7. afterword
「という挫折体験さ」
そうだろうか。僕には挫折とは違って聞こえた。人間関係は確かにバッドエンドかもしれないけど、人生においてエンドではない訳だし、実は作中の二名ともつい先日に出会ったそうである。全くエンドしていない。ただ、苦い思い出ということだ。
「逆にこの件のトゥルーエンドって何だと思う?」
「何があったのか、どうしてなのか、とか、本当は嫌いじゃないんだみたいなことを、口に出来たらですかね」
「出来る? 君なら」
「無理っす」
たとえ話として僕は荻原のことを考えた。僕は荻原が、誰かと交際していたらと考えた。荻原の好きなダンディなオッサンだったら、ああまあ良かった良かったと思っただろう。同じ学年の誰かだったら、と考えて、つい先日それに近い事件があったことを思い出してものすごくばつが悪くなった。
「統計データとして聞くだけでエピソードには興味ないけど、八月一日くんはカノジョっているの?」
「いないです」
「いるか、いらないかで言ったら?」
「いらないんじゃないかなあ……いたらいたで考えますけど、そんな贅沢、オレには回ってこない気がする」
「贅沢なの?」
「贅沢じゃないっすか? あれ……もしかしてモテてました……?」
「今はそこそこ。人当たり良くだね。人情は大事な道具だ」
結局このひとは傷ついたのに、傷を売り物に生きる強かな人間のようだった。でなきゃ、いくら高校の後輩だと言っても、その辺の高校生に身の上を語る度胸はない。
「あ、もしかしたら当時の先生とか、まだいるかもしれないですね」
「でも校舎も改築しただろ? けっこう変わったんじゃないか」
「生物室のアカハライモリ」
「ああ、いたいた……なんだ、あんまり変わってないのかな。クラゲの稚魚は見た?」
「稚魚?」
「こんなちっちゃい奴。米粒を半分に切ったぐらい。半透明なのを、理科の先生、何て言ったかな、高校理科の学会か勉強会で分けて貰ったって言って授業中見せてくれたんだよ。そしたらあいつが先生より詳しくて、あとで先生と話し込んじゃって、俺なんかサッパリだから何がどうスゴいのか分かんねえけど貴重だったみたいでさ。生態を教えてくれたんだ。何も覚えてないけど」
でも教えたことは覚えていて、そのひとときだけは記憶に刻まれている。
「なんか、聞いてると、別にその人のこと好きなんじゃないの? って思うんすけど」
一滴たりとも呑んでいないが僕も雰囲気に酔っているようだ。
「言うねえ」
高田氏はニヤリ笑った。弁解しようとする僕を制して続きを促す。「言え言え。言わなきゃ伝わらない」
「聞いてると、その人とは仲良くできるんじゃないかなって。あと、女優さんの方とも本当は仲良くできると思う。三人でいるのが相性悪いんじゃないかな……。三人組ってひとりは疎外されるじゃないですか。オレだけかなあ」
「まあ、つまりそうじゃなきゃ、どうにかね」
「たぶんですけど」
「そうか、な」
皿の上に余っていたオムそばを等分してかっ込んだ。僕らが追加の水を頼むと、個室にさがった照明が軋んだ。隣の個室がどよめいた。
「地震……?」
大きく縦揺れがあった。短く、一撃が大きかった。とっさにこわばり身をかがめた僕だったが、緊張しながらも落ち着き払って店内の様子を注視する高田氏に、生業のプロフェッショナルをふと痛感した。
震源と規模を知りたかったが、地下だからか、端末はなかなか電波を拾わなかった。
「デカいな」
「ですね」
縦揺れはすぐに収まったが、照明はまだ天井で揺れ、他の客席から不確かな話し声が届いた。
「何事もないといいけど」
高田氏は店内を見つめていた。店内の喧騒は元に戻り、隣の席の人々が口々に言い合う感想に僕は頷いたり疑問を抱いたりしていた。結局、こうやって呑気に座っているのだから、有事の際は痛い目に遭うのだろう。
