flat *

1 2 3 4 5

 定番の『Speedometer』が轟いた。聴こえそうで聴こえない歌の妙なパワーバランスに、フロアは頭を捻り、じきに飲み込み、飲み込まれた。

 篠原にはギタリストが歌とギターのあいだで立場を持て余しているようにも聴こえた。もしもギターを弾き続けるために歌うことを切り捨てたのなら、それはもったいないことだ。割り切ってシンガーを招き入れればいいのに、と、思いはするものの、弾きながら歌うあの並行状態の高揚をなまじ知っているだけあって、ありさまを否定することは出来なかった。俺がもしもプロデューサーだったらこの矛盾を抱えた少年をどうしてやるのが正しいんだろうか。思案しながらも今まさに借り物の安ギターで繰り出される音楽を聴いて、大きな意味での自分の無力さに思い至って胸が詰まった。

 そしてギタリストの手綱を引くかつての同級生の姿を目にし、かつて交差した二人の人生がそれぞれにもう交わらない方向に伸びていくのを肌で感じた。ステージ上の旧友は別人に見えた。青野本人が気付く前から、彼を見守る人々の観察眼は正しかった。

 影山マリナは篠原が立ち尽くして聴いていることに驚き、いつの間にか篠原と並んで立っている自分にますます驚いた。彼らの歌を聴いて、はじめは真っ向からPAの役割を否定されたような気にもなったが、誰かを煙に巻いたり貶めたりする意図などないということはすぐに悟った。混沌の試みは生真面目極まりない。

「聴こえない音楽」

 頭のなかでマリナは声を上げていた。その相手が篠原なのか青野なのか、マリナは知らない。

「そうだよね、青野、難しいこと考えてたよね」

 腑に落ちてから音楽を聴くマリナの体は自然にスイングを刻んでいた。

 尋子はと言えば、夢でも見ているようだった。夢のようだという喜ばしい表現ではなく、眠りの間に訪れる奇怪な症状としての夢のようだと。予知夢でも悪夢でもないが、時間が引き伸ばされたような空間がねじれたような、見知った場所に居るはずのない人物が現れたり、場所と場所があり得ない繋がり方をしている。夢のさなかにいるうちは実は混乱していない。何が起こってもそんなものかと素直に翻弄されている。けれど目覚めて、普段の理性を取り戻した瞬間に、異物感に首を傾げる。

 だから尋子は楽曲をまるで聴いていなかった。瞬間瞬間に聴こえる音を聴いていたが、Aメロやサビというパーツの概念やテーマ性だとかいう言葉の上での説明はどこかに溶けてしまっていた。夢を傍観するときのように、思考が時間に流されていた。ステージに立っているのは半分彼女の知った人ではなかった。それでも後になって、尋子だけは、変わりつつある弟の変わらない部分を思い出していた。例えば力んだ表情は、変わりようのない弟の顔立ちだった。

 夢にしては分かりやすい理由で、尋子は与謝野晶子の一節を口ずさんでいた。

 

 キラーチューンの『Speedometer』でプレイヤーの調子はひとまず温まった。借り物の機材ではあるが、弘法筆を選ばずと腹をくくり、一旦MCを挟む。勝手の違いに引きずられながらも聖の目はらんらんと輝き笑っている。マイクのスイッチを入れて、「だいたいこんな感じ。でもこれからもっと、曲つくるから。いろんなのやってみたいな……で、次の曲は、ほんとはけっこうシューゲなんだけど、今日は足りないから、ちょっとクリーンめで何とかしてみるね」

 言いたいことだけ言うと早々にマイクのスイッチをオフにした。沈黙の意思の表明としてはこれ以上にない感じがした。

 コードストロークをアルペジオに代えて試奏。幾度か弾いて、いけると踏んで、少し振り返った。青野はチューニングを微調整している。ドラムセットの方を見ると、田邊がいて、そうだと言われても気付かないほど微細に首を傾げて見せた。青野が手を止め、ゆったりとした曲線的な姿勢で立つ。×を掲げたドラムスティックがはじまりの4拍子を刻む。

