
2025/6/1 コミティア152・2025/6/15 文学フリマ岩手10会場で、小説『ファング』購入者や既に書籍をお持ちの方に会場限定の書き下ろしスピンオフ小説の配布を行いました。
『ファング』本編の1989年から2年後・1991年の謙太目線のサブエピソードです。
※ネタバレ注意:本作は小説『ファング』読了者向けのスピンオフ作品です。『ファング』未読の方は、本編を読了後にお楽しみください。
1991 – Unsatisfied
〈コールサック〉の中は真っ昼間でも真っ暗だ。バーカウンターとフロアに暗い明かりを灯して、俺はファングと相対していた。ライブハウスの開店時刻には早すぎてファングのほかにはお客さんもいないし、俺のほかには店員もいない。
「ツケの支払いって言われてもなあ」
ファングは肩をすくめた。壁も天井も床も黒いライブハウスの暗い店内でも、ファングは真っ黒いレンズのサングラスをしっかりとかけて外さない。
「いくら? いつの話? 毎回のD代のこと?」
彼が身じろぎするたびに暗い照明がサングラスにおぼろに反射して揺れた。
「覚えてない? 書面があるんだよ」
俺はファングのサングラスから目をそらして、バーカウンターの下に隠している鍵つきの箱から折り畳んだ古い紙を取り出して見せた。
「むかしお前書いただろ、『トイレ掃除で返します』って」
「だから、それっていくら?」
ファングは尻ポケットから長財布を取り出そうとした。少なくとも去年までは小銭入れしか持ってなかったのに。
「ちがうよ」カウンターの上に紙を開いて広げた。「トイレ掃除で返すって書いてある」
「やだよ、金払う」
「だめだって。ほらここ」
俺はファング直筆の『契約書』の本文を指さした。
「『お支払いできなかった分はトイレ掃除で返すことを約束します。木場太陽』。ほら日付と母印。うちのツケは『トイレ掃除で返す』って約束なんだよ」
ファングは自分で書いたはずの契約書の書面をじっと見た。レンズの向こうにあるはずの目は何を思っているのか分からないが、彼の大きな口はだんだんぎゅうっと歪んでいき、「約束かあ」と最終的にため息が出ていった。「約束なら、しょうがない」
それで、ファングといっしょにトイレに行って掃除の手順を教えた。床をモップ掛けして、個室の便器を磨いて、外の手洗いの流しも磨いて、ゴミ箱の中身を捨てて、ゴム手袋はこれ、モップとバケツはこれ、便器用のブラシはこれ、換えのトイレットペーパーはこれ。不服そうながらファングは黙って話をよく聞いた。
「分かんなかったり、終わったら呼んでよ」
俺が出て行こうとした矢先、ファングは早速声を上げた。
「なんで今頃呼んだの、わざわざ。トイレ掃除させるため?」
手洗い場の鏡に掃除の準備万端な格好のファングが映る。ゴム手袋してモップを構えて、まるで掃除するような格好じゃない派手な柄シャツに、サングラスをして。
とっさに「だって」と答えてしまった。
「今しかチャンスないと思ってさ。お前、すぐまたどっか行っちゃうんだろ」
少しの間を置いて、「うん」とファングは言って、バケツに水をためた。「そっちの約束もあるからね」
俺はフロアに戻って、ドリンクカウンターの灰皿でタバコを吸った。
そうして、フロアと、ステージのドラムセットを眺めていた。
小さくて狭かった。
しばらく留守にしていた〈コールサック〉へ抱く懐かしさは、混じり気のない暖かな気持ちではなく、この場所が寂しくて既にさびれはじめているように感じる悲しい懐かしさとして伝わってきた。俺は余所のハコを知ったから、定員も音響・照明もトイレや楽屋なんかの設備も余所のハコと比べてしまう。余所というのは、この街よりも東京よりも広い意味で、文字通り世界中のことだった。
この1年は目まぐるしかった。
ファングを取り巻くレコード会社やイベント会社の何者かに着いていくまま、俺自身はどこへ連れて行かれるのかまったく分からないうちに、俺はファングの半歩後ろを歩くヒサシになんとか着いて歩いていた。レコーディングと東名阪ツアーと、それからアメリカのイベントに呼ばれたりして、さまざまな都市を目まぐるしく転々とする日々を送り、外国のネオンサインや背の高い外人に囲まれた俺は縮こまってファングとヒサシにくっついていた。状況に対してファングが一番達観しているように見えたし、今でもたぶんそうだった。「またどっか行っちゃうんだろ」と俺がとっさに聞いたとおり、彼にとってはこの目まぐるしさはもはや当たり前の日々になって、近いうちに彼はまた何かに導かれて放浪に出るんだと予感した。以前と違うのは、その放浪が高円寺や中野や新宿の街に留まらず、もうアメリカや世界中のどこにでもふらっと旅立ってしまうってことだ。
