結局尋子は別行動で、再び『スコーピオ』へ向かう。高校生大学生の溜まり場とばかり想像していたが、入ってみると案外にもフロアの年齢層は高く、一つ目のバンドはジャジーでグルーヴィーでオシャレなオトナのコピーバンドだった。
わあ。
同伴者はフロアで散り散りになってしまって、独り壁際でアルコールを飲んでいると、「あたしのこと覚えてないでしょ」と昼間にライヴハウスの前で見かけたお姉さんが現れた。
「さっきドリンクを入れてくれたし、チケットも切ってくれたね」
「もっと前。それとまだジンフィズを飲むには数ヶ月早いはずだよ、青野理史くん」
そこで改めて向き直った。「軽音の……」名前が出かかっていた。「篠原の……」ギターボーカルの当時の彼女で時々歌手として入っていた……彼女が答えを明かす。
「影山マリナ。篠原とは別れたよ」
岸辺から浮き輪が投げられて、流されかけた記憶を引き止めた。当時都合の良いベーシストとして部内のヘルプ係だった青野と、本当の本当にごくまれにキーボードを弾いた緑川“ジゾ君”を除き、軽音に出入りしていた男子ほぼ全員が「女子の中では影山マリナ」と熱い期待を寄せていたのが彼女だった。
「なに、上京したら、みんな忘れちゃったってわけ?」
「恐ろしいスピードで薄れていくよ。あっという間。影山さんは何を?」
「あたしPAになろうと思ったの」
今年になって専門学校に入り、帰省中の今はスコーピオでバイトしている。「去年は篠原の面倒見てたら終わっちゃった。あいつと一緒に、よく大宮でステージに上がったけど、あたし楽器も出来ないのに歌ってるだけでバカみたいに思えて、あいつもあいつで前列の女の子に目移りして……」
バンドがカーペンターズの『Rainny Days And Mondays』を情感たっぷりにアレンジする。ピアノの音色が朝露みたいにキラキラ跳ねてフロアをうっとり満たす。
話せる人がいなかったと影山マリナは打ち明けた。高校の仲間は散り散りで、女友達はいまだに篠原に幻想を抱いている。おかしいなと青野は思った。影山マリナと話した経験なんて在学中ほんの数度しか無かったのに、この1年の出来事なんて聞いている。篠原のラウドなばかりのリフを思い出す。
「それで、篠原はまだ残ってんの?」
「このあと出るよ」
そう言って次に始まったのがしっとり沈んだボサノヴァだったため面食らったが、「三番目」と影山が注を入れる。「このひとたちの次」
「メンバーは?」
「あんたと緑川とあたし以外全員」
「ベースは?」
「新しく入った“女の子”」
「はあ」
水の底であぶくを堪能するようなゆったりとした時間が流れていた。この音像はアルコールと親和性が高い。ほろ酔い気分に浸っていると、影山マリナがコップを奪って飲み干してしまった。「もう一杯作ってやるから」「水でいいよ」そう言ったけど彼女は二杯ジンフィズを注いできた。
ウェービーな黒髪の女性ボーカルがキーボードに指を滑らせささやき歌う。
「ティアドロップさん。親切な良い人たち。さっきのO-Jay,Bandsさんも本当に良い人。うちのハコは来るもの拒まず」そうやって次の言葉を溢した。「篠原はあたしがここにいることを知らないんだよね」
「篠原は、まだここにいるんだ? あいつなんてすぐに東京に出ると思ってた」
「東京なんて何とか通える距離だからね。今は大宮拠点でやってる。えんがちょできたと思ってたのにこんな所に出やがって」
「影山さんは今どこ?」
「世田谷」
「あ、俺もだよ。あのさ、秋になったら……」
「なに、ナンパ?」
「違うよ、エンジニアの話を聞きたいだけ」
そこではじめて1年間の青野の物語のあらすじを明かした。
「あたし青野くんにすれば良かった」冗談にしては目を見開いて影山マリナは呟いた。高校の時は抜きん出ていた彼女の魅力も、この1年を徒労に終えたためなのかくたびれて見えて、長いサラサラの茶髪も今は少年みたいに短くしてキャップを被り、こざっぱりとした職人的風貌に変わっていた。男子高校生達は彼女のスカート丈と髪の毛のツヤしか見てなかったのかも知れない。
「それって、そのバンド、緑川も一緒?」
「いや違う。一枚噛んだけどあいつはいない」
「あいつ今何やってんの」
影山マリナが意外にも面々を気にかけていることに驚いた。篠原とその華やかなご一行以外は歯牙にも掛けていないと思っていた。いや、俺もご一行の一員だったのか? 楽しかった思い出は後輩にせがまれて弾いたスピッツの方ばかりだった。
あのバンド、と二人は思い出す。あのバンドには名前が無かった。青野が去りマリナが見限ったそのバンドの今の名前はErrie、というのも次のベーシストが1年後輩の立川えりちゃんだったから。
