これは物語ではない

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11. disstory in a story

 空色の塔は不可視の水を組み上げて平らな風景の底に満たした。
 塔は仮想の浅瀬に点々と立ち並んでいる。数えておよそ八つめの塔から向こうは、干上がって、または隆起して白けた砂浜が広がっている。砂浜のほとりに立つ塔のドアは潮風で蝶番が錆びているが、ノブを回せば誰にでも開かれる。雨の降りしきる屋上に繋がっている。
 夜で、都市であり、ビルディングに囲まれた屋上だった。絹糸のような雨が空間を遮っている。夜景のディティールは雨でぼやけている。ひらけた屋上に繋がっている外階段を彼は登り詰め、無限に落ちる水滴を見上げた。着古したモッズコートが水を吸い、ズボンの裾が濡れて脚にまとわりついた。屋上にわずかにある庇の下で嗜好品に手をつけようとしたが、煙草も着火具も濡れてダメになっていた。他に何かないかとポケットをあちこち探っていると、いつかのバースデーカードが懐からこぼれ落ち、濡れてしまったのを慌てて内ポケットの一番奥底に仕舞い直した。バースデーカードは彼にとって一番大切な携行品で、共に旅を続けるうちに折れて角が取れて毛羽立って、インクもかなり滲んでいた。華奢な装飾文字で彼の名前が描かれている。彼はまだ、バースデーカードをくれた女を特別に胸に秘めていた。
 傘を持たない人々が、めいめいのオフィスで夜から朝まで働いている。雨がやまない限り帰れないでいる。雨のなかをほっつき歩くのは常軌を逸した愚か者で、現にずぶ濡れの彼は役所にショウカイに行ったところだったがまるで相手にされなかった。しかし彼のくたびれきった姿と疲弊して険しい顔立ちでは、はれの日だったとしても怪しげな流浪者として煙たがられただろう。
 屋上のへりから景色を見やり、雨風を凌げるところを探した。街のマス目を仕切る建造物たちはどれも同じように青黒く押し黙ったビルディングで、ここから見える窓のどこかに羽を休められる暖かな一室が存在するようには思えなかった。
 庇の下の蛍光灯が電気的な唸り声を上げて点灯した。彼は壁面のタンブラスイッチを落とした。再び蛍光灯が点灯した。彼は電気を落とした。点灯した。落とした。何度か繰り返した。

「こらこらこら(消灯)こら(消灯)らめるとでも思(消灯)

 彼は指の腹でオフの方向にスイッチを押さえ込んだ。それでようやく静かになったが、スイッチのオンとオフが逆転した。明かりが灯り、

「まあそう嫌うな、話を(消灯)

 パチパチパチパチパチパチパチパチ連打の応戦が繰り広げられた。

「告発しに来たんじゃない(消灯)
「まあまず話を聞け(消灯)
「話(消灯)
「ガキか(消灯)
「こんなに(消灯)チパチやっ(消灯)ら怪しま(消灯)だろうが」

 彼は手を止めた。

「おまえを捕まえたいんならとっくにサーチライトを持ち出してきている。しがない蛍光灯なんかに何が出来る。虫が集まってくるだけだ」
「火、点けられるか。煙草」
「火」

 蛍光灯に黒い線虫のような筋が走った。

「火とは、此方蛍光灯からもっとも縁遠い、まことの実体、光と熱の放射である。それを此方に乞うのは酷じゃないか?
 しかし火とは、焼却。焚書……火刑。戦火。解体。およそ、破壊者。おまえを追い立てる(消灯)

