これは物語ではない

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13. our story

 水溜まりに映る闇は黒々としてつややかで、その水面の真っ暗さのために、闇の正体が液体でも穴でもないように感じるときがある。闇は物体性を伴わなず形容詞としてそこにある。街灯の乏しい街外れの夜道を、闇の中に足を突っ込まないよう、ぬかるみを避けて注意深く行き、目的地に着いて、玄関の前でイヤホンを耳から抜いた。髪や、肩が湿り、道中、急にどこからか現れた「仕方ないのだ」というフレーズで頭がいっぱいになっていた。でもそう思うこともすぐに忘れるんだろう。そう思うと、ますます仕方のない思いが強くなった。
 ベルを鳴らさずに、鍵のかかっていないミナト家の玄関扉を開けたそのとき、かつてたった一度だけ、ほとんど初対面だったときのレイが吠えたことを思い出した。僕は怯えて、エーコは強がった。レイが眠っていた応接間の肘掛け椅子に、黒い衣装の荻原が深く腰掛けて、青い文様のティーカップから温かいお茶を口にしていた。僕はどこかで惨劇を覚悟していたのだ。具体性もなく、悲劇が起こったと思い込んでいた。

「……ごめん、なんか、落ち着いちゃった」

 返事は少しかすれた声だった。僕は向かいに座った。

「なんか飲む?」
「それは」
「カモミールティー。でも、あんまり好きじゃないかも。紅茶の方が飲みやすいよ」
「淹れようか」
「あたしは大丈夫」

 もしかして惨劇を望んでたのかもなとも思った。駆けつけた先の世界がもっと傷ついている様を想像していた。僕がここに来た“甲斐”があるように願ってたんだろう。幸福に越したことはないのに。
 突風が吹き、雨粒が窓ガラスを叩きつける。誰も雨戸を閉めようとしなかった。天候を持ち直しかけていたはずの空はいつの間にか土砂降りで、雨の支度はとっくに手遅れな気がする。ここまでの道は泥まみれになって、長い裾にハイヒールの荻原は今夜帰ることはできない。

「どうすんだ」

 荻原はカップを置いた。

「どうもしない」

 僕は「うん」とだけ伝える。どうすることもなく、仕方のないことだった。「うん」

「疲れたんだよホズミん。大丈夫だって思ってたし、大好きな衣装がクローゼットにあるのに、駄目だったの。耐えきれなくて。
 でもやっぱりそれも情けなくて、誰にも頼ることができなくて、でも結局自分で自浄ができちゃってる。時間かかるけど」

「でも、時間かかるんだろ」

 口にした途端に両目から涙があふれて流れた。涙は急に眼球上に満ち、とても自然に零れて頬を伝った。透明で水のような鼻水が垂れた。
 涙を流した姿を友達に見せられるほどオレは素直じゃなかった。格好がつくようにとっさに手のひらで濡れた顔を覆った。喉の奥からこみ上げる悲しみが声にならないように黙り込んだ。声を上げたらその悲しみが本当のことになってしまう気がした。オレは悲しいということを気のせいにして、判断を留保していれば、何もかも見間違いだったことになって誰も傷つかないんじゃないかと願って堪えていた。
 いくら嗚咽を耐えたところで涙は本物のままだった。
 そしてこれはオレだけの涙じゃないんだと悟った。

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(revision 2017.09.01)

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