電波を拾おうとして端末を振り回しているとようやく低速モードで回線に繋がり、不在着信に気がついた。
断って地上に出た。夜には雨と聞いていたが、小雨がぱらつき始めていた。高架下のせいか店舗の前も電波が悪く、少しうろうろして一本隣の通りまで歩いた。発信者は荻原だった。やっと回線が繋がっても今度は相手が電話に出ない。
『夕飯食べに行ってるから、またあとで連絡するよ』
メッセージを残して戻ろうとした。しかし何か思うところがあり、それはこんな時間にテキストではなくわざわざ電話を残してきたからだったが、一言、
『大丈夫?』
と添える。
今度こそ戻ろうとすると今度はcelestaからメッセージが入った。地上に出てから堰を切ったように電波が流れ込んできているのかもしれない。
(この地震による津波の心配はありません)
嫌な音の警報が隣のテーブルから聴こえるや否や、フロアが大きく突き上げるように一度揺れた。窓を見ると、少したわんでいるように見えた。僕達は座席から立ち上がらずに辺りを注視した。シャンデリアが音を立てて揺れた。物が落ちることはなく、給仕達は平静にフロアを見回った。
「久し振りに怖かった」と塔子さんが言った。「ちょっと無重力っぽかった。飛行機の離陸みたい……。飛行機もジェットコースターも平気なんだけど、今のはびっくり」
窓の向こうは曇っていて街の様子を伺えない。夜景を見たところで、混乱の程など、この高さからでは計り知れない。
水は。この高さからでは計り知れない。
「怖かった」と隣の席の老婦人が語った。先程まで、誰も彼も声を荒らげることなく談笑していたから、場にそぐわない恐怖の感情は真に迫った。高層ビル。
誰かが確かめる。
(この地震による津波の心配はありません)
「風景の美しさに罪悪感を覚えました」
メインの仔羊のロースト、赤いソースは酸っぱかった。
「報道写真の瓦礫を見ても、晴れた日には光輝いてるし、瓦礫さえすべて沈んで見えないときもある」
「でも、干渉してないでしょう」
「僕が、現実に?」
「あなたにそう見えてるだけということなのに、あなたのことを誰が責めるの?
あなたは違っていることをちゃんと自覚している。あなたはあなたのことを精査しているし、苦しんでる。それだけ自覚的なら十分じゃない?」
「しかし妄執だ」
「差っていうのは外国語みたいなものじゃないかな」
そう言った彼女はいっとき立ち止まった。
「なんでそんなこと言ったんだろう?」
頭で理解しているものと目に見える世界が異なる。目だけがいかれているのかというとそうでもない。嵩の高い日は膝から下をびしょ濡れにしながら透明な事象をかき分けて歩く。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚に訴えかけるそれは、いつも無人の海だった。それはどこにでも現れる。それは海だが、透明すぎて生き物がいない。その水は認知の中にしかどうやら存在していないらしい。
目の前の彼女と対話をするにも、全く同じ感覚器でもって認識しているというのに、彼女はいる。彼女には見えない。僕は見る。僕はいない。
高校のとき物理の実験で居残りを食らった。斜面に車を走らせて加速度を測る実験だったが、何度やっても不明の要素で車の加速に抵抗がかかった。手順に誤りがないことは明白だった。でも僕の見ている前で、車は、坂道を下ると水面に叩きつけられ、ゆっくり沈潜して水底に横転した。打点した記録テープはおよそ僕の見た出来事どおりの値を残した。何度やっても変わりなかった。
見かねて敬司君と塔子さんが現れた。僕は手順通りに再度車を走らせた。今度は、波は現れなかった。二人が見ていたから有用な実験結果を入手できた。大学入試に実技がなくて良かったと、冗談ではなく安堵した。