 オンとオフが逆転した。明かりが点いた。

「そう嫌うなって」

 男が不服の意を目で表した。
 光が二三の小言を語る間、彼はまた眼下の街並みを眺め、まるで無個性な街並みでありながら、等間隔に特徴的なビルディングが続いているのを発見した。屋根が尖っている、窓が大きい、貯水槽が目立つ、そんな差異である。建物同士を比較すると、それらは点々と同じパターンを保ったまま街の果てまで連続している。つまりはそれらしく組み上げた街のパーツをそれらしく体面良く組み合わせて縫い合わせた突貫工事のパッチワークの景観なのだ。
 同じ高さの建物が街の果てまで続いているなか、それらの風景を見下ろすことの出来るこの屋上を持ったビルディングは、周囲より頭一つ抜きん出た高さということになる。全てが同じパーツで組み立てられ、何らかの同じ規格と同じ高さを破ることのない風景の中で、たったひとつ特別な高さをもつこの建物こそ街の中枢ではないか。中心部にまんまと誘き寄せられた不注意を彼は恨んだ。閃光に取り囲まれてもおかしくない状況だったが、頭上に灯るのは頼りなく瞬く蛍光灯ひとつだった。彼は、隣のビルディングの窓の向こうであくせく働く人々も、ビルディングの外観と同じく数パターンしか用意されていないのではないかと、嫌な考えを思い浮かべた。

「で、なんでこんなところに」と蛍光灯。
「道に迷った」
「何とかと煙は高いところに登るのか」

 鳥の兄だからな。言おうとして止めた。それはあとからの創作だった。

「おまえ、まだ旅をする気か」

 煙草を吸えない彼は代わりに似た呼吸法を試みた。呼吸と脈拍はこの身体の維持であり、光たち存在との決別を意味している。彼が身体に固執するのは彼が人間として生まれた生命であると自分に言い聞かせるためだった。

「雨風を凌げるところを探している」彼は言った。
「ここにはどうやって来た」と光。
「朦朧としていて覚えてない」
「何しに来たんだ」
「探してた」長い吐息をする。「おれの」
「あると思ったのか?」
「いま思うと、ねえな」

 誘き寄せられただけだったんだと思った。早くここから出なければ。しかし身体は疲れ切っていた。足先から身体が冷えていく。この身体。この疲労。生きている実感の湧き上がるときは緊張・興奮・疲労のなかにいる。すると生きている実感というのは身体に悪いのではないか? 生きている実感とは、生命を焼き尽くして死に向かう実感である。
 自我と身体をこの意識から切り離すことさえできれば、雨風からも疲労からもおさらばできるが、身体を捨てて光たちのような分子に解されることは、人間に生まれた彼にとっては死と変わりないように思えた。自分が死んだその瞬間の記憶を彼はまだ持たないので、彼はまだ生きていると思う。死は寒くて深い穴に吸い込まれることだと聞いた。「苦労のない 穴に さようならConfotable hole bye」と、かつてサルはタイプライターを叩いた。穴の淵に他者を突き落としたとき、銃口から脳へ逆流した冷たさは彼自身の記憶ではない。
 足元から両肩へ冷えが走り、彼は身震いし、くしゃみを放った。
 光がこのつぎはぎの街の由来を語っていたが、考え事に頭がぼんやりしていて聞き取れなかった。頭はますますぼんやりして、考え事もじきに中断した。寒さが瞼を閉ざしにかかる。

「早く」

 声を荒げたつもりだったが、思っていたよりも声量が足りない。変に行儀良く聞こえた自分の声が、奇妙に感じられながら、彼は続けた。「こっから出せ」睨みつける目の鋭さは変わらない。

「もちろんそのつもりだった、おまえがパチパチやるから……」
「おまえは誰の味方だ」
「味方」

 光が反芻。間をおいて語った。

「此方は『上』に含まれるが『上』は味方ではない」
「ボスには従うがボスは助けてくれないって?」
「従いはしない。『ボス』と呼ばせて貰えれば、“此の光”はボスに含まれている﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 末梢神経か働きアリだ。やはりこいつらにはなれない。

