないが、いつもより静寂な東京のスカイラインを、はじめて清らかだと感じられた。この都会の汚穢にも汚穢なりのひたむきな輝きがある。

 聖の表情も良かった。ぜんぜん格好良くないし、ついさっきまで号泣していたへにゃへにゃの笑顔だ。これのどこがロックスターだ。

「2001年は1月1日はゾロ目になるんすよ。01年・01月・01日だから、日付が010101になります」

「あ、そっか。じゃあもう、明けたんだね」

「おめでとうございます」

 めでたいかな。めでたいってなんだろう。聖はほかのことに気がついた。「じゃあもう、あれ、あの袋、開けていいんだよね」聖はポケットをあさり、太陽に貰ったときから入れっぱなしにしていたお年玉のぽち袋を取り出した。

 中身は2枚の紙だった。1枚目は楽器屋の商品券で、機材を増やす足しになる額だった。2枚目は折り畳まれた和紙だった。帆に『宝』と書かれた和風の帆船の絵と、詩の一文が筆文字で綴られていた。

 

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
波乗り船の音の良き哉

 

「オレのぽち袋にも入ってますよ」

 モールスも全く同文の詩を見せた。

「モールスのそれだけ?」と聖が尋ねる。

「いや、もう一枚……便箋かな……?」

 紙を広げると、太陽のメモ『冬休みの宿題』とまったく同じ筆跡で短文が書かれていた。

平成13年1月1日

毛利信護 様

ファイネッジレコーズ
代表 木場太陽

社員採用について

拝啓 あけましておめでとう

表題の通りあなたを社員として採用しますのでここに通知いたします。まあモールスの自由だけどさ、もし撮り足りないものがあればここにいなよ。卒業してからでいいんでお返事きかせてね

敬具(ねこのイラスト)

「それ、それなに?」と覗き込む聖に、手紙を手渡した。聖は二度読み返し、「どういうこと?」とモールスに尋ねた。

「えーと、つまり」

 目を離したすきに日はずいぶん高く昇っていた。夜は終わり、東京の隅々まで新しい朝日が照らした。

「つまり……卒業しても、しばらくはまだ事務所にいるんで……〈今年もよろしく〉ってことです」

 一瞬目を見開いた聖はまたたく間に頬を緩ませた。まだ泣き足りないような顔をしている。

「いなくならないの?」

「オレはまだ、聖さんたちを撮りたいんです」

「じゃあ、〈おめでとう〉だね。あけましておめでと」

 モールスにもその場の感情は伝播した。

「はい、これからも、よろしくお願いします、聖さん」

「えへへ、信護泣きそうなんだね」

 どの口が言うか、とモールスは考えた。

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