これは物語ではない

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12. old myth

「塩水のプールに過ぎませんでした。地下水を汲み上げていただけだったんです。地平面のように見えて結局どこにも繋がっていない」

 そして、寒いと一言囁いた。

「束の間眠っていたようです」

 脱衣所に上がる彼のために、彼女は退いた。

「本当は入浴中に眠らないんだよ。気絶してるの」

 風呂から上がって鼻をすする彼に、彼女が告げる。

「夢って、頭のなかに流れる映画を睡眠時間分だけ見ているんじゃなくて、夢から目覚める“瞬間”に構築されてるって説もあるんだよ」

 その瞬間なにもないところから、夢で流れた時間を「思い出す」ように現れるの。どんなに長い冒険を味わったとしても経過した時間はほんの一瞬で、夢とは、眠りという機能停止から復帰する跳躍の一瞬に、0から1への移行の摩擦抵抗で発するスパークのような誤作動。
 1から0なのではないかと彼は思った。

 目をしばたかせる。彼女の髪が濡れている。借りた寝間着から他人の家の匂いがしている。

「また、今度はいつまで、いるんですか」

 彼女はドライヤーを髪に当てた。長い黒い髪。温風と大きな音が会話を遮った。ひどく静まった部屋のなかで、会話を除いてあらゆる物音が荒く迫った、ように、彼は思った。

「どうだろ。むこうは楽しかったよ。言葉が通じ合ってるのか、本当に滞りなく伝わってるのか分からないけど、それでもそうやって抵抗があるせいで日本よりも堅実に話をしていると思った。水の中を歩いてるみたいに、毎日鍛え上げられてる感じ」
「難しそうだ」
「読み書きはできるのに?」
「途方もない」

 彼女はタオルを彼に投げ付けて、ふざけて犬猫と触れ合うような手つきで頭を包んでごしごしと拭いた。彼はぎゅっと目を瞑った。濡れた毛束を彼女が逆立てて、頭髪の流れの遊びを作り、いかにも今っぽい若者風の髪型に仕立てたのち、申し訳なさそうに笑って手ぐしで元に戻した。

「できるよ」

 彼女は言う。

「少し見て回るだけでも悪くないと思う。遊びだっていいんだよ。グアムとか、パラオとか、日本とはまた違うでしょ」
「寒いところの方がいい」
「いいと思う。とにかく……ここを離れてみるのも、悪くないと思う。試してみたら? ほんのちょっとの間でも」
「試しなら、いいんですけど」
「試しが本当になってもいいじゃない」

 彼女は彼の秘める内奥の実りを望んだ。イマジネーションを絶やしてしまわず、インナーワールドがいっそう豊かに、鮮烈に現れるよう、つまり彼の頭のなかで留めずに、創作の手を借りて創作物として現世に現れるように願った。どんなやり方でも逃げ口が必要だと彼女は思った。溜まった水は抜かなければならない。今の彼は耐え抜いた末に口から吐き出すことしか知らない。創造に向かうよう彼女は願った。身体を痛めないやり方で吐き出せるよう願っていた。おのれの秘める妄執を昇華してきた歴代の芸術家たち。手付かずのなまの妄想は灰汁と棘だらけで誰も触れることができず、理解もされない、邪魔な社会悪でしかない。いびつで醜悪な個人の内奥を、誰でも見て触れるように一般化して提示できれば、「創造」の名の下にどんな妄執でも多様性の理念に迎合される。

 創造はいつでも奨励される。しかし創造には摩擦抵抗がある。

 頭のなかで思い描けるものには本当は形がない。実のところ想像の輪郭は不定形である。とりとめのない考え事を文章に書き出そうとしてみると難しいのは、頭のなかで紡げる形状や言葉は、それ自体の意味もあいまいであれば関連する別の単語やアイディアといった意味との境界線も不可分だから。思考は一本道ではなくこんがらがった糸のようで、はじまりと終わりがどこにあるのか見分けはつかない。

 想像を発露することは、こんがらがった糸の塊に鋏を入れることだ。不可分な糸にはじまりと終わりを与え、直線たる一本の糸を塊のなかから引っ張り出し、一つの文章、はじまりと終わりを持ったひとつのまとまった意味を成形する。
 すると糸くずの中に半端な長さの余剰が見つかる。当然だ。はじまりと終わりが不明な塊に無理矢理に鋏を入れて、塊から一本だけ抜き出したのだから、鋏を入れそこねた箇所が余剰になる。