「まあ、なんだ、怖い顔すんな。此方だって上から仰せつかってわざわざおまえを追ってきてはいないんだし、おまえはおまえが思うほど特別な癌細胞でもないのだ。おまえなんてものは、良性腫瘍だ。誰にでもある、おまえ自身にもある。おまえが小学生のときにその存在に気付いた、おのれの首筋の奥に埋まっているやわらかいしこりみたいに……」
「なんで知ってるんだ」彼は吐いた。誰にも言ったことねえぞ。
「すべてを照らす、特別に注意は向けない」
「おまえらって区別あんのか」
「人のような固執はしない。此方は分割されて偏在する量である、おまえの縋る入れ物はなく、区別があるとすれば位置と量だ。そして、本日のことを上に伝えないようにも出来る。おまえと出会ったことを切り離して忘れてやろう」

 彼はぽかんとし、意図を探ろうとした。

「おまえが考えているほど此方はおまえの思う冷淡な機関ではないし、おまえが考えているほどおまえに特別な価値はないが、おまえはぷらいばしい﹅﹅﹅﹅﹅﹅を気にするようだから、此方にはまったく必要のないことではあるが、おまえが出会った此の光を切り落として記録を遮断してやろう。
 だから振り返って辺りを見渡すがいい」

 と言うので咄嗟に言葉に従って振り返ると、雨粒が止まり、白い梁で組み上げられた隙間にガラスをはめた高い壁がそこにあり、視界の端がぴかっと閃光を放った。光の方を振り返ると蛍光灯と庇と非常階段の姿はなく、亜熱帯の植物が大きな枝葉を広げていた。

 天井はガラス張りの高いドームで、低く唸り声を立てながら水銀灯が煌々と輝き、ガラスの向こうは夜だった。静けさのなかに照明の唸りと、夜の虫の囁きや、落葉の音が混ざり合い、人のものではない鬱蒼とした騒がしさを感じられた。湿度が篭っていたので、ここでも靴は乾かなそうだった。
 小道の両脇に枝葉が迫り、太った幹に蔓が這っている。露出した土はたっぷりと水を吸って膨らんでいた。植物の吐息が絶えず首筋に吹きつけられているような気がした。広大な温室のなか、人混み同然の気配が漂っているように思えて、首筋に手を当てて皮膚の下を探ると、種子ぐらいの大きさの柔らかいしこりが埋まっていて、彼はこの瞬間までまだしこりがあることを知らなかった。ゆるやかに曲がる径を行き、濡れた地面を踏みしめて緑のアーチをかき分け進む。祭日のような赤い花が集まって咲く一角を通り過ぎた。エリアごとにテーマかルールがあり、生息地の気候や大陸によって植物たちが区分されている。ここにある草花のうちいくつかは、野生でその姿を見たこともあったのだろうが、彼はいちいち覚えていなかったから、仮に再会があったとしても分からない。
 公園ほどの広さを歩いたが、誰の姿も見かけない。歩くことは好きだったから彼は少し回復する思いがした。靴さえ濡れていなければ上出来だ。しかし蒸した温室のなかで喉と唇の渇きはごまかせず、温室内の酸素も植物たちに奪われて足りていない気がした。

