再び『GLAD』の扉を開けると田邊は温タオルを目にかぶせて眠りに落ちていた。
尋子が器具を片付けている。今しがた終わったところらしい。
「どこまでやったんだ」
「全部。散髪顔剃り眉毛カットにマッサージ。あとお昼寝タイム」
『安眠コース』とは寝落ちた客を起こさない回転効率度外視のサービスである。
「サイド刈り込んだらずいぶん格好良くなったよ? まあ、元から良い骨格してるけどね」
のれん一枚を隔てて店舗から住居へ繋がっている。「そいつ起きたら俺の部屋に呼んで。俺が起こしにいく方が早いかもしれないけど」
窓辺のサボテンを見つめていた聖を呼んで、靴を脱いで上がる。台所に立ち寄って買った飲料を冷やしておく。青野の母が現れる。
「理史、友達呼ぶなら、もっと早く言いなさいよ、今夜の献立困るんだから……」
「いいよ、食ってくるから」
「あんたの布団も干してないんだからね」
「客間の布団貸してよ。俺もそれでいい」
言い合う母子を聖は眺めていた。古ぼけた居間、カレンダーの書き込みやゴミの日の区分、冷蔵庫の扉にピカチュウのマグネット。また手首が痒くなってそっと撫でる。生活臭にむせ返りそうだ。
「そういや、親父は」
ふとしたふうに青野が尋ねる。「競馬」そう言い残して母は台所を去った。
麦茶を注いで二階へ行く。夫婦の部屋と子供部屋ふたつ。北向きの四畳半に、ありがちな学習机とベッドと本棚とクローゼット。部屋に閉じ込められていた熱気に押され窓を全開にする。やがて良い風が吹き込む。
「ユキちゃん出掛けてんな……あいつ朝帰りばっかりなんだよ」
床も机上も掃除されていたが、それでも埃っぽさは拭えない。そこに寝起きして生活している者のいない不在感が部屋を古ぼけさせる。
「下の部屋でクーラー付けてた方がマシだったな」
聖は窓から見える景色を眺めていた。展望は開けず、同じような一軒家がえんえんと並んでいる。青野はベッドに仰向けに倒れた。風景を見飽きた聖は同じベッドに腰掛ける。
「なんで上京したの?」
「なんとなく」……そうは言ったが勿論続きがある。天井を見つめる。「飽きちゃったんだ。ここには変な所もあるけど、見慣れれば大したことないだろ。単に憧れだったのかな。まあ、東京に、行ったことない訳でもなかったけど。聖だって、上京って言えば上京だろ」
もう二度と生家に戻らないと秋山聖は誓っていた。
「逃げてきただけ。安いアパートみつけたから、住めるかもってトクが決めたのが三鷹で」
「出られればどこでも良かった?」
「縁を切れればね」
リストバンドは外しっ放しにしていた。掻きむしりたくなる腕をそっと青野に託す。「見る?」
肌色の上に浮かび上がる、こまかな色の違う起伏が、浅瀬に現れる微かな漣の凹凸に似ていた。今は静止した傷跡も、かつてはうねり、荒波を立てていた。聖の腕に波間を幻視したのは青野特有の言葉だった。
痕跡の上に重ねた痕跡も見られ、最後の痕跡は見分けがつきそうだが、重ねたストロークを掻き分けたその最奥にあるはずの今は埋れた最初の痕跡を、青野は、見定めようと指でなぞった。
「ちがうよ」と聖は苦笑する。「こっち。これ。ほとんど治ってるし、残してんの」
リストバンドで隠れない腕の半ばに、言われなければ気付かない程の微かな色の違いがあった。
「痛んだりはするの?」
「気持ちの問題かも」
今は、古傷は凪いでいた。今が凪いでいるならそれでいい。心象風景の水面はとっくに静けさを取り戻しているから、もう、傷つくことはない。左手は自由自在にフィンガーボードを駆け回り、右手に持つのはピックだけだ。
「寝てんのか」
「起きてるよ」
二階に上がってごろ寝している二人を発見して田邊が問う。
誰のか分からない、汗をかいて氷も溶けたなまぬるい麦茶を勝手に飲み干す。
「なぁんか、潜ってた」
寝転がったまま青野は言う。「沈んでたって言うのかな」