夏の夕方の報道の水難事故に憧憬を向けたことがある。十字路のタイヤ痕は光の網に洗い流される。幼い子が頭のてっぺんまで沈み、笑いながら泡を吹く。
高いところは正しいのかもしれない。水害はここには来ない。
このレストランは正しい。
「漠然と、大人になったら終わると思っていました」
彼女は微笑んだ。大人びていた。
「二十歳そこそこなんてまだ過渡期だよ」
「次は三十?」
「あんまり行き先を決めない方がいいよ」
「終わる気がしない。終わる、というか」、続けようとしたが、この先は倫理に反していた。
「ねえ、今更遠慮なんてすることないよ。今日は私たちだけでしょう」
そういう彼女の方も、そう切り出すということは、遠慮があるのではないかと思った。僕は改めてフロアを見渡した。客のなかで僕らが一番若い。目眩を感じ、酔っていると気付く。ワインは身体に合わないようだ。ザムザは飲みたがっていた。
「ふたりだけです。でも、別件で」
「なに?」
「いままでの話と全く変わります。連続していません。僕の話ではありません。その、貴女の目に見えなくて、僕の目にも見えない話です」
新しい話題に姿勢を正す彼女の在り方は、水が澄んでいくように思えた。
「幽霊のような」
「ひとの話?」
「友人の話」
彼なりのジョークだろうが、ザムザが見ているらしいものを話した。
「僕が見ているそれのように、」それが本当は海なのか水なのか、僕はそれを海と呼ぶべきか水面と呼んだら良いのか、それとも断定してはならないのかいつも悩み、代名詞でぼかした。
「ひとが見える人がいる、そこかしこにいる、いつも僕達がしていることを脇で見ている……」なぜ僕が語ると、こうも確からしくなくなってしまうのだろう。
塔子さんは考え込む。「いない人を見ているの?」
「彼はそうらしいです」
「彼は友達?」
「恐らく」
「お会いしてみたいわ」
「塔子さん。やっぱり皆、区別がついていないのではないでしょうか」
「そうかもね、ここにいる私も嘘かも」
僕は気の利いたことを言えない。
でも彼女には本当のことを見ていてほしいと思う。彼女が本当のことを知っていればこの世の中は確からしくなりそうだった。少なくとも彼女が下す正誤判断は確からしい。彼女には灯台として常に同じ場所で見晴らしていてほしい。
季節の果実のババロアが運ばれた。風向きが変わり、雨が窓ガラスを叩いた。
「思いのほか本降りだね」
「傘は」
「折り畳み」
「僕は忘れました」
「だと思った」彼女は笑った。
街明かりの赤い光が、眼下の夜に沈んでいく。僕は真実を伝えたいと思う。ただ、僕が語ることは掴みようがないから、望むのなら出会えばいい。僕の知ったところではないという気持ちもあった。
セレスタはどうだろう。彼女が女友達といるところを知らない。例えば彼女は、僕よりも甘いものの色艶を鋭敏に味わえるだろうし、一口ひとくちを口に含むたびに嘘いつわりなく賞賛を贈るだろう。
「きょうはうちに泊まる?」と塔子さんが言った。「この雨だし、C駅まで帰るのも大変じゃない?」
「ご家族は」
「あれ、やだ忘れてるの。私うちを出たんだよ。叔母さんの持ち家の中野のマンションを借りてるの。パパはいつまでも過保護だから子離れしなきゃって」
「高橋さんに大切にされているんですよ」
「汐孝だってそうでしょ」
彼女が箱入り娘でもこちらは保護観察だろう。
「この席、うちのマンションが見える方面にわざわざ向けて取ったんだけど、こんな天気じゃぜんぜん分かんないね」
見えなくても、雨が降っていても、彼女の部屋は常に見下ろされている。暮らす彼女は視線を浴びる。視線を集める彼女は劇の成功を喜ぶ。
スポットライトを浴びて彼女はぴんと背筋を伸ばす。舞台上の所作はしばしば「頭の天辺から糸で吊られるように」背筋を伸ばせと例えられる。見えない糸に吊るされて、彼女は堂々と鮮やかにそこに立つ。