 温室を縦断して辿り着いたのは、礼拝堂を思い起こす開けた空間だった。突き当たりの左右に高木がそびえ立っていて、向こう側は高いガラス壁で行き止まりである。ドーム天井に向かって真っ直ぐ伸びる透明な壁面が教会によくあるステンドグラスを思い起こさせ、開けたところに腰の高さほどの花壇が等間隔に並んでいた。だから結婚式場みたいだとふと思った。花壇は、中央を走る仮想のバージンロードを避けて、左右二列に配置されていた。司祭が水遣りしやすいような導線が確保されている。花壇には多肉植物が並んでいる。見慣れた形のサボテン、サボテンのなかの珍種、鞭のような葉をしならせる草木、女性器を彷彿とさせる切れ目をもった肉厚の植物。石にも肉にも似ている塊が、それぞれの差異に名札をつけていた。名札は几帳面な筆跡の手書きの文字だ。
 最前列の中央、司祭か花嫁の立つべきもっとも神聖な一角、他の花壇から一歩前に出たその位置に、芽を出すように半分土壌から露出していたのは、手の平大のタカラガイの貝殻だった。
 植物の気配だと思っていた野生への畏怖の念が、たったひとつのタカラガイによって、ひとりまたは数名の名前を知る人物に収束した。謝らなければならない相手が何人もいた。後悔と謝罪の亡霊が霧になって服を湿らせる。
 貝の裂け目を耳に当てたが、静寂から何かを聞き取るためには辺りの光がやかましかった。辺りの壁面を探っていくと、恐らくは電灯に伸びているスイッチがあった。照明を落とすと、1秒かけて、温室は闇に転じた。静寂も訪れた。
 彼は闇に目が慣れるまで、立ち止まって順応を待った。明かりを消したことでガラスへの光の反射がなくなり、温室の外を覗けるようになった。ここはなだらかな高台の頂上のようで、遠くに街明かりがまばらに見える。街明かりがやたらとぼやけて見えたので霧か雨らしいと思ったが、窓の外に目を凝らすと雨粒が落ちることなく静止していた。手を伸ばして周囲を確かめながら、伸びた長い葉に身体を引っ掻かれたりしつつ、彼は花壇に戻り、タカラガイを掘り返した。闇のなか、陶器に似た質のつややかで丸い貝殻が、暈をまとうほどの白さをぼんやり発していた。もう静かだから、声は聞こえるだろう。貝を手に持ってタイル敷きの道なりに少し歩くと、小高い丘に誂え向きの白いベンチがあった。そこから花壇を見晴らせる。並んで座って、そして、何年経ったのか考えた。時と身体の隔たりは、血を分けたふたりの会話をぎこちなくする。

「げんき?」貝殻の隙間から漏れ出るさざなみが、よく知るひとりの声に収束する。
「まあ、んん」安心も苦しさも悟られないよう、いつもの声の感じで返した。
「そっか」それを悟ったかは知らないが、彼も変わっていない気がした。
「ああ」
「生きてる?」
「生きてるよ。まだ、しばらくは」
「うん」互いに気遣っていた。
「ずっとそこに埋まってたのか?」
 貝の声はちょっと笑った。「そういうことじゃないだろ」
「分かってるよ」

 貝の相手の微笑のしかたを彼はよく覚えていた。おずおずと照れくさそうに、少し申し訳なさそうに笑う。なんなら真似することも出来た。同じ血が流れているというのに、顔立ちは全然似ていなかったけど。
 闇に目が慣れて、青黒く茂る異国の森の姿がふたりの前に映し出された。月は見えないので、辺りに漂うほのかな明かりは貝の光暈こううんによるものらしい。

「元気そうでよかった」貝は言った。
「何してたんだ」彼は返した。
「ベランダで、月を見てた。風が吹いてきたから、鉢植えの様子を見ようと思って」
「おれは……迷ってた。ヘンなポケットに入り込んでんだ」
「出られるの?」
「どん詰まりだと思う。けど、まあ、迷ったのは枝葉に過ぎなそうだ。どうにでもなるよ。おれはしぶといし、別に、今はボーナスステージみたいなもんでさ」
「そうだね」