「それじゃ俺が在籍してたのはマリナーズだったのか?」
「冗談でもそういうこと言わないで」
青野の現状も紹介した。「誠実にやるように試みてる。ノリづらいところもあるけれど、気持ち良く、心地良いように努めてるし、メンバーも少なくとも篠原タイプはいないよ。今日も実は来ててさ……」ざっと観衆を見回したがすぐには見つからず、唯一発見したのは姉の後ろ姿だった。
「何人?」
「スリーピース」
「ギタボは?」と訊いた彼女の顔にはすっかり痛い目を見たあとのギタボ不信の眼差しが貼り付いていた。
「あいつ猫にしか興味ねえよ」反射的に返したが、別の不信感を招く答えだった。
素敵なボサノヴァが終わってしまって、ゆったり拍手しながらも、二人は過去の亡霊みたいに現れる次のバンドを直視できるのか不安になっていた。
「青野くん」改まってマリナが言う。「このあとステージに立ってくれない、篠原たちに聴かせた方がいいよ。あんたがマトモにやってきたって教えてやらないと」
「それって、ブッキング料とか、楽器とか……」
「気にしないで。今日の演目が全部終わってからでいい。フリーライヴってことで……待って、これ依頼する態度じゃない」
「そんなんで気悪くしないよ」視線を泳がせてメンバーを探し、ようやく田邊らしき人影を前方に見出した。
照明が変わり、先程まで見かけなかった女の子たちの黄色い悲鳴がErrieを迎えた。ビジュアル系と呼ぶにはカジュアルな装い。逆立てた篠原の明るい茶髪。時代が生んだハイブリッド型らしい。
「なるべく穏健に伝えるよ、『あとでステージで弾いてもいいよ』って風にさ。俺たちの思い出話とうちのメンバーは無縁だろ……」
青野の言葉はフェンダー・ムスタングの轟音に遮られた。マリナの独り言は無声の口パクにしかならなかったが、意味はなんとなく察せられた。「あれはあたしのバイト代」
気付けば女の子たちに囲まれていた。聖の背丈は彼女らに埋没する。頭ひとつ抜きん出た田邊はステージに立つ四人組を観察した。ギタボ・ムスタング、ギター・ただのストラトモデル、ベース・ただのジャズべ、ドラムセット・ライヴハウス据え置き。身に覚えのあるがむしゃらさが恥ずかしい。ただ、俺もひとのことを言えるほど偉くなったとは思えないが。
何であれ反面教師として活かそうとする田邊は、強烈な自己主張を叩きつけるErrieのバランスなき音圧を浴びて、ボーカルの音量が楽器に埋没して聴こえなくなってしまうのではなく、聴こえなさを意図して魅せるための手段に思考を巡らせていた。一つ前に聴いたボサノヴァは良いヒントを与えてくれそうだ。Errie的轟音を四組聴くことを想定していた田邊だったが、O-Jayとティアドロップに1000円ずつ支払ったと思えば安すぎるぐらいだった。
聖を見失ったが、まあ良いか。女の子たちには俺は邪魔みたいだし……と、MCの合間に後方へ退散した。足元を見れば皆厚底サンダルやらハイヒールやらで、おっかないことこの上ない。後方壁際に青野弟を発見して側に向かうと、そのガールフレンドが田邊を見上げた。殆ど叫ぶように会話する。「これがギタボ?」「ドラムス」「最近思うんだけど、パーカスってバンドで一番マトモだよね」「今日の徳仁はモテるな」
ミスってないのに広がりがない、薄っぺらい轟音の行方を田邊が思案していると、それはErrie最後の1曲の感動のフィナーレだったのだが、篠原は自らまだ響いている弦に指を触れて終演の余韻を壊し、不協和音が当惑を招いた。
マリナの眼差しが舞台を射抜く。
ステージ上のギタリストはマリナと視線を交わした。音楽の流れる時間が絶たれた。それが驚愕と愛憎の表情であると青野は知っていたけれど、あまりに寂しげなほど顔つきは静かであった。
愛? 彼の当面の論題が首をもたげる。
どよめく女の子たち。フロアの胸の奥が冷えていく。
「シノ」、青野が顔を上げ叫ぶ。「みんな続けてたんだな。少しも変わってないよ」マリナには挑発にしか受け取れなかったが、青野の微笑気味の横顔は何とも懐かしい表情だった。ただしフロアを隔てて言葉の意味はステージ上まで届かない。マリナがPAブースからハンドマイクを1台持ってきた。もう一度彼は繰り返す。「懐かしくて驚いたんだ。文化祭を思い出してさ……」と言うものの青野はいまだギターとドラムスの名前を思い出せないでいた。ステージ上の彼らもまた記憶の糸を辿りながら、後方でマイクを握る見覚えのある乱入者を見つめていた。篠原も青野と同様に、互いの名前を思い出せないでいるようで、黙り込んで静観している。取り巻きの女の子たちが青野らを振り返って興味深く眺め、ステージ上の立川えりは後方で俯いている。もしかして彼女だけはとっくに合点がついているのかも知れない。