「下で、スイカ切ったって、呼べって」
「うちの姉?」
「ああ」
「あ、徳、髪切った?」
「お前さ、そういう奴だよな」
「大人しく切られる田邊も大概だな」
学習机の椅子に田邊が座った。青野は寝そべったまま。
「徳、似合うよ、チューニングが合ったみたいに見違えた」
「お前はそういうこと言うよな」
「実際良いって。姉は腕は良いだろ」
「そうなんだろうな」
「新規の客には優しいからな、まあスイカ食って、昼飯も食わないと。で、こいつ起きないと動けないんだけど」
「……起きてる〜……」間抜けた抗議が聞こえた。「目瞑ってただけ……全部聞いてたあ」
「おはよう聖」
「寝てないってば……」
「スイカ切ったってさ。食べる?」
「……食べる……」
階下の涼しい部屋に降りる。
畳の間で尋子がテレビを見ている。
「いま何時?」
「2時半」と尋子。
聖は半分を田邊に寄越した。
「うん、やっぱ似合うね」尋子は田邊の成果を眺め悦に入る。「すっきりしてカッコ良くなったよ」
尋子の存在によって、皆黙り込んで、しゃくしゃくとフォークを進めている。
「みんな、お昼まだ食べてないの?」
「どっかで食ってくる」
姉弟だけが会話を交わす。
「ねえ、秋山くんはギター上手いの?」
「本人目の前にしたら『上手い』しか言えねえだろ」
「どうなの」
「上手いよ」
「こんな流れで言われてもそう受け取っちゃうじゃない」
聖は徳仁に二三囁く。
青野は最後の一口を頬張る。
「信じなよ」
と言って皿を片付けに部屋を出てしまった。
「あいつ東京で何してるの?」と、弟の友達に尋ねる。
「大学通ってる」と田邊。
「ベース」と聖。
「ねえ、秋山くんは……」
切り出そうとしたそばから聖は顔を背け、青野の去った方に駆けていった。
残った田邊が打ち明ける。「あいつは上手いよ」
「人見知りなの?」
「極端なだけ」
悪い、と呟いて、彼も席を立った。
高校の頃たまに行っていた喫茶店に二人を連れて行く。オムライスやカツカレーが出迎えてくれるスタンダードな喫茶店だ。
高校を卒業して丸1年も経つと思い出への執着も薄れていく。
漠然とした憧れだけで軽音楽部に入部して、誰も弾かないからと4弦ギターを弾き始め、友達と素晴らしい音楽に触れて回っていたうちに、いつの間に、東京・渋谷のライヴハウスのステージ上に立っていた。今のルーツは高校時代なのに、それは青春の象徴として幾度も美しく語られる時代なのに、ろくに覚えていなかった。イエスもピンクフロイドも、何よりスピッツをその頃に聴いたのだから、記憶にないはずがないのだが、他愛ない日々の思い出は川に流した笹舟のようにあっけなく記憶を滑って消えた。
思い出を選り好みしているのかもしれない。それならそれで自浄作用だ。
「ジゾんちさあ。兄貴が、滅茶苦茶なマニアで、家にレコードが大量にあってね。それで勝手によく聴いてたな。俺のルーツはアイツの兄貴だよ」
「あいつ、今何してんの」
「知らねえ。どっかで生きてるよ」この町のどこかか、東京か、もっと遠くか。
頼んだカレーはスタンダードな中辛で、レトルトの懸念を拭えなかったが、そこそこの値が張ったためそんなことはないと信じる。判断するに足りるほど舌が肥えていないのが悔やまれる。聖はオムライスを半分残した。皿はごく当然に隣の人物へと渡る。
「田邊、いっつも食う量倍なんじゃないか」
ああとかんんとか気の抜けた返事があった。食わされる割に太らないのは運動量のせいらしい。「まあ、俺も、量減らしてるし。最近こいつも、食うようになってきたし」
「前はどんなだったのかって聞いてもいいの?」
「いや、本当に食わなかったよ。小学校んときからこんな立場で」
「その話いましなきゃダメ?」と聖。