 頭の中の無秩序を整頓することなしに創造はできない。頭の中の無秩序はひとが見るに耐えない。たぶん、他人の見た夢を追体験したら、夢の出来事の無秩序さに気が狂いそうになるだろう。自分が毎晩似たような混乱を味わっているとしてもだ。

 糸を切り取ると糸くずが残る。同じ塊をなしていたのに、残るものと切り落とされるものに分かれる。ひとつの文脈のもとに糸を紡いだとき、切り離された糸くずの方は、多重に重なっていた意味のなかで選ばれなかった可能性の墓場だ。
 創造によって生じるありえたはずの可能性のロストを、彼女は冷静に受け入れられた。彼は拒んだ。だから彼は言及を避けた。うまく言えないから。捨てられた思考ももとは同じものの一部だったのに、捨てた分を汲み取れなかったのは自分の落ち度で、ありえたはずの可能性を貶める事態に絶望した。

 台本を読んで想像した身振りや手振りは、頭のなかでは完璧に思える。台本の内側にあるうちは、役者には非の打ち所がない。でもいざ台詞を発声してみると、想像上に見たあの完璧な声と振る舞いに、自分が程遠いことに気付き、最初はもどかしい。
 頭の中には優秀な補完機能が備わっている。想像の輪郭は常にあいまいであるのに、感覚は多重に引かれたあいまいな輪郭線から最良の平均値を描き、あたかも頭の中で知覚しているうちは明瞭であるかのように見える。ひとたび外界へ向けて想像を発露させると、そのときようやく己の詰めの甘さに気付く。あなたの想像が貧困なのではなく、頭の中の補完機能が優秀なだけだ。むしろ、頭の中には常にもやがかかっているようなものではないか。想像は霧がかったシルエットであり、本当の姿は外界に発露するまで分からない。何度も発露を試みて、練習を重ねて身振り手振りを磨き上げ、霧の中の塑像を練り直し、他人にも見せられるように強固な輪郭を作り直す。
 その過程には完成を見送った塑像もあった。採用されなかった色と形、諦められた形態があった。それら、可能性の幽霊を、彼女は避けられない犠牲だと考えていた。その一方で彼はといえば、常に幽霊の方が正しかったのではないかと、いま生きている方の自分を訝しんだ。彼女は、常にいま打ち勝って現れている方こそ正しい選択だと思っている。覚悟を決めて未来を目指す足取りに迷いはない。彼には彼女の取捨選択を真似できない。彼女は、思慮深すぎる彼を真似できない。

 パラオ。あまたの無人島のひとつにジェリーフィッシュレイクという塩湖がある。周囲の海から12,000年のあいだ隔てられた湖のなかで、クラゲは群れをなして独自の進化を遂げた。人間を刺すことのないクラゲの群れのなかを、訪れた人は共に泳ぎ、クラゲを手のひらにすくうことが出来る。
 エメラルド色の水中に、明るい橙色の透明なピンポン玉たちが群れている。あたり一面にクラゲたちが漂って、水に浮かぶ人の肌をくすぐる。ここにいるゴールデンジェリーフィッシュというクラゲは触手が退化していて、肌に触れても刺胞毒を受けない。
 湖のなかにはムーンジェリーフィッシュという名のミズクラゲの一種も生息している。ゴールデンジェリーフィッシュは日中水面近くを反時計回りに回遊する。水深深いところに暮らすムーンジェリーは夜になって水面に浮上する。クラゲのほかには魚類とカイアシ類が生息している。クラゲたちの生きている水深15mまでの層は生物活動のために少し濁っており、透明度は5m程度である。
 水深15mを超えると湖は形相を変える。水深15m程で湖内の酸素濃度はゼロになり、水深15〜17mの層では嫌気性の紅色細菌が光合成を行っている。太陽光はこのバクテリア層によって殆ど遮断され、バクテリア層から水深約30mの湖底までは、透明度は高いが非常に暗い無酸素層が広がっている。無酸素層は硫化水素を含んでおり、生物の姿はなく、侵入したダイバーの肌を傷付けるため、水面近くのシュノーケリングを除いて遊泳は制限されている。