 ここはおまえが作ったのか? そんなことも訊けなかった。時間のなかの無数のポケット、どれが本流なのか流される者には分からない、分岐して閉塞する数々の時間の流れに洗われるひとがいる。
 彼はものすごく悲しくなる。酒を、貝の硬い口に並々と注ぎ込んでやりたい。貝を器に杯を交わしたい。酒のことを思うと温室の喉の渇きがふたたび目覚め、彼はシャツのボタンをゆるめて顔を手で扇いだが、貝は室温を感じない。月が見えないものかと天を仰いだ。曇り空の夜の青い雲が明暗のもやになって天を覆っていた。ドームの梁がほの白く天を渡すアークを描いて、むかし見たプラネタリウムの半円の宇宙みたいだった。頭上をわたるドームの輪郭線のおかげで、ここが未開の密林なんかではなく、どこか、管理されたか遺棄されたかである温室のなかにいるのだと判断できた。赤い花が咲いている。温室は閉ざされている。ここがどこだか分からない。入口も出口も分からない。
 僕は固められた周遊道を道なりに歩いていった。あたりは夕暮れの後のように一様に青黒い。夜の入口の闇だった。終わってしまう、間に合わなかった、これから歩き出したところでもう手遅れだ、そんな強迫観念に囚われる。
 植物たちはめいめい好き勝手にガラスの部屋のなかで枝葉を広げていた。それらは朝の満員電車に詰め込まれて苛立ちながら縮こまる人々のふるまいとまるで反対で、ひたすら自由であろう、自分のために枝葉を伸ばそうと、押し除けたり身をかわしながら、どこまでも広がり続けてやろうとする上向きの強かさに感じられてならない。どんな日陰の草木でさえも、溢れるほどの繁殖の意欲を惜しげもなく広げている。そんなわけで、植物の力強さに圧倒されないようにしながらその合間をくぐり抜けるのは、僕にとってもある種の強さが必要だった。
 心細さ、頼りなさを抱え、行く手を覆う植物をかわして掻き分けていくと、突然に茂みは開けた。開けた場所に花壇が整列し、高台の上のベンチに座っていた男が突如立ち上がり手に持った何かを突き出し、僕はとっさに両手を頭の高さに掲げた。遠くてよく見えないが、ハンドガンを向けられたと思った。
 
「うわあ、何、どうしたの」のんびりとした男の声が聞こえた。
「なんでもない」銃を向けた男が返した。銃は、親指と人差し指を突き立てたジェスチャーでしかなかったが、仮想の銃口を向けられた瞬間、胃が冷気で鷲掴みにされた。

 僕は両手を掲げて棒立ち。

「わあびっくりした。誰のお客さん? きみのほうだね、形がある」

 のんびりした調子で喋っているのは銃を向けた男ではない。銃の男は親指と人差し指による警戒を慎重に解いた。「迷子だろ」と呟く。

「クセは治らないんだね」
「染み付いてんだな」

 男はベンチの座面に置いていた純白のタカラガイの貝殻を掴んでこちらへ降りてきた。もうひとりの声は貝殻のなかから聞こえた。貝はほのかに白い光を発していた。

「もうそろそろ出るか」男は貝に尋ねた。
「閉館の時刻だ。迷子も連れて帰らなきゃ」
「おふたりは、どちらから?」僕は尋ねた。
「おふたりだって」貝は笑った。茶化すようにも、嬉しそうにも聞こえた。「おとなりから来たんだよ、それぞれ反対側から」
「こいつはここから離れているんだ」男が貝を指して説明した。「この外にいる」
「ここは?」
「見てのとおりの植物園だね」
「おふたりが管理されてるんですか?」
「管理はしてないな」と貝。
 生身の男はつっけんどんで、貝殻の中にいる方が親切に喋りたがっているようだった。
 薄明かりに照らされた闇の植物園を、僕ら二人と貝が歩く。来た道とは異なる、整備された小径を貝が案内する。熱帯の睡蓮を見ていこうと言うのだ。

「夜咲睡蓮が咲いているんだよ、滅多に見られるもんじゃない」

 貝は楽しそうにしていたが、貝を持つ男は特に感想なしといったところで、改めて見ると彼は全身ずぶ濡れに汚れ、憔悴した険しい顔をしていた。貝が男を先導し、僕は後をついていった。貝がこの植物園を把握しているようである。植物のそばを通りがかるたびに貝はそのの名前と植生、由来、葉のつき方や花の形などの観察すべき箇所を語った。僕は貝の博識さに感嘆した。