 デモ盤『sque easy』は高低二人のエレキギターを歪ませてノイズで彩った音色で組み立てられていた。エフェクター不足の代用に即興で爪弾かれるアルペジオは繊細ながら奇怪に音符を踏み鳴らし、もう一人は夜闇の波音にも警告のブザーにも似た低音のうねりを引き伸ばす。歪んだ時間を絶え間ないドラムビートが規定する。そしてギタリストは電源の切れたマイクに向かって叫んでいる。

 意味が意味にならない意味に格闘する3人組。というか、意味が意味にならないように細心の注意を払って暴れ回っているようにも見える若い3人。

 調子の良し悪しではない何かが彼らの中で変わっていた。弾き慣れない新曲だから/機材が違うからという外付けの理由ではなく、奏法らしきものに内因した来るべき変化は、このとき突然姿を現した。怪物の名前を3人は知っていた。それは自分たちが名乗った名前だった。

 そのときの彼ら3人は、自分が鳴らしている音それ自体に飲み込まれて標を見失いかけていた。音楽に対し企てた混乱が企み以上に働いて、意識の居場所を失う寸前だった。流れる時間に引き剥がされようとしている。戻ろうとして、暗闇のなかで互いに手を伸ばして繋ごうと試みるような、無防備すぎる時間が訪れた。鳴らし合う音を聴き分けようとして、耳を澄ますとますます混沌が襲う。音と音が重なり高まり合うも、エネルギーは靄のように停滞し形にならない。募るだけでどこにも向かわない。転げる大きな車輪と同じように、立ち止まって立て直すことは叶わず、弾き続けているからどうにか自立していられるという境地だった。誰かが失速して弱音を吐いたならみんな一斉に倒れてしまっただろう。このまま合奏を継続したら音楽は重力崩壊を起こしそうだった。

 舵を切ったのはベースだった。徐々に企てたのは最後の1曲『Empty Hall』のイントロの、聖が気に掛けていたベースのソロで、彼の決断によって時間の流れる方角が変わり、音楽は視界を取り戻した。立て直す。ギターが低音に肩を貸した。目配せを交わす。大丈夫、分かってるよ、心の中で微笑み合い、互いに察する余裕さえ生まれた。

 するとでしゃばっていた怪物が背後に引っ込んで、フロアに大きな腕を広げた。その意識の霧の晴れ上がりは、スモークを使った比喩ではなく、彼らの意識に見えていた。十分に体勢を整えたら、あとはオーバードライブを踏み込んで迷わず進むだけ。

 

 そうして始まった『Empty Hall』は今までになく冴え渡っていた。『sque easy』の終焉に訪れた混迷とは真逆に、明晰さがほとんど1曲の間中持続した。楽しいという言葉の修辞は誰も頭になかったが、そのとき知覚したクリアな興奮は思い返せば楽しかった。例えば青野はその時はじめて自分が書いた歌の意味を悟った。

 全部見えて全部聴こえた。その晴れやかさはステージを見上げるひとびとの表情に確かに反射していた。『Empty Hall』の名の通り孤独と中空を書いたこの歌は、フロアに集まる明るい気持ちとまるで一致しない音楽だった。でもそれでいいんだと聖の半身は思っていた。片方はDrive to Plutoと名乗る奇怪でたまに残酷な音楽のためのパートのひとつ、もうひとりは今を楽しむ秋山聖という名前の人物。Drive to Plutoと聖がいつでも同一の存在でなくても良かった。それを分かっているから歌詞の意味と聖の心情はそのとき一致してなくて、聖は自覚しきれなかったが、この場にいる人々すべての幸福を願って叫んでいた。

 終わることさえ晴れやかだった。たっぷりとサービスの余韻を響かせてから、停止のためにドラムが速度を緩め、充足感のなかで顔を見合わる。飛び跳ねて振りかざしたギターのヘッドが絡まる音楽を断ち切った。

 完成した。息を切らしながら口角はゆるんだ。マイクをオンにし忘れていた。

「ありがとう、Drive to Plutoでした!」

 手柄はすべて怪物の名のもとに。

 

 『スコーピオ』の隣のラーメン店『斜浦シャウラ』の座敷席で、今日の奏者とスコーピオ店長の外村氏、影山マリナ含むスタッフ一同が夕飯を共にした。酔いが覚めた、というより余計に悪酔いして、青野は関係者各位に執拗に平謝りして回った。