 ある出来事が真の意味での創造であれば、それだけで、どれほど常軌を逸した暴行も創造となり昇華される。それは厳密な観点でそれが本当に創造であるときに限られる。もし本当に創造であれば、何かを正しくそこに表明することができれば、それを正しく表したために罪悪は創造のもとに許されるだろう。なぜなら、創造は人間の世代を越えて継承される。ある種、カルテのように引き継がれる。人々は新しいカルテを求めている。
 新しい難病は記録されるべきだと、彼女は彼以外の人間のためにそう願った。類稀なる創造の御加護で彼が許されますようにと、彼一人のためにそう願った。本当のところ、私ひとりで彼の記録は務まらないから、自分自身のためにそれら科学の体系へ願いを託した。

 

 壁紙は、明かりを絞った室内灯のため、電球色にあかく温かい。

「試しなら、いいんですけど」
「試しが本当になってもいいじゃない」

 と言って試しに単身国境を越えていけるような人だ。
 目的地がまるで思いつかない。水鏡の塩湖もパラオの塩湖も、足を運ぶ程ではないと思った。あまり、旅行への欲求がなかった。父と母の行きたいところに僕は着いて行った。僕の単純な欲求はいつも「海」と答えることしか知らなかった。

「考えたこともなかったんです」
「でも、孤独になるのが嫌ってタイプでもないでしょ」
「そうですね」
「身体が不安なの?」

 それも、考えたことがなかった。「そうだとも思います」

「気分転換になればいいって思ったの」

 僕は青い塔の続きを空想した。
 黙り込んでしまう。強い風が吹き、背後の窓ガラスを風雨で揺らした。
「ひどい雨」窓の戸締りを確かめようと、彼女が窓際に移る。
 青い塔のことを考える。
 彼女がいるうちに言わなければならない気がする。

「嫌ではないんです」

 背中を向けたまま彼女は困る。
 言わなきゃ分からないと敬司くんは言った。

「僕は恨んだりしていない」
「それに」
「何をしたいのか」

 言おうとしてすぐ言葉に詰まった。

「どうしたの?」

 怪訝に思って振り返りかけた彼女を制した。

「あの、出来れば相槌を、うたないで、振り返らないでください。言おうと思うんです。少し考えることになると思うけど」

 耳が熱くなり、気が落ち着くまで僕は黙って静寂を待った。
 窓に打ち付ける雨の緩急には、心なしか安寧を感じた。
 かねてより出来る限りずっと黙っていたかった。語ろうとして思い出す度に本当の気持ちは上書きされてしまうのだから、一切触れずに沈黙の中に封じておく方が、あの風景に対して誠実だと思っていた。僕は僕の病質を恥じてはいないが、僕の語ることの不出来さを恥じている。いつも伝えきれないことがあること、次第に声の上ずりいくことを。

「美しいんです。僕の風景は悪くない。晴れている。透明で、青くて、水が寄せてやわらかい。風が吹くとさざなみが立って、打ち寄せて、日の光に輝いて、とても美しいんです。本当は皆に見せたいし、本当は貴女にも見せたい。
 でも、誰もいなかった。
 誰も来なかった、ずっと待ってたのに。
 遊ぼうと言った。だからこれからもずっと一緒だって思ってた。今日と明日は連続していて、明日も遊べるんだと思ってた。
 でも、誰もいなくて……何もなくなった。たくさんいたんです、最初は。カイメンと、ウニと、エイと、ウミエラも、ケルプも、クジラも、アジも、ホウボウも、ウミネコも、僕がまだ名前を知らないものもみんないました。“すべて”がいたんです。“すべて”は数え切れないすべてだった。すべてがいるのだからまた会えると思ってた。でも次の日から誰もいなくなった。
 目を凝らしても誰もいない。僕が損なったんだろう。からになった海だけが波を立てて揺れていたって、そこには何の密度も姿もなく、無限よりも豊かに見えていた海は、一切の生き物を失っていて、生き物の数が減れば水は透明度が増すけれどそんなのは虚しい。僕はこの虚しさに耐えたくない。海はもっと生きていて死んでいてやかましく遊んでいる筈で、こんな、誰もいない偽物の海をこれ以上目にしたくない。見ていられない。それも、僕が見てしまうせいでうろの幻覚がそこにあるというなら、僕の落ち度なんです。僕が見なければよかった。
 僕は止めにしたいんです、塔子さん。何もない海ならいっそ、誰もそれを見ないようにして、…………死んで…………滅ぼした方がいい」

 

 約束を守り、相槌なく、手を伸ばして薄い肩に触れた。彼は目を上げなかった。その言葉にはほとんど頷けなかったが、擦り切れて読むことのできない古の石碑のように、重みだけを受け止められた。

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(revision 2017.09.01)

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