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 真っ昼間の歓楽街だとか、キャラクターを盗用した法的にグレーの看板だとか、史跡、文学館を巡った。かつては街道の城下町だったという、戦後東京よりも根深い歴史が、東京にはない類のひずみを町並みにもたらしていた。

 駅前のエリアをうろうろしていると雑居ビルの半地下にライヴハウスを発見した。

「『スコーピオ』」

「あったの?」

「知らねえ」

「キャパ150ぐらいか?」

「地元の高校生なんかが使ってるんでしょ」

 勝手なことを語らっていたが、暗がりでスタッフのお姉さんが今宵のアクターの名前をボードに書き付けている真っ最中だったため、気付いた彼らは口を噤んだ。

 今夜は4組が出演する。まあ、後学のためと、お姉さんへの詫びも込めて当日券2000円を買った。お姉さんと言ってもたぶん彼らと同い年ぐらい。三人の出で立ちを見て、今夜ここに立つアクター達と同族である気配は察したかも知れない。

「凱旋ライヴとかって?」

「凱旋もなにもないだろ、都内だから」

「ツアー」

「いずれはなあ」

「車あんじゃん」

「レンタカーだよ」

「関西いこう」

「まず都内だろ」

 とはいえ、活動の広がる兆しをみな心待ちにしはじめていた。

「試験休みの頃ならどうにかなるかも」

「松田くんに聞いてみよ」

「松田くんに聞いてもしょうがねえだろ」

 まだらのデブ猫の松田くんはレーベル事務所のセラピストを勤めていた。

「でも太陽さんと松田くんだったら松田くんの方が頼れそう」と聖。

「本当に本当にいざって時にね、やっぱ判断力や行動力があるのは太陽さんなんだけど、最後のドアを開けるのは松田くんなの」

 

「正直ね、名前だったよ。名前ありきで、がぜん聴く気になったの。だって僕太陽でしょ? 君たちプルート。そういうこと。天文単位的に広がりがあるでしょ? そこでグッと来たね」

 異様に長い前髪で目元まで顔が隠れた、明らかに堅気じゃないその男・木場きば太陽たいよう氏の事務所の革張りソファで、松田くんは初対面の秋山聖の膝に飛び乗って首回りの贅肉のこねこねを命じた。まだらの松田くんの口元の模様はカイゼル髭にそっくりで、ここファイネッジ・レコーズの木場社長よりも威厳も貫禄も優っていた。

 アコースティック・ハード・デス・フォークとでも言うようなスタイルでかつて東京の最奥部でブイブイ言わせていたシンガーソングライターの木場太陽は、はじめは私用および仲間内の組合としてオルタナティヴレーベル『Finedge Records』を立ち上げた。じきに新人発掘を始め、定置網に突っ込んで来たのが彼らDrive to Plutoだった。

 三人組はその頃レーベル各社に下手な鉄砲を乱れ撃ちしていた。歌詞を有しながら声量はゼロに等しく、インストゥルメンタルと割り切った構成にも徹していない、曖昧さを多分に含んで若い彼らの音楽は、フロンティアスピリットと芸術性の有無はどうであれ、日に何枚も若者の自己主張に耳を貸さなければならない業界人には不親切過ぎた。「え、カラオケでしょ?」と門前払いが常日頃。レッテルを貼られる彼ら自身も、どうして歌がこういう現れ方をするのか、あるいはどうしてこういう現れ方しかできないのか、田邊は言葉に窮し聖は黙秘し、青野から漏れるのは空虚な釈明でしかなかった。誰一人確信を語れないまま、一方で音楽そのものは言葉なく、確からしい質感と高揚感を持ってそこに流れていた。自惚れを抜きにしてもライヴハウスでは相当の手応えを感じていた。

 太陽氏は時折本当に自分が空のお日様とイコールであるように振舞った。

 ──僕は太陽。遠路はるばる、冥王星くんが来たんだよ。仲間に入れなくてどうすんのさ! 会いたかったよ、僕の子供達!

