これは物語ではない

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3. dead drapes

 花屋の店頭を眺めても、何も買わなかった。深いオレンジ色のガーベラの小さな花束が目についたが、花の見頃の短さを鑑みて、見送った。電車に乗ってから、僕が花を好まなくてもでも彼女は好きかもしれないと思い至って、疲れてしまった。車両は空いていて、座ることができた。本も何も持参しなかったので、目的のない暇な時間が訪れる。向かいに座る人々は全員俯いて端末を操作している。窓の外には日が暮れて色を失い始めた暗い曇り空が広がる。降りそうな兆しに気付き、傘を持っていないことにも気付く。これでよかったのだろうかと内省する。これでよかったのかと頭の中で思い浮かべる文に於いて「これ」は何も差していない。
 振り向くように真横を向いて背後に流れる風景を追った。高架の下を住宅が走る。気に入りの給水塔の姿が見えて少し安堵する。同じ風景を忘れずに見続けられるのは恐らく良いことだ。
 何も考えず座っているうちにうたた寝をしてしまい、気付けば新宿に着いている。指定された場所は西新宿の都庁前だった。約束の時刻よりもかなり早く駅に着いてしまったため、ゆっくりと歩いていると、前方に彼女らしき後ろ姿が現れた。長い髪。追いかけるには距離があった。少し早足になるべきか迷い始めた丁度その時、誰かが僕を引き止めた。振り返ると彼女が深い紺色のワンピースに白い上着を羽織っている。前方を見遣るが、追っていた後ろ姿は消えていた。

「いま、似た人がいた」
「“似た人”でしょ?」

 本人が首を傾げて囁く。長い髪が垂れる。最後に見た時から髪の長さも変わってなく、しかし正確なその長さを僕が覚えている筈もない。黒髪と眼は、最後に会った時に似ている。
 先を行く影がどんな服装をしていたか思い出せない。高橋塔子は既にこの場に合流しており、

「早く着いちゃったから待ち合わせ場所の下見にでも行こうと思って。そしたら見つけたから」
「どんなふうに?」
「どんなふうって」
「見つけ方が」

 彼女は失笑した。

「あなたは、なんというか、すうっと歩いてくるの。背筋がきれいだし、急いでないのに意外と歩くのが早いから、人混みのなかに紛れていてもスピード感がすこし違う」
「それは、見た目に依拠しますか。例えば、僕が、茶髪で現れたら、貴女は分かりますか」

 やはり彼女は笑って、僕達は歩行した。

「分からないかも」喧騒に打ち消されないよう彼女は声を上げた。「びっくりしちゃう」
 ざわめきと靴音に遮られて僕は声を上げられない。なぜ茶髪だったらなどと考えたのかといえば、何に依拠して僕が僕と思われるのか、僕を知る彼女に問いたくなったからだが、なぜ茶髪というモチーフが現れたのか、誰かが、例えば僕がある朝目覚めると。
 音のくぐもる地下を抜け、通りに出る頃には、暮れた雲が青かった。

「前にパパに連れて行って貰ったの。祐基(ゆうき)の十歳のお祝いと、私の留学の送迎会で、パパとママと祐基で」
「彼は今、何歳」
「まだ、小六。複雑よ、歳の離れた姉弟って。私なんて祐基の生まれた時にはもう、手間のかからない歳だったから大らかでいられたけれど、歳の離れた上のきょうだいがいるって、下の子にはどんな気持ちなんだろう」

 都庁の向かいのビルディングのフレンチレストランに彼女はディナーのコースを予約していた。窓際の席に通される。

「気持ちは分かるんですか」

 黒い曇り空が淀んでいる。眼下の街が重い橙色の靄(もや)となって滲む。トンネルのなかの橙色の照明が苦手だった。白色光は清浄に思えたが、橙の光は大気の汚れを吸着したように感じられて、ひどく息苦しく思えて、今でも、そういう色の光は苦手だった。

「気持ち? どうなのかな、男の子だし。でもなるべく、少なくともママよりは理解者でいるように、いられるように努めてるつもり。少し年上の人の存在って、子供に大きな良い影響を与えると思うんだよね。友達と親の間の人。親戚のおじさん・おばさんとか……私なんて彼にとってはおばさんだと思う」

 最初のワインが運ばれる。一切のなりゆきは彼女に任せる。
 店内がすこし薄暗いのは夜景を損なわないためだと気付く。天井から釣り下がる等間隔の間接照明が窓に反射し、虚空へと均等に伸びて伝わっていき、僕と彼女の姿が倍に映る。

「おつかれさま」

 彼女がグラスを掲げる。

「いや」

 と僕は再び窓の外に視線を逃す。仮想の床を地上50階の外へと延長し、僕らが浮かぶ。
 飛行機が点滅する。暗い髪の色が、空よりも黒々とガラスに映り込み、飛行機は彼女の頭の中を貫通しようとする。
 いつも、上ずったようにろくなことが言えない。

「貴女に……おかえりなさい」

 グラスを掲げた。まだ窓の外の彼女を見つめる僕を、窓の向こうの彼女と僕が見つめ返す。

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(revision 2017.09.01)

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