今度こそ戻ってこないことだってあるんだろう。
考えてるうちに、短くなったタバコが辛くなってきた。2本目に火をつけようとして止めた。箱の中には残りちょっとしかない。
「終わりましたァ」と間延びした声が聞こえてきたので、様子を見に行くと、ゴム手袋と便所のブラシを手にしたままファングが便器の前に突っ立っていた。
思ったよりも早かったので「ほんと?」と疑いながらチェックしていくと、床はきれいでも個室の掃除はイマイチだった。
「だめだよ、こんなの。黒ずみが残ってる。ほんとに掃除した?」
「えぇ? おれ全部磨いたよ。手ぇ抜いてないよ」
「よく見て」
「わかんねえなあ」
薄暗い〈コールサック〉の薄暗いトイレで、彼は真っ黒いレンズのサングラスをかけたままだ。長く厚い前髪やサングラスで隠した本当の表情は分からない。
俺は、思ったことを口に出してしまう。
「そんなもの、つけてるからよく見えねえんだよ」
声が震えるんだったら、はじめから言わなければいいのに。
ファングはサングラスの向こうからじっと俺を見据えた。見えなくても目が合ったと分かった。
俺がたじろぐ間もなく、「じゃあさ」とファングはつかつかと俺の方へ歩み寄った。
「預かっててよ」
と、顔を近づけて少しかがむ。
ファングの両手はゴム手袋でふさがっている。
俺は両手の指でそっとつまんで、彼の顔に張り付いたサングラスを剥がした。
サングラスはかんたんに彼の顔から外れて、俺は慎重に眼鏡のつるを折り畳んだ。
彼は俺から離れて少し頭を振って、長い前髪が揺れた。
「うん」と彼は呟く。「また終わったら呼ぶ」
うん、と俺は言う。待ってるから。
サングラスの外れた彼の顔は昔のままではないような気がした。それは俺たちが少し年を取ったからでも、経験を積んだからとかでもなくて、もっと大きな秘密によって何かがこっそりと変わってしまったのだと本当は気付いていた。
それが良いことなのか分からない。
良かったんだろう。きっとファングに高円寺や東京は小さかったんだ、この箱は小さすぎて誰もファングを見つけられなくて、彼はようやく(楽屋の隅にうずくまったり)(あのトイレにうずくまっていて)(俺が水を寄越して)(そのとき俺を見上げた彼の顔が、なぜか、優しくしてやりたいなと思ってしまうような顔で)(お客さんが捌けるまで背中をさすってやった俺は)(それから俺にはじめてフォークという音楽を聴かせた彼は)(あこがれは)(いなくなった彼は)(空白は)(そして俺たちは)、ようやく、おのれの立つべき旅路に辿り着いたのではないだろうか。
俺は27になって、あのときのファングの歳に追いついて、旅路はみっつに分かれた。
俺は一緒に行けない。
かつて俺たちがここで交わしたバカ話は終演後のスモークみたいに立ち消えて、もうここにはない。
サングラスのつるを広げてレンズを光に透かしてみた。
彼が何を見据えているのか知りたかった。
それで、ほんの出来心で彼のサングラスを俺もかけてみた。
ドラマーっていつも後ろからフロントマンの背中を見てるばかりだろ。光はいつも俺たちの後ろから差して、お前の顔は見えないから、こうすれば、あいつと同じものが、俺にも見える気がして。
見てみたくて。
なんにも見えなかった。
Unsatisfied – The Replacementes (1984)
Apple Music / Spotify
プリント版
120*120mm 16p
巻末リンク集
『ファング』あとがき・設定・蛇足情報
https://libsy.net/blog/3823
プレイリスト(Apple Music)
https://music.apple.com/jp/playlist/for-fang/pl.u-2aoqXg6CqARNKz
頂いたご感想まとめ
https://misskey.design/clips/9tnqbl1sa8
category : novels / portfolio : personal works