 マジをまとったジョークでなく、マジのマジであると言うことを、Drive to Plutoの面々はだんだんと察していった。

「太陽の光が地球に届くまで8分はかかるんだよ、いくら光が光速といってもね。太陽から冥王星までは一体何分? この光が僕たちの心の闇の奥底を照らすまでは? 君たちはまだ闇のなかでいい。まだ言葉の説明がつかないならそれでもいいさ。君に確信があるかぎり僕は辛抱できるからね。だって気持ちも語れる語彙もすでに闇の中で待っているはずさ」

 渋谷の雑居ビルに呼び出されたその日、都内は真っ暗闇の未曾有の大雨だった。ずぶ濡れになった三人を前に、太陽は清潔なバスタオルとあったかい松田くんで迎え、お腹が空いているだろう若者よ! と言って振る舞ったのは焦げ色のついた焼きトウモロコシだった。

 大抵の与太話を「そうっすねえ」と「はあ」で応じながら、嵐の中で最初の面談を終えた。眼下の街は暗黒そのもので、浸水し、突風で傘が殉職する瞬間を目撃した。フラッシュが雲間に走ると同時に轟音が空を裂いた。もう二度と外へ出たくなかった。

「こりゃどっか電車にも落ちたかもねえ」

 泊まってく? ソファもあるよ? 今日は松田くんしかいないし、松田くんも暇だろうから泊まってあげなよ。

「木場さんは、帰れるんですか?」

「太陽でいいよ。僕んち、この隣。天気がよけりゃベランダ越しで帰っちゃうんだけど、今日はちょっと滑落しちゃうねえ」

「太陽さんは晴れさせられないの?」松田くんとすっかり打ち解けた聖がぽつりと語る。

「憂鬱な気分の日もあるだろ? そういうとき、無理に明るく振る舞う? 憂愁を憂愁のまま愛でることも必要なのさ。特に今日みたいな大事な日はね。君たちを穏やかな気持ちで迎え入れたかったのさ」

「小雨ぐらいが好きだな」と田邊。

 分かってきたじゃないかと太陽は微笑む。

「どうだい、事務所にピザ取ってもいいし、うちに来てパエリアでも食べてかないかい? 松田くんも雷は好かないなんだ。それに僕よりも、聖クンのこと、信頼してるんじゃないかな」

 結局ピザもパエリアも食べ、雷光と轟音に阻まれながら他人の家で浅い眠りにつき、晴れた翌朝に退散した。明らかに歪んだ形の未来に乗っかってしまったことを、三人目配せして確認し合った。でも彼らの生み出す音楽自体は歪みを愛していた筈だ。

 後日田邊は独りでファイネッジに乗り込みスタジオでの仕事を攫ってきた。別日金欠に苦しむ青野もツテでレビュー記事の仕事を貰った。聖の動向はやっぱり不明だが、松田くん直々の依頼で留守番の友を付き合ったらしい。

 ファイネッジ版の1stEP『A Cat On Car Bonnet EP』は契約通りプレスされ、黄色い看板のレコードショップのインディーコーナーの一員になり、まずまずに鮮烈なデビューを飾った。ただしデビューだけならば誰でも可能で、この先をどう食い繋いでいくのか、そんなことが当分の懸念だった。

 ただ、EPは彼らだけのものではなく、ジャケットを描いた盟友シモミツリエコのデビュー作でもあり、そこは関係者各位手放しで喜んだのだった。

 

 駅を背に住宅地を歩く。夏休みだというのに子供達の姿がまるで無い。

 入館料200円の良心的な博物館で涼みながら歴史を学び、また出て歩く。寺社に立ち寄るが祈りは捧げず、変な看板を見つけては互いの意見を仰ぎ、また歩くと渡良瀬川に達した。