 あっさりした塩スープに柔らかく分厚い焼き豚が乗って麺は細麺。外村氏は気前良く若者らの分を支払った。

 隅の席で0.5人前と1.5人前をすする聖と田邊を、瓶ビールを手にした影山マリナが訪れた。遠慮しながら田邊は1杯だけ貰う。向こうでは青野が先輩方に酒を注いで回っている。「青野くん変わっちゃったよ」とマリナが語る。「高校の頃なんて、なんで軽音にいるのか分からない典型的な図書委員タイプだったのに。いつの間にビール注ぐの上手くなって、めちゃめちゃ飲むし」

「サークルだろ」

「サークルでバンド組んだの?」

「いや」田邊が目を伏せると、聖は別にどうでもいいという様子。「俺たちは東京出身で、俺たちでずっとやってて、そこにあいつが入ってきた」

「青野、けっこう踏み込んでいくんだね」

「なんで一緒にやってるんだろう」

 大人たちと青野は談笑し盛り上がっているが、Errieはどこか遣る瀬無い感じ。

 食事もそこそこに聖は席を立って、篠原らの元へ歩いて行った。

 麺をすする田邊とマリナが現場を静観しながら語った。

「あ、あと、青野ね、ちょっと太ってた」

「……はあ」

「ポッチャリじゃあなかったけど、アゴの下とかちょっとスベスベした感じだった。二の腕はむっちりしてたかも」

「会ったときにはそうでもなかったけど」

「アゴの下がえぐれたみたいでビックリした」

 聖はErrieの席に加わり音楽的高説を垂れ始めた。「まずは、ベースなの。そこで強弱がちゃんとつけばオッケー。抑揚? ってトクが言ってた。ノらなきゃ。というか、決めるのは、ベース。絡みあってって、ギターと繋がってくれるのはね」なかば立川えりを口説くように。「1ヶ月ぐらい毎日しっかりやればできるよ。青野クンだっていちばん最初のライヴは1週間で仕込んだんだし」

 あどけなさの残る聖の姿と言動の力強さに、だんだんえりは気を許していた。

「あれはタラシ?」ギタボ不信のマリナが呟く。

「違う」と田邊。「あれは他人のことミュージシャンとしか見てない」

 マリナが嘆息する。「自分以外のことなんてほっとけばいいのに」

「俺もそう思う」しかし立ち上がった。「でも程々で挨拶しないと、礼も言わないといけないし、あいつが殴られると俺が困る」

「え?」訊き返すマリナに田邊がつられる。

「今俺なんて言った?」

「あいつが殴られると俺が困る」

「そうなんだ」ごくぽつりと呟いた。Errieの席に青野も現れ、立川えりとベース談義を広げる。殴られるとすれば出来上がっている青野の方が可能性が濃厚だった。二人を置いて代わりに聖が戻ってくる。

「PAさんなんだ」

「専門学校生だけど」とマリナ。

「じゃ、あの、よろしくね。広げてくれるの、難しいから。すごいけどね、いいと思うし、そしたらこんどは色々やろうよ」

 それだけ喋って満足げにして、それからは残りのラーメンをすすって何も喋らなかった。漠然とした賛辞にマリナも言葉を返さなかった。

 青野とマリナが連絡先を交換した。

「じゃあまた」

「東京で宜しく」

 他数名とともに駅方面へ消えていく影山マリナの背を見送っていると篠原が現れた。酔いが覚めるとバツの悪さもついでに抜けて、公正な気持ちで向き合えた。

「変わっていくよな」とどちらともなく語る。

「でも本当は、変わっていく途中だったんだろうな。初めから」

「だって俺たち、あのころ高校生だぜ? 毎日学校行って、平凡で、変わりようがない」

「これからどんどん素直になれる」

「俺たちってそこそこ仲良かったと思ってるけど」

「俺もそう思ってた」

 なんとなく目を伏せる。コンクリートに突っ立った足元と汚れ始めたスニーカーを見つめる。

「まあ……やっていこうな」

「そのつもりだよ」

 青野は付け足した。「俺ひとりじゃないんだし」

 晴れやかに別れたが、Errieのバンドメンバーの名前を青野は訊きそびれていた。

 