「そういう話の流れになったときに大人しく乗っておくのはダメ?」と青野。「やめたきゃやめてもいいし、俺はウソつかれても全然平気だし、言いたくないことは伏せなよ。俺は言いたくなら聞きたくない」
「青野クンって親切さが一周回ってキショクワルイよね」
キレのある返答ができず、適当に笑ってごまかした。
「青野がキショクワルイとして」と田邊。「食うようになったよ。今は三食食べて寝るんだからマシだ」
「今までどうやって生きてきたんだ」
「ここで話さない方がいいよ」
「じゃあ聞かない」
「青野キショイ」
「俺だって言われたら言われた分だけ傷つくんだからな」
「ウソだよ、青野クン何言われてもちょっと楽しんでる」
「おまえら普段そんなこと考えてたの?」
「まあ、こんな話の流れになったら、言うよな、聖」
「前からトクとは話してたけどね。ちょっと、いじけないでよ。理史は勝手にへこんで勝手に這い上がってなんかネバネバしてるって。ねえ、だからいじけないでってば、ヤな意味じゃないのに……」
すっかり満腹になった頃に食後のクリームソーダが届き、それも結構なボリュームだったため、グラスを見合わせて一瞬黙り込んだ。
「俺だって、言われた分のダメージは負うよ」とつとつと話の続き。「積み立てられてるよ、俺の嫌なことは。でも蓄積した分は引き出しの底に追いやってるから、根に持ってはいるけれど、感情は湧いて来ないのかな」
「俺は許せるようになったよ」溢れそうなバニラアイスを持て余して田邊が呟く。
「実際は、許してないんだけど。その、何があっても他人には他人なりの事情があるんだから、悪いことの殆どは偶然の間の悪さのせいで、だから俺は何でも許すんだけど」感心して青野が吐息をついた時、「でも頭の中でボッコボコにして」思わず目を見開いた。「ボロ雑巾みたいになったのをゴミ箱に捨ててる」
「……それで収まるならいいのか」
「都度片付けてるから、あんまり溜まんないんだよ、一回殴ったらそれでおしまい」
「ちなみに俺のこと何回殴った?」
「軽く回し蹴りは入れた」
「……今日は何回?」
「一回」
「青野クンの話ばっかりでズルい」
「だって、聖のこと殴ったこと無えし」
「マジかよ」
「怒るとか許すとかそういうの、もうどうでも良くなった」
「ホント? あのね、ずっとね、トクのこと、怒ったこと一度もないよ」
彼らを見ていると、青野は時折、奇跡を目の当たりにした気分になる。
音楽と人格の二重螺旋。先を行く二人を眺めてふと思いついた。二重螺旋というよりポリリズム。数歩歩くうちにそう訂正した。
友情の定義をとっくに越えて、けれどごく自然に引かれた延長線上で、彼らは奇跡に差し掛かっている。
その自然さは音楽への志向が舵を取ったのだろう。仮に人格だけで繋がっていたら、関係はもっと日陰の方向に捻じ曲がっていたに違いない。
ギタリストは独りだしドラマーも独りだった。奏でる自分自身は独りでありながら、同じステージに立つ全くの別人とごく細い合流の可能性を捕まえなければならない。
支えの杭を一本一本抜いていく。甘えや惰性を排斥した先に広がる中空の瞬間を願っていた。全ての杭を取り払って一切の支えが失せたとき、宙ぶらりん状態の陶酔のなかで演奏は自覚を越えて走りだす。しかしその超越の瞬間は不安定そのもので、超越を自覚したその時点で奇跡ははじけて消えるのが常だった。
記憶の中のタワーマンションをダルマ落とししている。すると、一瞬部屋は空に浮かぶ。そんな瞬間を求めている。浮かんでいるうちは浮かんでいる、浮かんでいると思えば落ちていない。そんなロジックの戯言なんだろうか。浮かんだ部屋も気付いた時には、無残に叩きつけられ死んでしまった。
スピッツは『空も飛べるはず』と言った。彼らも『はず』止まりだった。
『Drive to Pluto』、飛ばざるを得ない名前だった。いつか離陸するんだろうか。あるいはもう、浮遊のための墜落は始まっているのだろうか?