 真っ青な風景だった。草の緑、水面の青。傾きはじめた眩しい日差し。水に乗って現れる涼しい風。

 おもむろに青野は土手の芝生に腰を降ろした。聖と田邊はつっ立ったままでいる。

 物思いに沈む青野のうなじに、聖は自販機で買ってきたサイダーの缶を押し当てた。「ぎゃっ」受け取ってタブを開けると白い泡が吹きこぼれた。冷たい、滅茶滅茶に甘い。

「暑っつい」

 傾めの日差しが、地を焼くようだ。

 天を仰ぐように背中を反らすと、聖と田邊がそこにいた。

「どうしておまえらこんなところにいるのさ」

 ふと口をついて出た。

「俺らとしても不思議なんだよ」田邊は滅多に偽らなかった。「どうして俺たちで、どうしておまえなんだって」

「ほんとのところどうだったの?」と聖が囁く。「決め手とかさ」

「おまえらが俺を選んだんだろ、俺は乗っかっただけ」

「うそ。謙遜やめてよ。なにがよかったの?」

「ライヴだよ」そこで、青き水面へ向き直る。「良かった。忘れらんなかった。それに、俺だってなにか出来ることやりたかった。やるって、すごいんだな。全然ちがう」

 青葉の匂いが渦を巻いて、風に乗って鼻をつく。草露の一粒一粒がむせ返る青臭さを閉じ込めていた。川は広く、対岸の堤防の先は見えない。

 生まれ育ったこの町は空も地も有り余っていた。どこを見ても余白の空間があった。空は広く、川も広い。思い至ったのは、もしかしてこれら自然の余白の隣で成長期を過ごしたからこそ、いまの自分が有している許しや遊びの心があるのではないか、例えば都市の圧迫的な空のなかから詩情を見出す能力や、歌われない歌の歌詞を綴ること、歌わないギターボーカルのあり方を認めている現状について。

 東京都の片田舎に生まれ育った二人にもそんな詩性を期待している。蝉に音楽を見出したように、詩性が自分たちの知らない奥の奥まで照らせるように祈っていた。

 座り込んだまま背後は振り返らなかった。気まぐれな聖はとっくに歩き出していて、自分ひとり堤防に座り込んでいるのかも知れない。心細くなることを期待して、少し大きな声で尋ねた。

「どうして歌わないんだ」

 こんな気分だから言えることだし、どういう回答の可能性があれど青野なら全て許せた。

「うまくいかないだけだよ」思いがけぬ方角から、案外にも近い距離で答えが返った。振り返りそうになるのを堪えて続きを促した。「歌えてるのにな」レコーディングで何通りか吹き込んでも最後にトラックごと切ってしまうし、ライヴではマイクの電源を落とした。聴こえようとはしなかったが、歌は確かに存在していた。

「アンチテーゼ、とか、誰か言ってたけど、難しいことするつもりはないよ。歌はプログレしてないの、歌はまっすぐ。ただ、本当だと思ったことしか聴かせちゃいけないでしょ? そう思うから、まだ、本当じゃない気がするの。じゃ本当ってなんだよ、おまえのギターは本当なのか? って、感じなんだけど、でもやっぱ駄目で。特別なのかなあ。歌は。言葉は、すごく、意味だから、大事にしないと。だからまだ歌うのは難しい」

「俺も本当のことを本当に書けてる気なんてしてないよ」

「ひとりの頃のほうが歌えなかったよ」

「俺は、間違ってても、歌ってほしいな」

「ライヴ、たのしいよ。むずかしいけど気持ちいいよ」

「あとはマイクのスイッチ入れるだけだ」

 草むらのなかに田邊が降りていった。少しうろついて、戻ってくる。

「草の中ぬかるんでた」

「俺もケツ湿っぽいわ」

「聖は」

「あれ?」

 橋に向かって歩き出していた。二人追い掛ける。

「きみたち並んでると面白いね」と聖。

「何が」

「ヤな意味じゃないってば」そう言ってクスクス笑っている。

 

 スコーピオの今夜のイベント『Oracle Night Vol.2』の始まる適当な時刻まで『GLAD』で過ごした。ユキちゃんは未だ不在だ。「あたしも行ってみようかな」と尋子。

「期待しない方がいいよ」と理史。「ライヴなんて行くんだ?」

「メニーマンは東京で観たよ」

「あのさ、あんた、結構趣味が派手だよな」

「メニーマン、行ったっけ」と田邊。

「いったよ。二日目」と聖。

「あたしも二日目。後ろの方で、もう小指の先ぐらいの大きさにしか見えなかったけど」

「青野クン行かなかったの」

「高校生がそうそう上京できねえよ」

「案外腰が重いのよ」

「その反動が今」

 四人分の麦茶を取りに青野が奥へ消えたため、会話は途絶えた。打ち解けてない人を場に残すのは青野の趣味のようでもあった。

 尋子は理史の友達を眺める。今日弟が連れてきた彼らは、中学・高校の友達とは強度の質が異なっているように見えた。それは弟ももう二十歳であり、彼らは仕事のパートナーでもあり、腹をくくってじっと前を見つめる覚悟の出来た顔に見えたからか。

 全然話しかけてはくれないけれど、尋子は聖を気に入っていた。つたない喋り方や、まだ成長期にいるようなひょろっとした手足をしているが、きっとこの細い体のなかに爆発性を秘めているのだろう。何にも知らないがそう思うとなぜだかとても嬉しくなった。芽吹きかけた花のつぼみに微笑むように、彼の可能性が愛しくなってくる。

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