「誰にだってきっとそういう場所はあるんじゃないかな」
「特別に詳しい場所ってことですか?」
「いや、集めたものをしまっておく場所」

 ねえ? と貝は男に尋ねた。
「どうだろうな」と男。

「多かれ少なかれ誰にでもある、少ない人はきっと少ないけど」と貝は言う。
「きみはどう? きみは集めた?」

 僕はいっとき逡巡して言った。「途中なんだと思います」

 貝は語った。声は若い男の声色だったが、語り口は老齢の理科の先生のような穏やかさだった。
 
「ある人は墓標の立ち並ぶ終着の浜辺だと言った。ある人は演劇が延々と繰り広げられる見世物の街だと思った。水の底に沈んだ青い静寂の世界を思う人もいた。絵画のなか、森のなか、ひとつの国家と大陸、温かい書庫の埃。みんなの描く風景を足し合わせていくと、地上の面積よりもきっと広いんだろうね」

 温室内のプールに赤紫や青紫の花がぽつりぽつりと開いていた。濁った水のなかには金魚やネオンテトラが潜んでいる。
 睡蓮には品種の名前が当てられている。「カノープス」は柔らかいカーブを描いた白い花弁、「ブルー・モーメント」は尖った花弁の青紫、「スカーレット・ルビー」は赤紫、「カストル」は青みのかかった白い大振りの花。

 ずぶ濡れの男は赤い花をじっと見ながら「仏のアレは、ハスだっけ、睡蓮だっけ」と貝に尋ねる。

「同一視されていたようだよ。仏教には白・赤・青・黄色の蓮華が登場するけれど、青い花は熱帯性の睡蓮にしか咲かない。インドには混在して生えていたようだね」
「ハスと睡蓮はどう違うんですか」
「見た目に限って言えば、ハスの方が背が高い。元気なところだと水面から1メートルか2メートルも茎を伸ばすよ。泥の中から背伸びして美しい花を咲かせる様子が、仏の教えに通じるらしいね」

 青い光を翻して、しらすほどの大きさのグッピーみたいな魚が茂みを泳いだ。

「ずっと見てたい?」

 ずぶ濡れの男が尋ねてきたので、驚いた。「ずっとここにいたいか?」冗談と冷笑の交わった声だった。
 僕が返事をできなくても、彼は悟って言葉を続けた。

「だよな、誰かの中になんているべきじゃない」

 貝殻は語らなかった。

「覗き見るものでもないさ。景色は据え置きで、どんなに広くてもひと一人分の余地しかない。他人の風景を見たってそれはそいつのための風景だし、何考えてんのかなんて言葉と仕草で伝えるしかないよ」

 次のエリアは食虫植物だった。ハエトリグサは二枚貝のように進化した葉で、葉にとまった虫をパクリと挟んで捕まえるが、面白がっていたずらにパクパクさせていると株が疲労で枯れてしまうそうである。捕食に要するエネルギーが餌から得られるエネルギーを越えてしまっては本末転倒なので、食虫植物の大半は粘液や消化液でトラップを作って虫を待ち構える戦略をとっている。
 虫取りスミレという種の葉にショウジョウバエが多数付着していた。ハエ取り紙やゴキブリホイホイのような粘着物を葉から出して虫を捕まえるのだという。植物たちは消化液に濡れて、てらてらとなめらかに反射していた。葉の表面の赤いまだら模様が怖いと思った。虫を待って動かない食虫植物たちからは、生きて動き回る肉食動物の生態よりも直接的な死の気配を感じた。

「グロテスクというのは動植物を象った装飾が由来だ」と、貝は満たされた様子で語った。
「すごいですね」僕は引きつっていただろう。
「集めることが好きだった」そう貝は言った。「多肉植物の小鉢を庭に置いて、無理を言って庭に小さな温室もこしらえてもらった。母の花壇の面倒を見る代わりに庭を好き勝手にしてもらえた……何だって集めたかった。鉱石と図鑑を引き出しに溜めこんで、水槽で魚を飼って、地図帳をえんえんと読み返して、星の名前と石の名前を覚えて……生き物の名前、年表、坂道、譜面、水の浸食、飛行機、筆記用具の種類……自分が満たされることを祈り、集めて、集めて、ひとつの知識の城を築き上げた」