「あの頃のまま続けてたんだな。でも篠原、くすぶってる気がするよ。俺もね、ずっと続けてきたんだ。良かったら聴いてくれないかな、俺たちの曲も」
青野が語るそばから前方の人だかりがざわめき立った。少ししてフロアのバーをくぐってステージに平然とよじ登ったのは、聖だった。スタンドからマイクを引き抜き、「あー、あー」とマイクテスト。
「くすぶってるっていうのさあ、たぶん聴き取りづらいからだよ。音圧がずーっと一緒だし、ムスタング、使いにくいよね。あんまり音に合ってない感じしたんだけど。たとえばこの人とこの人、逆にしちゃえば」と、篠原と隣のストラトキャスターを指す。それからごく自然にストラトを取り上げて、即興でヴァン・ヘイレンの『Eruption』風に爪弾いてみせた。30秒ほどの間みんなぽかんとして聴いていた。
「それで、どうかな? 5組目の乱入っていうのは。今夜のおまけの酔い覚ましにみんなゆっくり聴いてってねって。みんながよければやりたいんだけど大人の事情で出来ないかもしれないから、名前だけでも覚えてってよ。後ろでマイク持ってた人が古河出身、トーキョーでやってるスリーピースバンド・Drive to Plutoでーすイエーイ! ファイネッジレコーズから1stシングル『A Cat on Car Bonnet EP』発売中だよー!」
どこかで湧いた拍手を皮切りにフロアがおおらかに同調した。
「ありがとー突然ごめんねー、じゃあ準備してきまーす。最後にErrieちゃんに大きな拍手ー」
篠原にマイクを預けて颯爽と下手に退散した。釈然としないまま拍手に見送られてステージを後にした彼らは、バックヤードでふたたび聖に出会う。
「どういうつもりだ」乱入者に噛み付く。
「つもりなんてないよ。青野クンがやりたそうだったからやろっかなーって思っただけで。でもさ、お客さんが乗れないとしたらそれは自分らのせいだからね。途中でやめちゃダメ」
後輩を諭すような朗らかな口調にいらだちが募った。しかしこのバカテクのギタリストのからっとした言葉遣いと顔立ちににまるで悪意がないことにも気付いていて、感情の捌け口は塞がった。
小柄な侵入者はいつの間にか篠原の視界から消えていた。4組目が舞台袖で時間を持て余している。
次にステージに立つ手筈だったネオアコ系バンド・leafie seaは乱入者に怒ってもよかった。ニコニコと5組目の存在を快諾したのは、偶然にも彼らが木場太陽の信奉者だったからに他ならない。ティアドロップは大らかそのもので、O-Jayは大人の余裕でもって応えた。リハーサルの暇もなくDrive to Plutoの待機時間は方々への謝罪に費やされた。
大人げなかったなあと青野は思う。機材はErrieに借りた。聖はムスタングを使いたがったが、そんなに気前が良いはずもなく、レンタル品はストラトだった。
「唐突でないと俺たちは何にも出来ないのか?」田邊の問いには多分に呆れが込められていた。「ごめんね」と返すマリナはさほど申し訳なさそうに見えない。聖が即席のセットリストを持ち込んで意見を仰いだ。
『Speedometer』と未発表曲の『sque easy』『Empty Hall』。
「出来んのか?」
「すくぅいーじはあぶなっかしいけど、こういうの挟まないと冗長になるでしょ。エンプティホールは青野クンの調子による」聖だって万全のはずがない。
青野に機材を貸した立川えりは黙りこくっている。極端に内気らしく、即ち影山マリナとは真逆の人物像で、篠原とそういう間柄とは信じられない。謝罪やお礼をいろんな調子で呼びかけたが、どれにも彼女は応えずに目を伏せたままだった。
本来のトリのleafie seaが暖かい拍手のなかアクトを終えた。「いい感じだよ、Driveさん」「僕らのことも太陽さんに宜しく言ってよ?」
深く礼を述べて、舞台へ向かう。袖で最後の呼吸合わせ。
「大見得切った割にはイマイチかもしれない」
「青野クン、こんなかではどれが好き?」
セットリストをしばし見つめる。
「Empty Hallかなあ」
「じゃあ絶対大丈夫だ」
「いや、まだ迷ってんだよ、Empty Holeの方がいいかなあって、これダブルミーニングで……」
「聞こえの良いダジャレってこと?」
「要するに、『エンプティホール』の初披露だろ」
Errieも先輩らもフロアに回った。闇のなかで少し時間を貰ってセッティング。見計らって光が灯る。
少しの気恥ずかしさのなか、青野がマイクに語る。
「乱入させてもらいました。どうもありがとうございます、Drive to Plutoです」
視線の先に姉の姿を垣間見た。船旅の経験は無いけれど、ステージを見つめる眼差しは埠頭に立った見送り人に似ていた。