「なんか、完全に、酔っ払ってた」

「キミ思いのほか酒癖悪いでしょ」

「いや、それは違うよ、ちょっと舞い上がるだけでさ」

「ちょっとなのかなあ?」

「困ったな」

 20分歩いて宿に帰る。その間に反省会。

「何もかも急過ぎる」

「はい」

「用意がない」

「はい」

「楽器」

「はい」

「他には」

「付き合わせてごめんな」

「そうなんだけどさ」

「トクも理史も暗いことしか言わない」

「リズム体は、気が合うから」

「合わせなきゃ」

「そんなの屁理屈だよ」

「反省会だからな」

「反省って、いい反省はないの?」

「あるよ。というか本来良し悪しはない。過去起きたことを振り返って、良し悪しを考えるのが反省」

「じゃあ、あの、良かったんじゃん、でしょ? だって今日、良かったじゃん。それでいいでしょ。良かったよね?」

 良かった。そう言われて彼の無邪気さにぞっとしてしまいそうな自分がいた。

 『sque easy』と『Empty Hall』は次の1stアルバムに載せる運びになっていた。今日のあの混迷の瞬間、彼らは音楽を生み出すバンド自身と対決していたのかもしれない。3人の総和と「Drive to Pluto」が時に一致しないことに気付き始めていた。これから彼らは彼らの音楽とたびたび拮抗し、時に隷属を強いられる道を歩む。

「俺は怖かった」、そうバラしてしまいたかった。音楽が空中分解しかけたこと。音楽に乗っ取られそうになったこと。怪物の身体に触れたこと。今なら、今日の終わりの今だけは弱音を漏らしても良いはずだけど。

 それでも果敢に、クールに無邪気に、やっていくしかなさそうだった。

「ね、がんばってこうね。やろうねぇ」

 頷くしかない無邪気さに笑った。そして、今日一日を消灯する。

 

 いつからか、眠りが浅い。

 薄明のなかでふと瞼が開いてしまう。カーテンの隙間から真っ白な日差しが部屋に差した。

 客間の雑魚寝の肌掛け布団が乱れていた。暑さで蹴飛ばしたんだろう。窓辺に這っていって少しガラス戸を開けると、冷ややかで清潔な風が吹き込んだ。昨夜は網戸も閉め忘れていた。

 また布団に潜り込もうと試みるも、眠りは訪れず、布団の上に座り込む。

 薄明のなかでふたりの間抜け面を見ていた。普段の気難しいマジメ顔が解けて緩みきっている。借り物のくたびれたTシャツはサイズが合わなかったり、めくれ上がって背中が見えていたり。かすかに胸が上下する。生き物を見つめているうちに、ふふっ、と、微笑みの発作が襲った。

 小さな声がしてそちらを見やると、耳の端と背中の一部がぶち模様の、胴の太い白猫が見つめていた。

「ユキちゃん」すぐに分かった。ユキちゃんは小さく囁きながらしっぽを立てて歩み寄った。頭を撫で、毛並みを撫で、擦り寄るままにさせてくつろぐ。「来てくれたんだね」しばし憩いを味わっていたが、喉が渇いて、ユキちゃんとふたりでぺたぺたと台所を探した。

 キッチンの先客の尋子がふたりを見出した。「おはよう。早いね」

「お水ちょうだい」

 人に麦茶を、猫には水をやった。

 腕の痕跡を尋子は見つけていたし、痩せぎすなことにも気付いていた。憐憫なんてどうしようもない感情だと尋子は思う。

「昨日」と尋子は切り出した。いつでも明るく、それが彼女の愛。「格好良かったよ、すごかった」

「そうでしょ」返答は雑味のない自負だった。冷たい麦茶が喉から四肢に沁み渡る。

 金髪は寝起きで広がっていた。無理なブリーチで痛んでいる。トリートメントなんかすると良いと尋子は言った。「大事にしないと駄目よ、ステージ映えするし格好良いんだから」

「本当?」

「その気があるなら毛先だけ色を入れてみても良いかもね。赤とか、嫌じゃなきゃピンクとか」

「それだったら、ちょっと水色にしたい」

「いいんじゃない、スターっぽくて。その時はやってあげよっか」

 本心から微笑み合った。

「ね、Drive to Plutoって誰が名付けたの」

 ユキちゃんが聖の脚に擦り寄る。

「理史だよ」その大きな体を抱きかかえて、膝に乗っけたユキちゃんに聞かせてあげる。

「いまはみんなのものだけどね」

1 2 3 4 5

PAGE TOP