 ウツボカズラが天井のあちこちから垂れ下がっていた。

「僕は僕のなかの世界の王様になって、はてない増改築につとめていた。しかしじきにとうとう同じことしかやっていないんだと気が付いた。何を集めようとも、集めて築くという営みはすべて読み書きの上にあった。知識の城は言葉の塊だった。現実存在を言葉による定義と説明で埋め立てて、存在は書物の言葉で知れるから、言葉さえ押さえれば現実を掌握できた気になっていた。『辞書でしか見たことがない』って状態。言葉自体には価値がない。言葉は材料、絵の具に過ぎない……何の絵の具を使うかよりも、何の絵を描くか、だよね」

 びしょ濡れの男が何かを言った。貝は申し訳なさそうに振り返った。

「きみが見てきたものを知る術だって言葉だったんだ」

 男は手の中の貝に目を伏せる。しばし俯いて、貝の向こう側にいる相手を見つめているように見えた。

「貝殻は常に裏側を向いている」

 男はつぶやく。そして手渡され、僕ははじめてタカラガイに触れた。純白で、陶器のような手触りだった。生き物だとは思えないし、自然物だとも思えない。僕に語りながら、男はまた歩き始めた。ゆるくカーブした道を行くと、観音開きの大きなガラス扉が見えた。

「この模様のない真っ白な表面は、裂け目から裏返したタカラガイの内側﹅﹅だ。貝の模様は内側にあり、無地の裏側が外気に触れている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。ということはこの白い裏側を見ているおれたちは貝の内側にいるんだ。こちら側にあるのは閉塞した貝殻に縮こまっているぶよぶよした不確かな肉だ。おれたちは貝殻の内側にいて、外の世界は、この貝の口の向こう側にある」
「それで」と貝が遮った。「タカラガイは外套膜という貝の身の一部を貝殻の外に出している。生きているときはやわらかい貝の肉が貝殻の表面を包んで覆い隠している。貝殻が肉を守るだけでなく、肉が貝殻を守っている。もういちど表裏の逆転だ」

 ガラスの扉が開け放たれた。僕は促されて外に出た。ここは高台に建つ植物園で、丘の下に僕らがよく知っている生まれ育ったこの街が見える。明かりのひとつひとつが知らない誰かの家で、既に眠りについた部屋にひとり静かに灯る常夜灯か、玄関先で住む人の帰りを待つ光のしるべか、静寂の時刻に耳を澄ませて孤独な作業にいそしむ人たちが放つ明かりだった。街明かりを東西に遮るようにベルト状の闇が伸びていて、それは深夜の川なのだった。それは亀裂で穴だった。闇はつややかに海へと流れていく。

 温室の内側から男が外に伸ばした手は、外気に触れた途端、雲母の表皮が剥がれるように目に見える風景から剥離して消えた。男は驚かなかった。手を引っ込め、湿った植物園の中に戻ると、男は人の姿を取り戻した。凝視してしまう僕に「そんな顔すんなよ」と笑った。笑い顔を見るのはこれが最初で最後だった。
 僕の目的地は川辺に建っている。闇のほとりで待っている。
 僕は男の銀色の瞳をはじめて見つめた。どうして彼は出られないのだろうと考えてしまうと際限なく悲しくなった。男はタカラガイの裂け目を耳に当てた。貝の内側から波の音が聞こえてくる。終着の浜辺の波音である。

 僕は坂を駆け下りた。足がもつれ、実際に時を刻む1秒の速度と僕の体感の時間経過が一致しなかった。時間が速いのか僕が速いのか僕には判断できず、ただ時間が僕から剥離して、僕が時間から振り落とされる。速度を上げる、足がもつれて転びそうになる、浮遊感に近い危うさを覚えながらそれでも走ることを止められず、濡れながらも身体は乾き、喉の奥に血の味が滲んでいる。じきに大粒の雨に降られ、バスを降りた。

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(revision 2017.09.01)

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